9週目:アクリルガラスの欠片

「それでは、答え合わせをしましょうか。どうやらそれが私に与えられた使命であり、鍵のようですからね」

あっという間に、店は廃墟のような設えになっていた。苔生した壁はまるで水中にあったかのようで、店内はどこか湿った空気に満ちているようにも感じた。これが営業している店だというのだから驚きだ。残されたノアは、ほうとため息をつく他ない。
もはや前任者と呼ぶべきだろう、先週までいた人間が、何もかもを荒らして去っていった。それ以外の適切な表現は、ノアには思いつかない。

「答え合わせ?」
「ええそうです。……みかんと顔を合わせて話していると懐かしい気持ちになりますね、タカミネさんのお見舞いに一緒に行ったの、覚えていますか」
「うん、超覚えてるよ。ノアいっつもみかんにアイス買ってくれた」
「嫌ですね、内緒ですよって言ったじゃあないですか。私の記憶だと、そう言っていたのは、あなたよりは最近のことなんですよ」

今ここにいるのは、髪を切ったリズクロアと、すっかり大きくなったみかんと、そしてノアの3人だけだ。
みかんはすっかり大人と変わらない姿になっている。顔立ちも母親に似て、笑うと本当によく似ていた。

「……答え合わせもクソも、ないんじゃあないですか。ここはおかしい、の一言で片付きませんか」
「それで片付いたら楽なんですよねえ」

店舗存続条件。
少なくともまともな形であるためのトリガー。
それに設定されていたはずの男は、ここにはいない。

「まあ、そうですね。お分かりいただけるかと思いますが、リンジーさんが当水族館を放棄したことにより、“なぜか”タカミネさんと、それからベルテットメルフルールが消滅しました」
「……なぜか」
「ええ、十二分になぜかと言えるでしょう」

何かのルールに則った上で、この水族館は動いている。
ノアがその確信を得たのは、ジョン・ブラックがいなくなってからだと言う。例えばこれが一時の夢であるなら、ずっと夢のまま走り続けて終わればいいわけだ。そうすることを良しとしなかった誰かが、無秩序な夕闇の下にルールを敷いている。

「だからこそのこの惨状であり、もはやこの店には私と貴方と、――そして展示物の魚一匹しかいないわけです」

そう言って、ノアは目の前に立つ少女と女性を見やった。
片方は自分もそれなりに知る後輩だ。知る姿とは髪型が違うし、少々過激というか気が強いようではあるが。もう片方はアルカールカの展示物だった人魚だ。すっかり成長した姿でいる。

「推測するのは簡単です。ごもっとも私は実は、既に答え合わせをされているのですけど……」
「……いつの間に」
「へえー」

紙を持ち出してくる。コピー用紙の一枚や二枚、もはやこの店では誤差だ。
六人分の名前が、ノアの整った字で書かれる。

「まずいなくなったのは、ジョン・ブラックでしたね。これは想定通りの事象です。何故なら」
「うん、お父さん死んじゃったもんね」
「そうですね。アルカールカ水族館から一番最初にいなくなったのはアクアシールに引き抜かれたリンジーさんですが……人魚との関わりを最初に絶ったのは彼ですね」

一人分の名前に×がつく。
いつの間にか空いている部分に人魚が落書きを始めているが、気にしないことにする。答え合わせには何も関わってこない。

「では、ジョン・ブラックの次にいなくなるべきだったのは誰でしょう。……おっと、ここでリズクロアが足されるんでしたね……」

七人目の名前が増える。

「分かりますか?」
「お母さんだよ。お母さん、お父さん追いかけてっちゃったからね」
「そうですね。ベルテットメルフルールが、ジョン・ブラックがいなくなってから……後を追うようにいなくなる。そのはずでした」

名前の上に、数字が書かれた。×のついたジョンの上には1。ベルテットメルフルールの上には2。

「ではベルテットメルフルールの次は誰でしょう。リズクロア」
「……。……これが、アルカールカであった事をなぞっているのなら、タカミネさんだと思います」
「正解です。花丸をあげましょう」
「いりません」
「ノリが悪いですね貴方」

タカミネの上に3が振られた。一旦ペンが置かれる。紙の空きスペースはすでにみかんの手による謎の落書きに支配されていた。

「さて。今ここにいるのは、私とリズクロアと、それからみかんです。リンジーさんはいません」

リンジーの上に×が描かれる。番号が振られた二人は残されたままだ。
タカミネとベルテットメルフルールの名前の上を、ノアの指が滑っていく。

「本来であれば」
「……四番目、がリンジーさんだったわけですね」
「ご名答です」

二度ほど名前の上を指で叩いて、それから再びペンを取る。4の字が書き足され、そしてタカミネとベルテットメルフルールの名前は横線で消される。そこに矢印が書き足された。リンジーから伸びる形で。

「四番目がリンジーさん……というのも、彼はですね、……いえ、この話はやめましょう。みかんは何か覚えていることはありますか」
「んー、んっとね、リンジーは……みかんとタカミネが一緒に住むようになってからしばらくして、水族館を辞めた」
「その認識で十分です」

きゅっ、と小気味いい音を立てて、×のついた上から丸が描かれる。

「本来順繰りにいなくなるべきだったものが、本来の順番を飛ばした人がいたので――整合性を保つべく、間も抜かれた。しかし、その人はこの夕闇の水族館の存続トリガーを握らされていたので……今このように、さながら廃墟のような設えになっている。と、いうのが、私が三週間前に得た情報と合わせて導き出せる、答えです」

ここは、作り物の箱庭である。切り取られた海の箱庭をさらに切り取ってきた、歪な箱庭だった。少なくとも途中までは完全なように見えたが、一人ずつ誰かがいなくなることまでがプログラムにあるのなら、それは何を意図したものなのか。ノアにはそれがわからない。
そして少なくとも、一番権限のあった人間は、この箱庭の作り主ではないらしい。となればなおのこと、誰が、何のために。しかし、それについてを検討し思考する時間は、自分たちには残されていないらしい。

「……このあとは、どうなるんですか?また誰かがいなくなりますか?」
「その心配は必要ないでしょう。なぜならもう、水族館は終了している。ここはもう水族館ではありません――私は何故、まるで海中に沈められたかのようなレイアウトになっているのかということの方に興味がありますけれど、今明かしたところで、どうにもなりません。私たちには時間すらすでに無い」
「ノアさん。ノアさんはどうしてそこまで詳しいのですか、それではまるで貴方が、私達を呼んだようにも見えます」

コピー用紙を丸めて捨てようとしていたノアの手が、二つの要素によって止まった。ひとつはみかんの落書きだったが、もう一つはリズクロアの問いかけだ。
亜麻色の髪の下で、紫の瞳がすっと開く。冷徹な視線がリズクロアを射抜く。

「三分の一から、誰が犯人かという答え合わせをしますか?いいえ、三分の一かどうかすら定かではありませんけれど、そうであると仮定しましょうか。私が【この箱庭を作った犯人ではない】と宣言して、二分の一にしたところで――終わりです。時間切れです。どれだけここで話しても、無意味だからですよ。次に目覚めた時、私も、貴方も、いつもどおりだからです」

反論はなかった。何か言おうとしていた気配こそあったが、それは飲み込んでしまったらしい。

「……まあ、ほら。それがわかったところで、どのように連れてこられたのかとか、そもそもなぜコンビニだったのかとか、謎は尽きませんけれど」

ここは確かに、歪んだ箱庭だった。誰かが求めた幸せの最適解になれなかったもの、幸せの最適解にたどり着けなかったもの、その成れの果てだ。
巻き込まれたというのが一番いいのだろう。誰かが誰かのために作った水槽の中に、展示物として一緒に飾られていた。そういうことだ。

「これで終わりです。私達も、次に目が覚めたときは、いつもの水族館職員でしょう。……おっと、水族館職員なのは貴方だけでしたね、リズクロア」
「……そうですね。ペンギンにつつかれる生活に戻ります」
「餌が手渡しで済む人魚がどれだけ楽だったか、って泣きついてきたのが昨日のように思い出されますね」

一つ分かることがあるとすれば、それだけ。

「あまり余計なことを言わないでください。水中のペンギンよろしい勢いでみぞおちに一発ぶち込みます」
「おお怖い怖い。そういうのは結構です。いくら仮想か、夢の中だとしても……」
「では私は準備に入ります。ノアさんとみかんちゃんも、よろしくお願いします」
「ええ」
「はーい」

歩いて行くリズクロアの後ろ姿が揺らいでいる。改めて終わりの近さを察し、そしてノアは、途中からずっとにこにこ顔でだんまりを決め込んでいたもう一人に向き直った。

「――気が済みましたか?」
「うん、とても。ノアはいつでも冷静だから、やっぱりこういうのに向いてるね」
「御託は結構です。疲れましたよ……ぜひ今度何かねぎらいの物を送ってほしいものです」
「ん!忘れてなかったらね」

ノアは知らない。今、この彼女がどう暮らしているのかを知らない。
ただ分かるのは、彼女は母親に似てどこまでもまっすぐで、誰に似たのかどこまでも優しいということ、それだけだった。