6週目:舞い降りる神、海の香を連れて

一面のノイズと、
一面の海と、

――切り取られた海の箱庭。

はっと目を開ける。そこは大海原だった。自分は確かにコンビニの中にいる。いるが、窓の外は海だった。小魚が泳いている。自分の知る狭い海より遥かに、――そうずっと遥かに広大で雄大な、海そのもの。
何故水圧でガラスが割れないのか、ここは水族館(ということになっているコンビニ)なので、実は水槽と同じようにアクリルガラスなのかもしれない。トラックが突っ込んできてもたぶん怖くないわけだ。たぶん。そう思っている間に、別の疑問がすっと眼前に舞い降りる。

「久しいな、メルフルールの子」

圧倒的な存在がそこに降臨する。有無を言わさぬ圧で以て、その場に現れる緑色。鼻先を掠める懐かしい匂いは、海の香り。
女でもあり男でもある、生命でもあり自然でもある、そしてそのどれでもないもの。全てを凌駕し超越し、その上に君臨するもの。ひとの手の、人だけでなく全ての生き物の手の届かぬもの。
さながら長耳の人種に見えなくもない人型に擬態したそれは、――二匹の見知らぬ子供の魚を連れて現れた。

「……。……かみさま」

相手が誰であるかは、自然と分かった。ひとよりもずっとバケモノで、近い存在だから、そういう気配には敏い。そして、それゆえに、ここに現れたことに、何も驚かない。
連れてこられている子供が、じっとこちらを見てきている。

「どうして?」
「どうだ?今、幸せか?」

靄がかかったように思い出せないことがある。何が思い出せないのかも分からないまま、“かみさま”の問いに対して、こくこくと頷きを返すしかできない。
満足げに笑った“かみさま”が店を歩くと、足がついた場所から波が広がって、床が不定形のもののように揺れた。

幸せだ。今、とても幸せだ。
みんながいる。いない人はいない。言えなかったことも言えたし、できなかったこともたくさんできた。
まるで夢みたいな。ずっと夢見てきた。誰も悲しくならない世界。切り取った箱からさらに切り取ってこられた、あまりにも狭い箱の中。

「なれば良い」
「うん。わたし全然覚えていないけれど、あなたにはありがとうって言わなきゃいけないことは、わかるよ」

見上げた“かみさま”の背丈は、きっとリンジーやノアよりも高い。女の人のような見た目で、女の人のような服を着ているのに、どうして男の人の声で喋っているのだろうか。
“かみさま”の傍らに立つ子供は、じっとこちらを見続けていた。何も感じられないような、――何も感じさせないような目で。片方は青色の目。もう片方は緑色の目。何処かで見たことのあるような色で。

「かみさま。どうしてその子たちは連れてきたの?」
「良き問だ」

薄緑色の髪の子。薄桃色の髪の子。緑の方が青い目で、薄桃の方が緑の目。緑の目の子は癖っ毛がすごい。二人ともちょうど、段ボールに収まれそうなサイズの子供。

「ここにいるのは可能性の獣。枝分かれした先のもしもの形」
「もしもの形……」
「不確定の未来だった頃の話さ。今はもう、未来は確定した。その結果がお前だ」

ジョン・ブラックが未来を確定させたのだ、と。“かみさま”はそう言った。あまり難しいことは、分からない。けど、つまり自分の父親が自分の父親になってくれたことで、自分はここにいるのだろう。そういうことを、言ってるのだと思う。

「けど、どうして?かみさまは、もしもの世界にも行けるの?」
「当たり前よ。何れ消えるだけの可能性の世界、そこから掬い上げてきただけだ」

外側の形だけを掬い上げてきたから、まだ中には何もない。そう言った“かみさま”が、子供たちの頭を撫でる。彼女たち――不思議なことにそうであると確信していた――は、身動き一つしない。

「“もしも”なら、もうすでに一つ囲ったあとなのでな」
「“もしも”は、囲えるものなの?そうならなかったものは、どうやったって手に入らないように見える」
「ふん。それは生きているものの思考よな。わを誰だと心得ている」
「かみさま……」

緑色の髪のようなものは、髪ではない。近くによって見ればよくわかる。それらを無数に長く靡かせて、“かみさま”は満足げに笑った。

「だが。忘れるなメルフルールの子、わが如何に神であろうと、万能ではないということを」
「かみさまにもできないことがあるの?」
「向き不向きがあると言うことだ。そうでないなら唯一神一柱で十分であろうよ」

世界が揺れていた。切り取って来られた狭い狭い世界が、ぎしぎしと悲鳴を上げている。
それはまるで必然性があったかのようで、【いずれこの箱は崩れる】と、すぐに分かった。何も。何も不思議に思うことなんか、ない。だって初めからそうできている。そこに全く疑問は抱かなかった。

「もう一度問おう。今、幸せか?」
「うん。それはもう、疑いようがなく」

初めからそう望んだのは、自分なのだ。

「なればよい。この箱はいずれ終焉へと向かう。故に備えよ。故に心得よ。お前が切り取ってきたものはもう一度繰り返すのだ」

一番引っかかっていたことは、もう過ぎていった。
あとはもう、きっと大丈夫。

「――そう切り取ることを望んだのはお前だ。だからこそわでも手が出せたと言うべきであろうかな」
「うん。それは大丈夫。けどわたし、ほんとに覚えてないんだ。大丈夫だけど、心配になる」
「フン。神との関わりなど覚えておかぬほうが良い。同じ世に生きるのなら尚よ」

今日この時も忘れるだろう、そう言って“かみさま”は踵を返す。
後ろに小さな魚たちが続いていく。いつかの自分と随分背格好の似た、子どもたち。

「かみさま。行ってしまうの?」
「そのつもりでおったが、一週借り受けるのもまたよいかも知れぬ」

“かみさま”の歩みが止まると、同じように子どもたちの足も止まる。自分の意志がないみたいな、従うしか無いような、そんな。

「わが【茶葉戦争】を切り抜けた力を見せつけてやろうではないか。昆布茶を並べてやろう」
「……コンビニだよ?」
「変わらんじゃろ」

外の景色がするすると溶けるように変わっていく。海は消え失せていく。どこまでも青い海の下から現れたのは、永遠の夕闇の空だ。
“かみさま”に手招きされた子らがひたひたと歩みを寄せ、自分の前でぴたりと立ち止まった。

「そうじゃ。ひとつ頼まれてはくれないか。此奴らを確定させてやれ。名で縛り留めよ。これはわがお前達をここに連れてきた対価として要求する」

名をつけること。それは自分たちにとって、特に重要なこと。そう教わったわけではないが、精神の最も深いところでそう分かっている。なので、自然と背筋が伸びた。

「どうしてわたしに頼むの?」
「ここに他に頼めそうな人がおらんからに決まっておろうよ。片方は認めぬだろうし、片方は見もせぬ」
「ここで縛らなかったらどうなるの?」
「可能性の獣に過ぎないうちに消えるだろう。わがここを離れたらすぐにでもな」

瞬きもせずに。青い目と緑の目が、じっと見つめてきていた。
急に手のひらの上に二人分の人型を置かれてしまって、ぽかんとする。けれどずっと深いところで、いつか自分も必ずそういうことをする、という確信もまたある。
心より深いところで。本能で。

「じゃあ」

かと言って、急に気の利いたものが出てくるわけでもなく、相応に知識があるわけでもなかった。なので、自分がされたのと、同じようにすることにする。
少なくともそれは、とても嬉しかったからだ。自分にとっては。

「こっちは、さくらもちみたいな色してるから、さくら」
「さくらもち」
「んでこっちが、……あの、青いみかんって何ていうんだっけ」
「……青いみかん?……すだちか?」
「それ!すだち!」

髪の色でそう言われたように。
そうして得た名前を、本当に気に入っているのだ。

「……。……まあ。まあ良い、良い」
「ふふん」

“かみさま”は何故か渋い顔をしていた。その横で、まさにたった今名で縛られた幼魚たちが動き出す。無から有へ。可能性の獣から、そうでない何かへ。

「……」
「……」

互いに顔を見合わせて存在を確認し合う。二匹はきっとこれからも“かみさま”の元にいるのだろう、“わたし”の可能性だった彼女たちは。もう“わたし”になることはないし、その可能性はたった今永遠に潰えた。

「ねえねえ。おとうさんは誰?」
「……すだちの?」
「……さくらの?」

興味本位。あるいは確認のために。魚の髪色は父方から遺伝する。ちゃんと法則があるのだ。なので分かっていることを、聞いた。彼らの口から可能性を確かめたかった。

「ここにいないよ。けどここにいるよ」
「ここにいるよ。けどここにいないよ」

全く同じタイミングで口から発された言葉を聞いた。微妙なズレが生じていた。
おや、と首を傾げる間に、“かみさま”はいつの間にやら、店の裏側へ回っていたようだった。気配があれど、姿がないのだ。

「……そっかあ……わたしのおとうさんはいるよ」
「そうなの?」
「そうなんだ?」

揃って首がかしげられた。



『――さてお前たち、そう不服そうな顔をするんじゃあない。今から一人ずつきちんと話をつけてやろう』