8週目:躍層を飛ぶスフェニサイフォーム

――ここは、虚栄に満ちた箱庭である。
  誰かに抱き続けた敵愾を、
  利己的に動けなかった後悔を、
  道が正しいのか考え続けた猜疑を、
  それら全てを抱えてきたという自尊を、

  全て飲み込み飲み込まれた、まぼろしの箱庭だ。

何もない店内に、靴の音だけが響いた。
本当に何もない。比喩でも何でも無く、今この瞬間、夕闇の下の水族館の中には、何もなかった。
青い壁に囲まれた中、壁際にぽつんと一つ置かれた椅子の上に、目的の相手が座っている。フードコートによくある背もたれのない安っぽい椅子の上、壁を背もたれの代わりにして腰掛けていた男の青い目がこちらを捉えてきた。

「――死ぬほど悪趣味だと思うよリンジー。何だよこれ」
「吹っ切れたんだ。それでいて、狂っている。もうそれで構わないし、それでいい……」

何もないのは、必要ないと思ったからだ。店という体裁すら投げ捨ててしまっても、どうにかなると思っていた。例えば自分以外の誰かたちが、この店をどうにかしてくれるような。この夕闇の揺らぎの下なら、どうにでもなるような気がしていた。

「……俺には分からねえや。何がしたい?」
「ああ。分からなくていい、だって分かっているはずだからな」

確信があった。
初めから何かがおかしいと思っていた。夕闇の帳を張り続ける空の下に、都合良く集められていたあのときから、引っかかっているものがあった。
初めの頃に何も言わなかったのは、子供が嬉しそうにしていたからだ。血の繋がっている相手とガラスを挟んで隔てられざるを得なかった小さな子が、本当に嬉しそうに日々を過ごしていたからだ。その時はまだ、都合の良い奇跡があってもいいと思っていたし、それをそうだと疑わなかった。

都合の良い奇跡なんて存在しない。
誰かが拵えたつくりものでしかない。
それを把握してしまった以上、許容することはできない。

そもそもまず自分の姿が記憶と全く違う時点で気付くべきだったのかもしれないし、もっと会話やら何やらする暇があればここまで引きずられてこなかった気がするし、特異点はいくつもあったはずだ。それらを気づかせなかったのは、夕闇国で置かれているあまりにも奇異な状況に他ならない。
夕闇の虚無に商機を刻むことを強いられ、数多の異界から訪れる得体の知れない客の相手をこなすことを強いられ、店を店として形作ることを強いられた。群れを成して泳ぐ金魚の一匹になる他なかった。
今からその群れを抜け、きっと無様に死んでいく。水槽の外では魚は泳げない。

「リンジー……」
「なあ、タカミネ。いくつか聞くから、応えてくれよ」
「お、おう?おう。答えられるやつならな。知らねえことは無理だもん」

深呼吸をひとつ。座っている相手を見下ろした。ここから抜け出すことなんてひどく簡単なはずなのに、大人しく座っているのはどうしてだろう。
薄い笑みを顔に貼り付けて、相手の無秩序に跳ねている黒髪を眺めた。自分の癖毛よりはまだずっと秩序がある。見返してくる、そこそこ整っている方だろう顔がどこまでも固く、緊張した面持ちなのを見て、すっと全身の血が冷えていく。
やっぱりそうだ。そうじゃなかったらどれだけ良かったかと思ったのに、都合の良い奇跡はないということだ。

「タカミネ、今、何歳だ?」

問いは短い。
一体何を問われると思っていたのだろう、視線の先の顔がしばらくぽかんとした顔で固まって、そのうち安心でもしたのか、ふにゃりと崩れた。
年齢を感じさせない口元が、笑みを形作った。

「やっだなーリンジー。まさかそれ聞かれると思わなかったぜ俺、今えーと……27、あっ違う28だよ俺」

昨日まで見ていた姿ではない。目の前に座っている男は、若い男だ。

「リンジー今31でしょ?俺の3つ上だもんね、」
「ああ、そうだな。お前から見るとそうなんだろうな」
「……え?」

僅かに横を向く。目を覆い隠すほど長く伸びた前髪が揺れて、その隙間から緑の目が覗いた。結べるほどに伸びている癖毛は申し訳程度にまとめて結わえられていたし、無精髭は伸ばしっぱなしだった。
椅子に座っているタカミネよりもずっと年を食った風貌で、リンジー・エルズバーグは彼の目の前に立っている。
初めからそうだった。外側は確かに若かりし頃の自分だったのかもしれないが、中身は、記憶は、今まで重ねてきたもののままだ。死んだはずの人間が目の前に、それも若い姿で現れて、混乱しない人はいないだろうと思っている。

「よく言えたもんだ。今の俺に向かって31って」
「……え、いや、……」
「戸惑ってるんだろ?そうだよな。だってお前の知らない姿だからな」

返答もなければ、続く言葉も何もない。二人分の呼吸音が、何もない店の中に静かに響き落ちる。
皆が自分と同じなら、先週の問いかけに彼が疑問を呈することはなかったのだ。恐らくはここにいる全員が、別の時間を過ごしている。全員の過ごしてきた時間が噛み合わない。

「じゃあ、二つ目だ」
「……ああ」
「お前、俺のことをどれだけ知っている?」
「……は?」

今どういう顔をしているんだろう。どんな目で見下ろしているんだろう。ひとつひとつのピースを震える手で嵌めているようなそんな気分で、もう出来上がろうとしているパズルの完成が待ち遠しいようで、恐ろしい。
もう、答えなんて待たなくてもよかった。ほぼ考えていた通りだったからだ。それでも“彼”の口から、答えが聞きたい。

「俺の名前。俺の出身。俺の年に俺の好みに、――俺の癖だって、“タカミネ”は分かるだろう?嫌というほど一緒にいたもんな。くだらないことして遊んで、酒飲んでお前の家で寝たりしたし、……そう、それから、お前は料理が上手いんだよな。よくたかりにもいった。なあ」
「……」
「いくつ答えられる?」

タカミネが口を開いた。
そこから、言葉が発されることは、ない。

「……」

水中の酸素が足りていない金魚みたいに、水面で口をぱくつかせる金魚みたいに。何も答えられない口が動いて、そのうち真一文字に結ばれて、下を向いて黙った。
泳ぐことを諦めた魚が、水槽の底に沈む。身動きひとつせずに。

「……だよな、分からないよな。お前は確かにタカミネだけど、タカミネじゃあないもんな」

反応はない。もうぴくりとも動かない。水から揚げられて、足掻いて跳ねることもない。

「……。……試すようなことをして、悪かったとは思っているよ、けれど、そうだな……相手が悪かった、とでも、言えばいいのか。一度気にしてしまったら、それを見逃すことは、俺にはできなかった」

ここにいる人間はひとりだけだ。

「……なあ、タカミネ、……。……ショウ、」

滅多に呼ばない下の名前を、そっと口に出す。
妙にくすぐったいように思えた。リンジーのよく知るショウ・タカミネは、人魚の飼育員である以前に、気の利く料理上手の、果てしなく悪ノリとおふざけが好きな親友だったが、それでも彼を下の名前で呼んだ回数は少ない。
タカミネと呼んでくれ、と彼が言ったからだ。だからずっとそうしてきた。

「俺は、お前に、……お前が、ああなるくらいなら」

絞り出すように吐き出される言葉は、懺悔とも取れるし、単なる独り言でしかないようにも取れた。
どれだけ注意したって聞き入れてもらえなかったのなら、もう。

「お前がああなるくらいなら、……あんなこと、する、くらいなら、」

取れる手段は限りなく無に等しい。 きっとどんな手を尽くしたって、いつか何かが起こっていた。それは何度も彼と話したし、実際にそうもなった。あの時彼がすくい上げられたことが奇跡に近いし、その結果自分にまでも波及した。

「その前に、どんな強引な手を使っても、止めてしまえばよかったって、……ずっと、……ずっと……」

辛かった。
辛い。

「……何を考えてたのか、もう分からないし、聞いたって教えてくれないんだろうけどさ」

彼は□●×。
もう◆≠◆。
×からこそ、辛◆。

「……俺もそのうちそうなるんだろうなって、思ってるけど、それでもだよ、……それが最善手なのも、知ってるけどさ、……ごちゃごちゃ言うのは止そうか」

初めに言った。狂っていると。
それはもう救いようがないレベルで、後戻りもできないし、戻る気もない。
戻る道はとっくにないからだ。ここにあるのは、あり得た可能性でも何でもない。理性に負けて選択肢から外れた道だ。

「これが俺に与えられた、どうしようもない箱庭の鍵だというのなら、俺はその鍵ごと壊すよ」

どうせなら徹底的に、永遠に閉じ込められていたほうが良かったのに。
外の世界はあまりにも冷たいし、理不尽だし、傷ついていくしか無い。

切り取られた海の箱庭の、願わくば展示物でありたかった。

「タカミネ」

俯いていた顔が、すっと持ち上がった。
何の痕もない首に、手がかかる。