7週目:マフラー(モスグリーン)

ジョン・ブラックと、連絡が取れなくなった。店にも出てきていない。
思わず店のトラックを確認して、どこにも何もついていないことを確認してしまった。そもそも動いた形跡がなかったのだが。
露骨に不機嫌な顔を見せている人魚の大きい方は妙にタカミネに突っ掛かっているし、タカミネはその対応で全く店に手が回らない。ただでさえ一人減ってしまったのに、二人(正確に言うと一人と一匹だが)ほどどうにもならない。何故やたらにタカミネに突っ掛かっているのかは、リンジーには何となく理由が察せた。

「……困ったな……」

これは、そう。
今までをなぞっているのだとしたら、次にいなくなるのはそこの二人だ。より正確に言えば先にベルテットメルフルールがこの店から“脱走”し、その相手をしている飼育員は使い物にならなくなる。
さて、この夕闇の下で脱走した人魚はどこへ行く?そもそも夕闇の下のジョン・ブラックはどこへ行った?

「……」
「うわっ、なんだベル」

八つ当たりのように商品棚を蹴って、バックヤードに消えていった人魚の背が、揺らいだように見えた。思わず目を擦る。

「……?」

何も起こらない。引っ込んでいった先のバックヤードすら、やたらに静かだ。何も聞こえない。周りにいるはずの他の声も、何も。
無音の空間に閉ざされる。自分しかその世界に存在していないような、そんな。そんな感覚もごく僅かで、はっと目を開けたときには、いつも通りの世界が広がっている。
――訂正する。いつも通りだったものから、少しずつ何かが欠けていった世界が。広がっている。

「――本日からお世話になります、リズクロア・シアーです。よろしくお願いします」
「……ぴぃーっ……」
「ベルすけ止せってもう……よろしく。早速だけど配置についてもらって……」

そこには知らない人間がいた。
いや、名前は聞いたことがある。リズクロア・シアー、ちょうど、アルカールカの自分が抜けた穴を補うように人魚飼育部に入った、二つ結びの大卒の新人。
――二つ結び、だと、記憶していたのだが。

「リンジー?いい?」
「あ、ああ」
「リズクロアにいろいろ教えてやってー」
「分かった」

違和感が拭えない。そのままリズクロアに相対すると、小柄な見た目からは想像し難い強い視線で睨まれる。――記憶と違う。ここも。
自分の記憶にいるリズクロアは、芯の強さこそあれど、それを全面に押し出してくるようなタイプではなかった。

「よろしくお願いします」
「よろしく」
「リズクロア。髪を切りました?」
「は?」

物音を立てずにすっと横にやってきたノアが、彼女に不意にそんなことを聞いた。
黒髪が揺れる。短く切りそろえられた髪の下から、金色というにはいささか濃い色の目が覗く。

「……失礼しました。突然の質問に動揺しまして」
「いいえ、こちらこそ突然申し訳ありません。髪を切った貴方も可愛いですよ」
「そ、そうでしょうか。もう切ってからだいぶ経ちますけど、そう言われたのは初めてです」

150cmあるかないかというところのリズクロアを見下ろして、180オーバーの男二人が顔を見合わせたのは、ごく一瞬のことだった。
亜麻色の髪の下の紫が、言葉よりも雄弁に「あとにしましょう」と語っていたからだ。

「では、リズクロア。簡単に説明するが、アルカールカよりも何も気にしない精神力がいる。先週は客が総じてゴリラだった」
「ゴリラ」
「ゴリラ……」

先週、と自然に口に出してから、首を傾げそうになった。思い留まる。
先週店で何かをした記憶が全くない。にもかかわらず、当然のように店に入荷した商品は把握していたし、今だって、先週の客については覚えていた。

「ゴリラに限らず……何かよくわからないものがたくさん来るから……その辺狼狽えないように……と言っても、見ている限りで大丈夫な気はするが」
「はい。見た目以上に肝が据わっているとはよく言われます」
「頼もしいな」

店はきっと、問題なく回っていく。そう思った。
その他細々とした諸作業をリズクロアに手解きしながらも、リンジーの頭の中は別の疑問に支配されていく。

――欠けたものが思い出せない。


リズクロアは覚えがよかった。若いからだろう、という意見で飼育員三人の意見は綺麗に一致したが、バラバラなことを言うことが一つある。
それは、彼女に対しての印象だった。

「大人しくていい子」
「気が強い子」
「前と比べて随分過激になった」

一人路線の違うタカミネが首を傾げている。とてもじゃないがリンジーはタカミネの側につくことはできず、ただ彼の言い分を聞き流すことしかできない。
大人しくていい子は、人を睨み上げては来ない気がする。背が低いから舐められるようなこともあったろうとは容易に想像ができるが、それにしても殺意が全面に押し出され過ぎではなかろうか。

「まあ、いい子であることに変わりはないですよ。リンジーさんはほとんど知りませんものね」
「ああ、うん……ちょっと顔を合わせたくらいだ。タカミネが入院してたときじゃないかな、まともに話したの……」
「……え?」

おまえは何を言っているんだ、と言いたげな視線が、突き刺さる。一人は確かに疑問で、もう一人はそうではなかった。――ついに口にしてしまったことを咎めるかのような、紫の目。

「あ?」
「いや俺入院したことないよ。ないない。生まれてこの方えーと……よん、……よんじゅう……この話やめよう結構心に来る。いやともかく病院の世話になったこと骨折ったときくらいだからさあ、なんか人違いなんじゃない?」

少し前から感じていた違和感が、明確に形になって現れる。
そしてその答えの出し方は、ひどく簡単な問いかけで済むことだとも気づいた。軽率に口に出したことを後悔してから、頭を振った。

「……悪い。誰かと混ざったみたいだ、アリスだったかもしれない」
「疲れてるんですよ。リンジーさん接客ゲロクソ苦手じゃないですか」
「あーそっか。そうだな。無理すんなよリンジー」

珍しく助け舟を出してくれたノアに頼る形で、その場を切り抜ける。
自分の知る彼は、こういうときどうしただろうか。そんなことを思いながら、ただ頭を垂れて、いかにも疲れている振りを装うのが精一杯だった。
違和感が人の形をしている。違和感が親友の形をして店の中を歩いている。

――ここは箱庭だ。
――店舗を名乗る歪んだ箱庭。

「リンジー」

呻くような声が、返事として返ってくる。考え事をしているときのリンジーは、いつもこうだ。みかんの知っている限りで、そう。

「……どうした」
「疲れてる?」
「分からない……」

水族館とコンビニじゃあ、当然ながら要求される技能はまるっきり異なる。タカミネは昔やったことがあるから、と言ってすいすいこなしていたし、ノアは自分のできることを理解して、できることしかしない。器用なのだ。
で、目の前にいる人は、そのどちらでもない人だ。

「たいへん?」
「……うん、とても」

しつこいようだが、みかんは一人魚でしかない。それも、箱入りの世間知らずと言っても過言ではない、水槽の中で大事に大事にされてきた人魚だ。
お店やさんなんて、もっとずっと簡単なものだと思っていたし、まわりの大人がひいこらしているのを見ると、少しだけ申し訳ないようにも思う。

「なんか、ごめんね」
「……どうしてお前が謝るんだ」

自然と口をついて出た謝罪の言葉に、リンジーが眉を潜めている。
今どうして謝ったんだろう。自分でも分からない。謝らなければならないと思った。
だって――

「……みかんが、悪いから……」
「どうしてだ。何もしてないことは、別に悪くはない」

この人は不器用だ。自分の興味だけを真っ直ぐに見て、真っ直ぐにそちらに向いて、そこに向かってしか、走っていかなかった人。あるいは、走れなかった人。
曲がることも立ち止まることも選択せず、あるいは知らず、走り続けた人。
だからこそ救われ、だからこそ救われない。

「……ううん、ごめんね。なんでもないよ、リンジー」
「ならいい」
「あのね」

もう、この箱庭は、完全な箱庭ではない。
ずっと閉じ込めておくこともできただろうに、と。そう言った誰かの顔は、思い出せない。懐かしいにおいがしたのは覚えているけれど。けれど、望みはそうではなかった。
箱庭の一部が欠けた。それによって、思い出していく。ここにいる理由と、集められた理由と、それからそれから、

「リンジー、やりたいこと、ある?」
「……は?」
「やりたいこと!」

突拍子のない問いかけに見えたに違いない。だってそうだ。けど、明かす訳にはいかない。まだ、まだ、終わってない。もう少しだけ続く夢の国。いびつに切り取ってきた、どうしようもなくホンモノで、疑いようもなくニセモノの、続かない箱庭。
それを壊すのは自分ではいけないのだ。

「……やりたいこと、か、そうだな、そう――」

口に出された言葉が、最後の鍵を抉じ開ける。
たとえばそれはあの日みたいに、何もできない子供だったわたしを、箱の中から連れ出してくれたように!

「……。――なあ、みかん、どうして」

ついぞさっきまでそこにいた、対面していたはずの人魚の子供は、もういない。
代わりにすっと背の伸びた、もうほとんど大人と変わらない姿で一匹、立っている。