11週目:人魚とつくる人間の家

ふっと目を開けると、新しい部屋の天井が目に入った。
フローリングが冷たい。せめてカーペットの上で寝転がれなかったものかと、のそのそと移動していこうとして、何かが足に引っかかる。
広げっぱなしのアルバムだった。しかもそこらに散らばっているので、見ながらうっかり寝てしまったことになる。めちゃくちゃアルバムを枕にしていた。飛び起きた。

「ほあーっ」

揃いのパーカーを来た男たちと、鮮やかな髪色の女に抱かれる小さな姿。女とは異なる色でまた鮮やかな髪の色をしているのは、小さい頃の自分だ。
その隣の写真は、同じように抱かれている自分――抱かれているのは自分の母親だ。その隣に立っているのは、金髪の壮年の男だ。彼女が唯一父親の姿を知ることができる貴重な写真の入ったアルバムをそっと閉じ……る前に、垂れていたよだれをティッシュで拭った。ごめんなさいおとうさんおかあさん。
うっかり寝てしまう前のことを思い出そう。アルバムをいつもの場所に戻しながら部屋を見やると、どうやら旅行の準備をしていたらしい。服がそこらに散らかっている。
つまりそろそろ旅行に行くらしい。いつだっけ?いつのための準備をしていたかな、と頭を掻いている間に、部屋のドアが二度ノックされた。

「んあい!開けてもいいよ!」
「みかんー、準備できた?」
「えっ全然まだあ!いつ行くんだっけ」

そもそもなんの準備をしていたのかも、寝起きの頭では怪しい。ドアの向こうから聞こえてきた年若い男の声に適当に応答してから、ようやく思い出した。
旅行、というか、泊まりでお出かけするの、今日だ。あっ結構やばいのでは?

「ちょっともう!父さんもさっきまで寝てたとか言うしみかんまでまだなのかよ。俺は準備できてるからいいけど」
「うんみかんもさっきまで寝てた!おそろいだね」

開いたドアの向こうには、金色の髪をくるくるふわふわさせた、この家でのみかんの“おにいちゃん”が立っている。当たり前だけど、血はつながっていない。

「おそろいだねじゃない……まああと服詰めるだけ?」
「おうともさ!みかんリンジーよりえらいからね、寝る前の自分を褒めよう」
「ならまあまだ及第点か……俺父さん手伝ってくるから、荷造り終わったらリビングにでも出しといて」
「あいはーい。ノエがんばれー」
「がんばるー」

今、みかんは、リンジーの家族と一緒に住んでいる。
中学校を卒業して、今は高校生だ。大学付属の私立高校に通っている。学食がめちゃくちゃおいしいのだ。ちなみに成績は、体育以外は後ろから数えたほうが早い。
今部屋に来て、そして出ていったのはリンジーの息子だ。今は大学生。みかんよりずっと頭がいいし、年上(という扱い)なのでおにいちゃんだ。ほんとうはみかんの方が年上なのは内緒。

「そうだそうだ……お出かけだお出かけ」

服を畳んでスーツケースに詰める。みかんは人魚だが、すっかり人の世界に慣れ親しんだというか、ほとんど人間として育てられてきた人魚だ。生まれたのは水族館の、水槽の中。だから泳ぎはもうめちゃくちゃ得意だし、ヒトの足のまんまでも速い。でもヒトじゃないので、大会には出してもらえてもオープン参加で参考記録扱いなんだって。悲しい。でもここは人間の世界なので仕方ないこととする。みかんは人間のふりをして生きている人魚だ。
なんで人間のふり……というか、そんな隠れてもいないけど、人間と一緒に暮らしているのか、というと、初めに言われたのは、あるひとのためだった。
人魚は当たり前だが人間ではないので、ちょっと不思議な力が使える。その不思議な力が人間に悪さをしたが、それを抑えられるのもまた人魚だった……という感じで、ずっと一緒に暮らしていた人がいた。
山の方の田舎の町で、大きな家で、毎日走り回っていたし、田んぼに顔を突っ込んだし、顔どころか身体ごと突っ込んで、服を汚して怒られたりした。川で魚みたいに朝から晩まで泳いだりもした。学校にも通わせてもらったし、ごはんは毎日美味しかった。毎日毎日楽しかったけど、そのひとと一緒に住む必要がなくなったので、今度は別のひと――初めに、みかんを助けてくれたひとのところで、暮らしている。
大学付属の高校に通っているのは、その高校が付属している大学に、人魚の研究をしているところがあるからだ。毎週一回そこに行って、ちょっと協力すると、なんと毎月お小遣いがもらえるし、研究しているひとたちも、みんなみかんに優しい。あとおやつをめっちゃくれる。最高。
つまり何が言いたいのかと言うと、みかんは人間と一緒に生きていてもいい理由があるところに住んでいる。これまでもそうで、これからもそうなので、もしここでも理由がなくなったら、きっとみかんはまた別のところに行く。旅人、とかいうと、ちょっとかっこいいかもしれない。リンジーには、あとで困らないように勉強しておけ、と言われているし、ノエにも同じことを言われたけれど、ちょっとどころか結構人間の勉強は難しい。こんな難しいことやってるなんて、人間はすごいなあと思う。

「よっし」

服は詰めた。たぶん忘れ物はない。忘れ物があっても、これから行くところは、みかんの私物が結構まだまだ置いてある。置いといていいよ、と言ってくれたので、お言葉に甘えている。なんならまだ、みかんの部屋もそのままだ。
服でいっぱいになったスーツケースは、思ったよりも重かった。引き摺ってリビングへ持っていくと、テーブルの上に飛行機のチケットが置いてある。

「うえー。船じゃないのか」
「飛行機のほうが速いんだもんさ。我慢しろよ」
「あっノエ。終わった?」
「だいたい」

行き先の空港から、さらに電車を乗り継いで、それでも結構かかる。それでもまだ最寄りの駅が行くところから近いので、恵まれてる方だよ!という話をされたことは、割と記憶に新しい。今すっかり都会の民と化した人魚は、たまにそういう田舎の景色が恋しくなる。
やっぱりもともと、海で泳いでいた生き物だから、そういうところのほうが落ち着くのだろうか。

「はぁー……めちゃくちゃ寝た。ノエ、何時に出る」
「予定通り出れるよ。父さんが起きないと思って早めの時間伝えといて正解だった」
「策士か」
「扱い慣れてるって言って」

リンジーは、タカミネが言っていたとおりに、セーカツリョクが全然ない。みかんよりひどい。
リンジーのぼさぼさくるくるの髪の毛を結ぶのはみかんの仕事だ。一度教えてみたけど、全然きれいにできないので、二人揃って諦めた。その代わり、みかんの使っている髪ゴムを使うので、男の人にしてはかわいい感じになる。何も言われたことがないのでたぶん大丈夫か、実は好きなんだと思う。

「リンジー髪結んであげる!こっち来て」
「はいはい」

リンジーは背が高くてそのままだとやりにくいので、いつも椅子に座ってもらっている。ぼさぼさくるくるの髪に手櫛を入れて、簡単にまとめてから、飾りの付いたゴムをくるくる回して、飾り同士を引っ掛けて留めてやる。結ばないよりはマシになった。

「ありがと」
「ふふん」
「早めに出てどこかで飯食ってから行かない?ちょうどいい感じになるけど」
「じゃあそうすっか……」

立ち上がるリンジーの目が、すっとこちらを捉えていく。ほんの僅か微笑まれたような気がして、思わず背筋が伸びた。

「何食う?」
「肉!肉がいい肉」
「お前ほんと肉好きだなあ。ほんとに人魚か」
「お肉おいしいじゃんねーノエもお肉がいいよねー」
「いや俺何でもいい……じゃあそうしようか。準備して」

ノエはいつも行動が早い。そう言うとあっという間にそれぞれの荷物をまとめてしまって、玄関まで運んでいった。
二人だけぽつんと残される。何も言わずにいた沈黙の中、不意にリンジーの手が、みかんの頭をわしゃわしゃと撫でた。
かつて泣きながら縋った手。頼りになった手は、今ではなんだか頼りないように見える。
それでも暖かい手だ。

「んなあにーリンジー」
「いいや。……ありがとうな」
「へあ?何が?髪の毛?」
「よーし肉だ。肉を食いに行こう、ハンバーグかな……」

はぐらかされた。けれど、知っている。何についてのことか、知っている。リンジーはいつもそうだ。けど、ちょっと前までよりもずっとずっと、こちらを見てくれている気がする。誰もいないところを見てなんかいない。みかんの隣に立っていた人を見ていた目は、ようやくこちらを見ている。

「ハンバーグおっきいやつにしていいかな」
「……タカミネん家でごちそうが出てくるかもしれない」
「あっ大変だ。でもお昼だからセーフじゃないかな、セーフで」
「好きにしな。ノエはすごい顔すると思うけどな」

頭から降りた手を取った。
骨張った手は、昔と同じように暖かい。