5週目:アルカールカ水族館ペアチケット

朝から身体が重かったのは、よく覚えている。この世界では、ひどく曖昧な時間が流れていると思ったのも、覚えている。
一週間。一週間はほんとうに自分らのよく知る一週間なのだろうか?そう思うことすらある。そうして辿り着いた、日の傾いたままの世界の、自分たちの店で。それを改めて実感することになった。

「リンジーおっそーい。遅刻じゃない?」
「……は?」
「いやは?じゃなくてさあ、寝癖ひどいよ?寝坊か?あっいや天パか。悪い悪い」

露骨な嫌な顔をしたところで、タカミネには効きやしないのだ。そもそも今のは嫌悪ではなく、疑問の声だ。訂正するのも惜しい。
視線を遣る。ノアもいる。ジョン・ブラックもいる。いるには、いるけれど。

皆が皆、昨日までの姿ではなかったのだ。

「……」
「寝ぼけてるなら顔洗ってきたらどうですかねリンジーさん」
「そうする……」
「そもそも大丈夫か?顔色悪いよ?」

一言で言えば、みな老けた。年を食った。
ついぞこないだまで若い――と言っても20代後半の男たちとついでに人魚で占められていたはずの店は、一気に中年で埋められてしまった。どこぞの別店舗といい勝負だ。そしてそれは、自分も等しく同様に、そうだった。

「――どういうことだ……?」

トイレの洗面台、鏡の中の自分は、ひどくやつれているように見えた。何かに疲れ切っていて、どこからか逃げ出したくて、それでも逃げ出せない顔。逃げ出す訳にはいかない顔。
思考する時間が欲しかった。このどうしようもなくわからない世界の、ふざけきった現象を思考する時間が欲しい。そうしている間にも、店舗の方ではこれからの準備が進められている。ひとが押し寄せてくる前に、店のものをああでもないこうでもないと並び替えて、少しでも多くのものを買わせるための。リンジーが一人で放り出されたら、とてもじゃないけどそんなことできる気はしなかったし、四人と二匹でよかったと切実に思っている。それはそれとして、今の状況は別問題だ。

「……そ、そうだ、」

もしかすると、だ。この謎のコンビニに集まってきたときからそうではないかと思っていたことが、本当にそうなのかもしれない。
そう思って、あるいはそう思えて、ようやく外に出て行く決心がついた。たとえばもし【自分だけが】そうだとしたら、これ以上続けていたくはないし、【自分以外にも】いるのなら、あるいは。


ジョンの眼前にいる子供の人魚は、もうすっかりみかんの段ボールに収まるには苦しくなっていた。みかんもてつだうよ!と言って聞かないので、軽いものを一緒に運んでもらっている。
記憶にはない姿だった。けどこれが、順当に進んだ姿なのだろうと、どこかで確信していた。自分などいなくとも、あの子はここまで大きくなるだろう。そしていずれ、自分のことなど忘れていくのだ。人と人魚の寿命は、あまりにも違いすぎる。男が5回ほど生まれて死んだって、人魚はまだ一回目の生を生きている。

「……みかん。重くないか?」
「んーん!ぜんぜん!ちょーよゆー!」

よく喋るようにもなったし、よく動き回るようにもなった。初めてこの子の説明をされたとき、人見知りをするなんて言われて、自分が拒まれたら笑うしかないな、と思っていた。――そうだ。自分の子。それは、遺伝子検査までやらされて、確定している。それでも自分は、この子のことを、ほとんど知らない。自分の手元にもいないし、置ける価値があるとも思っていない。自分よりずっとこの子の――人魚のことを識っている、彼らの下にあるのが、一番彼女らが幸せなはずなのだ。

「そっか……」
「どしたの?みかんなんかもつ?」
「いいや」

目的の場所に荷物が置かれる。倣って持ってきた荷物を置いた幼魚を、空いた両腕で持ち上げる。運んできた荷物よりずっと重いが、それでも苦痛には思わない。なによりも守りたい(――守る資格など無いことは分かっているが)いのち。

「大きくなったなあ、ローラ」

もはや誰も呼ばなくなった名前で。
穏やかな声が、子供の人魚を呼んだ。

「! んへへー」

ロールランジュメルフルール。それがみかんの本当の名前だ。みかんと呼ばれるようになったのは、タカミネがみかんの髪の色を見て、みかんみてーだなと言ったからだ。……と、聞いた。ベルテットメルフルールがベルと呼ばれるように、ロールランジュメルフルールはローラと呼ばれるはずだった。
今ではすっかり、アルカールカではみかん呼びのほうが定着してしまっている。人懐っこいがおとなしく人の言うことを聞き、ちょっと人見知りをする。笑うとベルに似てかわいい。

「ほんとに。――ほんとに、大きくなったなあ」
「おとーさんみかんおもい?おもいか?」
「ううん、重くない」
「ほんと?タカミネいつもみかんのことおもてえっていう」

記憶にある重さの何倍かに大きくなった子供は、誰かに似てよく喋る。
けど、それは、自分ではない。違う世界に生きているからだ。水族館とそれ以外。人間と人魚。それを繋いでいたのは、水族館だ。それも、アクリルガラスで隔てられていたはずだったのだ。
――それを乗り越えたのは。乗り越えてきたのは。乗り越えさせたのは。

「ほんとだって」
「そっかあ」

考えることを、やめる。
今はこのあたたかい、不思議な箱【コンビニ】の中にいさせてほしい。
ここならきっと誰も苦しい思いをしなくて、寒い思いもしないのだ。雪の降っていたあの日も、すべてを投げ出したあの日も、今だけなら無に帰ってくれる。確かにそう思ったのだ。

「おっきくなったなあ」
「にどめだあ」
「そのくらいびっくりしたんだ」

小さな手が、首に回されてくる。そのままぎゅっと抱きついてくる幼魚の魚臭さは、全く気にならなかった。自分のほうが煙草臭くはないかと、心配するほどだった。

「あ」
「ん?」
「リンジーだ」

幼魚が見ている方向に身体を向ける。何度か見たことがある男は、知らない姿で立っている。癖っ毛がそのままなおかげでなんとか判別はつくが、その程度にしか覚えていなかった。こちらに来てから随分と嫌われていたことが分かって、とにかく居づらくてたまらなかったのだが。

「ああ、えっと……何かありました?」
「いや。ちょっとみかんを借りて行きたかったんだが、邪魔するわけにも行かないしなと」
「いや、おかまいなく。もう十分なくらいで……俺なんかがこんなに一緒にいられるなんて、ほんとうに夢みたいだ」

抱えられたままの幼魚をそのまま飼育員の方へ受け渡すと、ジョンは最後にみかんの頭をわしゃわしゃと撫でた。何度も、何かを惜しむように。
不思議そうな顔で見上げてくるみかんに笑いかける姿は、どうしようもなく父親だった。

「……何だ。最後の別れみたいに」
「いやあ、まあ……客の相手してる最中なんか、こんなことできないじゃないですか」
「それはそうだが」

違和感。
僅かなそれをかき消すように、無邪気な声で幼魚が笑う。

「おわったらまたぎゅーできるよ」
「……そうだな。そしたらまたお父さんのところでも行って来い、俺じゃなくて」

それじゃあ俺は先に戻ってますね、という声を聞きながら、リンジーは腕の中のみかんに目を落とした。
知っている姿だ。知っているも何も、リンジーはみかんが生まれたときだって知っているし、別の水族館に行ってからだって、タカミネとは密に連絡を取り合っていたし、――そう、今日から一人だけパーカーじゃないのは、その別の水族館の制服だから、なんだろうけれど、ひどい疎外感がある。確かにこの歳の自分はまだあの水族館にいたが。

「はあ……」
「……リンジー?だいじょうぶ?」

――誰もいない会議室。膝の上においたパソコン。すんすん泣いていた幼魚。

「――ッ。……ああ、うん……」

嫌なことを“思い出して”、一呼吸置いた。
それこそ全身の毛が逆立つかと思ったくらいには、もう二度とやりたくはないことだった。あれはもう悲劇としか呼べない。その引き金がセットそれたのはもう何年も前で、それさえなければきっとあんなことは起こらず、いや先に誰かが犠牲になっていたのだろうか?
分からない。分かりたくはない。知りたくない。今知りたいことは別にある。
数度深呼吸して、嫌な記憶を頭の外に追い出して、ゆっくりと歩みを進めながら。ずっと思っていたことを、問いかけることにする。

「みかん。ひとつ、聞いていいか」
「うん!いいよ」

純粋無垢な藍色の瞳が覗き込んでくる。先程までいた男と、同じ色の目。

「みかんは……みかんは、覚えているか?」
「なにを?」
「……俺と一緒に、タカミネの家に行ったこと」

きょとんとした顔だった。なんでそんなことを聞くのだろうと言いたげな顔で、睨むように見てくる。それから当然だと言わんばかりの返事が返ってきた。

「おぼえてるよ!どれ?」
「――いや。いい、十分だ」

頭を切り替えていく。問いかけの時間は終わりだ。押し寄せる得体の知れない客に備えなければならない。人付き合いはもともと苦手なのもあって、えらく精神を使うのだ。
どこか不服そうな顔のみかんを地面に下ろしてやってから、軽く肩を叩く。

「さあ。準備をしよう、みかんも手伝ってくれな」
「……。……うん。リンジー、無理はだめだよ」

その笑顔は、確かに見たことがあった。どこかで。