2週目:みかん箱(魚くさい)

ふわふわする。
誰かが何か言っていたようなそうでもないような、何かを思い出させられたような忘れさせられたような、久々に水の中に沈んでいくような。
そう、水の中はとても暖かくて、冷たくて、凍るようで、柔らかで、――そしてとても懐かしい。

『   』

懐かしい。懐かしい声がする。
その声は、その声を持つひとは、もういないと思っていたのに。見送ったのだ。そうでなくなるのを。
そのはず、なのに――





「……んえ?」

目を開けたら、そこはみかんの中だった。
比喩でなく。本当にみかんの中だったのだ。みかん。周りのどこを見てもみかん。みかんそしてみかん、そしてその中に埋もれている自分も。みかん。

「……えう」

みかん。あるいはロールランジュメルフルール。それが自分の名前だ。みかんみたいな髪してるから、みかん。そう名前をつけてくれたのが、飼育員のタカミネ。
みかんは人魚である。水族館で飼われている人魚だ。母親と一緒に、アルカールカ水族館という名前の水族館で、一緒に暮らしている。
何が言いたいかって言うと、つまりみかんがみかんの中に埋もれているのは、どう考えても異常事態なのである。みかんは水槽の中にいるべき存在なので、みかんに囲まれているのはどう考えてもおかしいのだ。みかん(魚)はみかん(果物)に囲まれないのが普通なのだ。それはさておき。

「……」

おなかすいた。
みかん(魚)はみかん(果物)が好きである。タカミネが剥いてくれる。自分だと顔や手をべたべたにしてしまうからだ。今ここにはみかんが山のようにある。みかんonみかんだし、おいしそうな匂いがそこいらからしてくる。ひとつくらい食べてもいいのではないか。なんてったって、これだけたくさんあるのだから!
思わず辺りを見渡した。みかんしか見えなかったのでみかんの中から顔を出すと、そこはなんとなく、いつもの水族館に雰囲気は似ていた。でもさっぱり魚臭くないのだ。みかんに囲まれているから鼻が利かないのかもしれない。
だいじょうぶかな。食べたら怒られたりしないかな。でもおなかすいた。

「……んんー!!」

一個くらい。一個くらい大丈夫。
そんな思いで手を伸ばして、みかんをひとつ手に取って、皮を剥くのも面倒で、そのまま口に放り込んだ。ちょっと苦い。けど甘い。甘くておいしい。

「んま」

一個。二個。もっともっと。
そうやってみかんを食べ始めてからの記憶が、さっぱりないのである。


――ほぼ時を同じくして、水族館と言い張るには遥かに手狭で設備も足りない店舗の中で、男四人と人魚一匹が立ち尽くしていた。訂正する。立ち尽くしていたのは男三人で、人魚は一人の男を捕まえてこれでもかと頬摺りをしている。哀れな男の黒い服は、水から上がりたての人魚によってびしょ濡れにされていた。

「状況を整理しようか。俺達は確かにアルカールカに出勤してきたと思ったが、なんか知らんがどう見ても水族館じゃないところに来た」
「コンビニだな」
「コンビニですね」
「もう救いようもなくコンビニだね。何でだよいやマジでおかしいだろこれ」
「……まあ俺たちとベルと、……ついでにそいつがいるあたりからして、人魚飼育部がまるごと持ってこられた、ということになるか」

言い方が気に食わなかったのか、人魚が頬摺りをしながら睨みつけてくる。ふん、と軽く受け流して、飼育員のうちの天パの方――リンジー・エルズバーグは、深く深くため息をついた。
どう考えてもおかしいことがいくつかあるのだ。ただ、どうやら状況は深く考えることを許してくれないらしい。

「しかし」
「ん?なにリンジー」
「どうしてジョン・ブラックがいるのかも分からないし、どうして――」

がたん。

「……。……俺たちで全部だと思っていたんだが」
「マージで?」

コンビニもバックヤードと言うのだろうか。そちらの方から物音がして、男たちの視線が一斉にそちらに向いた。人魚が一拍遅れてそれに追従する。

「さて」
「タカミネさん」
「あい?」

とん。
リンジーともう一人――飼育員の糸目の方、ノア・アーミテッジの手が、タカミネと呼ばれた男の肩に置かれた。タカミネも飼育員だ。ショウ・タカミネ、飼育員の童貞の方。
一人だけ170にも乗らない、この中では小柄な枠に入ってしまうタカミネを、180超えの飼育員二人が見下ろす。無言の圧力だった。

「見てこい」
「見てきてください」

人魚はこういう時、タカミネの味方につかない。
普段一番タカミネに懐いている人魚は、至極あっさりと彼を裏切って、ノアの後ろからぱちぱち手拍子をしていた。もちろんついてくる気はないし、彼女がいなければジョン・ブラック――この中で唯一、水族館と関係のない男に、何もかもを丸投げすることで飼育員の意見は一致していた。関係ない、というのは今となってはもはや嘘となる言葉なので、雇用関係にある、とかにしておけばよかったのかもしれない。

「ジョンブラックさんどう?一緒に?来ません?どうですか??」
「あっ、その」
「分かったベルすけそんな怖い顔しなくていいから分かりました俺一人で見てくるから」

人魚に愛された男。水族館ともはや関係が切っても切れない男であるジョン・ブラック……というより、その傍らから離れない、アルカールカ水族館の人魚ベルテットメルフルールのプレッシャーに、タカミネは完全に負ける格好となった。無理だ。勝てるわけがない。いろんな意味でだ。

「じゃああのなんかあったらよろしくお願いしますよマジで」
「骨は拾いますよ、たぶん」
「ノア」
「何か」

いざ。得体の知れない物音のするコンビニのバックヤード(でいいのか?)へ。タカミネは一歩踏み出す。そっと扉を開けて、中を覗き込んだ。電気はついていない。スイッチを探して壁を探る間に、妙なことに気づいた。

「……うわっみかんくせえ」

柑橘の香り。それこそむせ返るような、濃密な柑橘の香りだ。それがドアの向こうに満ちていた。よく漏れてこなかったなとも思う。ようやく探し当てた電気のスイッチを入れると、その原因はすぐに明らかになった。
空いた段ボール。それも一つや二つではない。大量のみかん箱が部屋を埋め尽くしていた。みかん箱だけがただただそこに積み重なっていて、肝心のみかんはどこにもない。

「……は?」

言っているそばから、がたんと音がした。積まれた段ボールの奥の奥、どうやら何かが動いている。

「……いやみかんは?みかんどうしたのこれ?」

突っ込むところはそこではない気がしたが、言わずにはいられなかった。
それに答える声があるとも、欠片も思っていなかったからなのだが。

「んあい」
「あ?」
「みかんよばれた!みかんいます!」

喋るみかんがいた。幸いにしてタカミネは、喋るみかんについてはよく知っている。魚の方だ。どうやら本当に、アルカールカ水族館の人魚飼育部がまるごとここにいるらしい。
空の段ボールを掻き分けぶん投げ声の出元に近づくと、長靴でみかんの皮を踏んだ気配がした。バナナじゃなくてよかった。後方を見もせずに、段ボールを放り投げると、見覚えのある橙色が目に入った。毛先に行くにつれて赤くグラデーションの入った、幼魚。人魚の子供。
めいっぱいみかん(果物)を口に頬張ったみかん(幼魚)が、段ボールとみかん(果物)に埋もれて転がっていた。悪びれた様子もなく。

「……。……みかん」
「あい」
「なにしてんの」
「……。……わかんない……おなかすいてた……」
「そうだろうな」

目の前の幼魚がみかんを食い散らかしていたのは、状況からして自明である。しかし空いた段ボールの数は、どう考えても幼魚が単体で食い尽くせる量ではない。
三秒ほど考えてみて、タカミネは考えることを放棄した。そもそも出勤してきた先がコンビニになっていた時点で、いろいろなものが破綻しているのだから。

「まあいいや。なんかよく分からんけどみんないるから、みかんも来い」
「みんないる?」
「そそ。ベルすけもリンジーもノアも、あとついでにジョン・ブラックもいる」

幼魚を段ボールの中から回収する。それだけでみかんの果汁がタカミネの手について、いったいこいつはどれだけのみかんを食べたんだと思わされる。やめよう。深く考えてはいけない。

「たー」
「何だ何だ」
「あんね、みかんね、いまいっぱいうれしい」

できたらあとでこの幼魚を丸洗いしたい。さすがに水槽はなさそうだし、ホースがあればどうにかなりそうではあるけれど。全身から漂ってくる柑橘の香りと本魚特有の生臭い香りが混ざって、結構いや相当えげつないにおいがした。

「なんで?」
「……わからん」
「おうそっか。まーとりあえずみんないるとこ戻ろうな」
「んあい」

もと来た場所に戻るまでが、妙に長い。

「たーみね」
「はいはい分かった。お前今めっちゃ臭う、すごい」
「みかんすごい?」
「超すごい」

電気を消す。そうやってから、店舗側に出る扉を押し開ける。
真似をした幼魚の手が空を切り、何とも言えないにおいがタカミネの鼻孔をくすぐった。

戻ってきたタカミネを出迎えたのは、濃灰のパーカーに袖を通した大きい方の人魚だった。タカミネに飛びつこうとして、漂うにおいが嫌だったのかとんぼ返りしていく。ちょっと傷つくのでやめてほしい。

「お。ベルすけそのパーカーどうした」
「なんか人数分あったので、制服ってことじゃあないかと」
「なーるほどねー。水族館のアレ的なアレね」
「そういうことですね」

ベルはジョンとお揃いがとにかく嬉しいらしく、ぴょんぴょん飛び跳ねては抱きつくことを繰り返している。そういえばネックレスがないので、ここにいる限りで彼女の言葉はボディランゲージしかないようだ。頑張れジョン・ブラック。すでにだいぶ困った顔をしているのに、タカミネはそっと親指を立てた。
芳醇な香りの小さい方の人魚を丸洗いするのに、店の外に出て水道を探す。神妙な顔をしたリンジーが、夕闇に染まる空を見上げていた。

「おっどしたのリンジー。らしくなあいー。エッ何?彼女に振られた?祝うよ?」
「うるせえよ童貞。お前はそれだから童貞なんだ」

何も変わらない。変わっていない。変わるはずがない。
ひとつため息をついて、何か言おうと思って、吸い込んだ空気はやたらに魚……と、柑橘臭い。

「うっわ何だこれ」
「みかんすごい?」
「すごいどころじゃない」

問おうと思っていたことは、全部柑橘のにおいが持っていってしまった。
当人(当魚と言うべきか)は、自分の惨状などは欠片も理解せず、ただにこにこ笑っている。何も変わらない。変わっていない。

「あーそうそう。丸洗いしたいと思ってさあ、水道どこ?」
「もうちょっと奥……そこの隙間入った裏」

夕闇に淀んでいる空の下、大きい方の人魚が、男二人と協力して、コンビニの看板を掛け替えていた。アルカールカ水族館、夕闇国支店。場所がちょっと変わっただけで、その名を冠した水族館の、人魚に関わる人間たちが集められた"ちょっと変わった"コンビニエンスストア。
人魚のいる水族館。人魚のいるコンビニ。いる場所が変わっただけだ。何も、他のことは、変わっていない。

「……」
「リンジーさん。手伝ってもらっても?」
「分かった。今行く」

そうして【水族館のコンビニ戦争】は、橙色の空の下から始まるのだ。