10週目:人魚のつくる人間の箱庭

気づけば、水の中に漂っていた。ただただ冷たい水の中で、ぴくりとも身を動かすことができずに漂っている。苦しくはない。
ここにいるのは、当然のことのように思えた。いつか冷たい水中に沈んでいく。全てを捨てて、あるひとつだけを追いかけて、水の中へ沈んでいくのだ。

『ねえ、リンジー。リンジー』

声。緩慢な動きで振り向く。ぼやけた向こう側にいるのは、よく知る人魚の子供だ。
父親は死に、母親は気が狂って何処かへ行った、かわいそうな人魚の子。新しい箱庭に馴染めず、その様子にあまりにも耐えられなくて、手を伸ばしてしまった人魚の子。親友を助けるためのダシに使った人魚の子。田舎に閉じ込めた人魚の子。親友に管理を押し付けて、自分は見守るだけだった人魚の子。
――そして今、その親友がいなくなってから、自分のもとに改めて戻ってきた、人魚の子。

「……みかん……?」
『うん。そうだよ、みかんだよ。ねえリンジー、こっち向いて』

視線をやるのが怖かった。思えばそうだ、人魚の飼育員でこそあったが、ずっと人魚のことは避け続けてきた。深く関わってはいけない、それが信条だったからだ。
あとはよろしくな、とあいつは言った。だから今手元に置いている。そうじゃなかったらどうしていたんだろうか、想像ができない。いや、想像は簡単につく。だからこそ、直視できないのだ。

『こっちに来て』

泳いでいく。そのうち透明な壁にぶち当たって、先に進めなくなる。
視線の先の人魚は、人の足で歩いてきた。はっとして自分の下半身を見る。

魚のかたちをしている。

「……あ、……」
『リンジーは、わたしのこと見ているようで見てないし、気づいたらどっかに行っちゃいそうだから、今ね、わたしの話を聞いてもらおうと思って、こうしてるの。だいじょうぶ、だってここは夢の中だから』

夢だと言われた。それだけですっと救われたような気持ちになる。そもそもでこんなおっさんを飾り立てたところで、得をする水族館はないはずだ。人魚は美しさで人を引きつけるのだから。目を伏せた。触れていたはずの透明な壁が――アクリルガラスがなくなって、空に泳ぎ出る格好になる。これくらい気軽に、空を泳げたらいいのに。叶わぬことを思っているうち、近づいてきた人魚の下半身がいつの間にか魚のそれに変じていた。

「ねえリンジー。リンジーは楽しかった?」
「……は?」
「久々にみんなに会ったでしょ?」

よく見たドヤ顔が眼前に迫ってくる。近い。近すぎるのでやめてほしい。

「……それは、あの。夕闇の、……水族館っていうか、コンビニっていうか……なんかよくわからないやつのことか」
「そそ」

そう、この二ヶ月ほどずっと、不思議な夢を見ていた。死んだはずの人間が、どこへ行ったかも分からない人魚がいる夢。ずっと地続きの夢を見ていた。寝ている間に別の世界で活動しているような気分で、ひどく疲れていたのを覚えている。ここ二ヶ月、必要なとき以外はほとんど寝ていたような気さえするのだ。
とにかく疲れた。けれども、確かに、楽しかった。

「……ああ、ああ……うん、そうだな……、……タカミネがいて、……ベルも、あいつもいて……」

妙に現実味がある夢だった。それはそれとして、だ。

「……なあみかん。なんでお前が、それを知ってるんだ」
「だって。リンジーとずっと一緒にいたよ。みかん。……それに」
「……それに?」

抱いた疑問に返されたのは、満面の笑みだった。まっすぐこちらを見てくる藍色の目は、夢の中でも健在だったし、彼女にそれを与えていなくなった男は、そう、夢で会った気がするし、子供の姿のみかんと戯れていたのを、目の前で見ていた気さえする。

「かみさまはわたしに言ったんだ」
「……は?」

続いた言葉に、目を丸くするしかなかった。
当然のように神の存在を信じているというわけか。あるいはここも夢の中だから、好き勝手言っているだけなのか。判別はつかない。
納得のいかない顔をしていることに気づいたのか、みかんは首を横に振った。わからなくてもいいという顔をしていた。

「――世界は開かれている。力はここにある。お前の望みがあるならば、その箱の中に限って叶えよう……って」

すっと脳裏を過ぎっていく、薄桃の毛の、獣。

「だからわたしお願いしたよ。リンジーが会いたい人に会えますようにって。リンジーができなかったことをできますようにって」
「……俺が?……俺が、俺があの訳の分からない水族館を?望んだと?」
「そういうことになるのかな。みかんよくわかんないや……」

頭の片隅で笑っている。自分と同じ色の目で、巻いた薄桃の毛の獣が、にまにまと笑っている。

「でも、きっとそうなんだよね。嫌だったらいつでも、リンジーだけは、どこへだって行けたはずなんだよ。」
「……ッ……!」

崩れ落ちそうになる。散々どうかしていると思い続けてきた場所が、自分の手で保持されていたらしい。誰も彼もが嫌な顔一つせず従っていたのも、そうなのだろうか。吐き気がする。
だが自分だって、あの夕闇の下で困惑しながら動いていたはずなのだ。それすらも自分の望みだったのか。

「リンジー」
「……」
「ねえリンジー。うれしい?うれしくない?みかん頑張ったの。リンジーのために頑張ったんだよ」

無垢な笑顔が突き刺さってくる。彼女は本当に、その願いを、自分のために使ったと言うのか!やろうと思えばきっと、ただひたすらずっと家族で過ごすための場所にだってできたはずなのに。

「……嬉しい。嬉しいけど、もっとお前のために、使ってくれても良かったんだ。なのに、どうして」
「だってさ。だって、リンジーは……リンジーはもう、みかんのために、いろいろしてくれたじゃん?お返しだよ!」

あまりにも無垢だった。純粋で無垢な藍色の目を見返せない。
この子のためじゃない。あそこまで動けたのは、彼女のためではない。

「違うんだ、違うんだ――俺は、」
「知ってるよ。知ってる。……それでみかんになんか冷たいのも知ってる」

まず始めにあったのは、自分のことだった。
その次にあったのは、親友のことだった。
数少ない親友のためならと思って、子供の人魚のためという大義名分を振り回し、至るところで嘘をつき、恩師を巻き込んで、――そうして守り抜いたはずの彼は、その手を自分から離していったのだ。
彼は絶対に言うだろう、『これが最善手だったんだ』と。だがそれはそれとて納得はできず、自分の元にやってくることになったかつての子供――もうすっかり大人と変わらない姿になった人魚を、受け止めきれずにいる。

「リンジーは、昔から、みかんのこと見てくれてないもんね……知ってる。みかんリンジーが思ってるよりもかしこいからね。でも仕方ないと思ってる。タカミネは言ってたよ、人魚と付き合っていくのに、一番……一番、えっと。合理的で安全なのは、リンジーのやり方だって」

もう子供じゃない。見た目では判別できない。中身もそれ相応に育っている。
それすらも受け止めきれていないのかもしれないと気づいたとき、ただただ頭を下げているしかない。

「……けど俺はそれをやりたくないから、って、続くんだろう。知ってる」
「せーかい!だからいいんだ。いいけど、ちょっとだけさみしいかも」
「……すまない」
「んーん」

彼女もいつか、誰かを手にかけるときが来るのだろうか。ずっとそうして怯えながら暮らしてきた。ヒトとヒトでないものは相容れられないまま、透明な区切りで隔てられたまま過ごしていくのかと思っていた。
彼女こそ、アクリルガラスのむこうで、ヒトと人魚が交わった結果だと言うのにだ。

「……ごめんな」
「いいよ!タカミネね、いつも言ってたよ。リンジーは人生ハードモードな上に操作性がクソだって」
「あいつの言ってることたまに全くわからなくなるな」
「うん、みかんも全然わかんない」

久しぶりに笑った気がする。
みかんはいつでも明るい子で、笑うときらきら輝いていて、太陽のように眩しい。髪の色に違わぬ朝焼けの日のごとき笑みで、夕闇も、夜の帳の下でも照らすのだ。
暗がりに慣れていた目で直視するのが怖くて、ずっと目を背け続けていた。今なら、見れる気がする。

「そう、あのね、恩返しのつもりだった。だったけど、お店屋さんって結構大変だね」
「……もう二度とやりたくはないかな……」
「水族館とどっちが楽?」
「水族館」

永久の夕闇が晴れていく。
店に帳を下ろそう、新たにカーテンを開けるとき、確かに朝日が出迎える。
目を閉じる。意識を手放す。誰かの呼ぶ声が聞こえる――