ex2:揺らぐ夕闇、目覚めぬ夢幻(6週目エクストラ)


一面のノイズと、
一面の海と、

――切り取られた海の箱庭。

「気分はどうだ?ノア・アーミテッジ」
「総じてクソというのが今の適切な回答です。夢にしてはあまりにもリアルで、現実にしては現実離れしすぎている」
「はは。しかと記憶しておこう、神に向かって総じてクソなどと吐きおる」
「身に余る光栄です」

そこは箱庭の中だが、箱庭ではなかった。
海である。海の真っ只中に、当然のように立っているのだ。故にノアはこの状況を、夢であると判断している。
なにより眼前に得体の知れない生き物がいるのである。さらに言えばその得体の知れない生き物には、神々しさがあった。単なる変な生き物では終わらせてくれない後光のある生き物を目の前で見るなど、それこそ夢か何かだ。

「それで、何用ですかね。私的には早々にこの夢をどうにかしていただきたいものですが」
「そう早るな」

水族館を辞め、内陸の実家に早々に引っ込み、実家のバーの手伝いをするようになってもう一年ほどが経つ。
全ては自分の身を守る為だ。あのままなら、確実に次は自分だ。仕事は惜しいがそれ以上に命が惜しい。
などとしている間に、妙な夢を見るようになったのだ。あまりにもリアルで、そして現実離れした、死者と関わりかつての同僚たちと関わる夢を。それも、あまりにふざけきった店舗で。

「そもそもですね、誰だか知りませんけど、説明責任に欠けていると思うんですよ。それに何故誰も疑問を持たないのでしょう。私もあそこにいるとどうでもよくなるのは確かですけど。代わりに今どうでもよくないのでよく喋りますよ」

理由も分からないまま集められ、謎の店舗での業務に従事する。率直に言って狂気だと思うが、誰も異を唱えなかったし、そこにいるときは何も疑問に思わない。そこが水族館であるかのように振る舞い、皆生きているものとして関わる。
誰かに操られているようにだ。

「喧しい。貴様らは所詮過去から喚ばれたものに過ぎない。だが、お前がここに今いるということは、後にあの店で役割を持つと言うこと。然るべき時が来ることがあれば全てを思い出し、そして語るだろう。限りなく向こう側に近づいたストーリーテラー」
「こちらの言葉で話していただけますか?」

ノアの背丈は高い方である。それすら見下ろす、さながら巨大なリーフィーシードラゴンのような外見の――多分神は、複数の色の混ざった目でノアを見下ろして、海の中に揺蕩っていた。
見下されてなお威圧されて萎縮するようなことがないのだから、間違いなく夢なのだ。そもそもノアは神の存在を信じていない。たとえこうして夢の中で現れて名乗りをあげたとしても、起きてからそれを本物と認識することは絶対にない。

「今分からずとも良いのだ。なれば分からせる必要はないだろう」
「不愉快ですね。呼び出すだけ呼び出しておいてそれですか」
「お前。夢の中だと思って好き勝手言っているな」
「当たり前じゃないですか。なかなかない機会ですよ」

神は間違いなく、ノアを“肝が据わったやつだ”と評価するだろう。どうあろうと夢の中である。夢から現実に干渉してくることがあったらそのとき、お祓いでも神頼みでもすればいいのではないか、と思っている。
それはそれとして、奇妙な夢が繰り返されることには、正直言って疲れていた。あの夢、妙に現実的なのだ。たとえば朝起きるとめちゃくちゃ筋肉痛だったりするのとか、どう考えても品出しのせいだ。

「あ、そうだ……ストーリーテラーをしろということは、私は別に核心に触れても構わないということですか。その前提で質問が幾つか」
「構わぬ。ただし、場を崩すことがあれば即座に貴様の首が刎ねられると考えよ」
「心得ているつもりですとも」

然るべき時が来れば、貴様はすべてを語るだろう。神はそう言うと、わずかに姿勢を正した。それを問いかけを始めていい合図と取って、ノアは口を開いた。

「率直に聞きますが、今回の犯人はみかんで間違いありませんか?」
「うむ」
「はい。では、あの店にいる、生きている人間は四人で合っていますか」
「否」

僅かに紫の目が見開かれる。読みを外した。

「おや……違うとすれば確実にジョン・ブラックですが、それは合っていますか?」
「うむ。それの運命が変化すると困る人間もいるだろう?」
「困る……本当にそうなのですかね、とはいえそうならなかったときを思い描くのもまた無粋ですが……」

ここにいる人間(あるいは人魚)のうち、確実に生きているものではない。一番最初にそう思ったのは、ジョン・ブラックであった。けれども可能性として、自分、あるいはリズクロアと同じように、特定の時期で呼び出されているものではないかという方に賭けたのだ。だがどうやらそうではないらしい。
次に疑問に思ったのはベルテットメルフルールで、あまりにも定型的な動きしかしないと思ったのだ。例えるなら飾られているものをずっと見ている、飼育員の知るベルテットメルフルールではない。

「では最後――あのタカミネさんは、一体何ですか?」
「貴様、十分俯瞰ができているな。素質があるではないか」

そしてもう一人、違和感を覚えたのは、タカミネだ。そしてそれを暴くのは、自分の仕事ではない。
自分ともリズクロアとも違う今を生きている男のやることだ。ノアがここにいる以上、その仕事は彼にしかできない。

「あれは我が眷属による人形。知らぬものは作れないと言うから、魚の記憶を見せてそれを模させたのだが」
「ああ――それはそれは。なら私達の認識と差異があって然るべきですね」

あまりにも違和感に満ちていたので、そう言ってノアは目を閉じる。
男たちの知るタカミネと、彼女の知るタカミネは、まるで違う生き物になるだろう。飼育員としてのタカミネ(――あるいは親友としてのタカミネ)と、家族ごっこの主人公としての、父親という役割を演じていたタカミネは、違う。
ノアですら気づいている。最後に鍵を開けるべき存在――リンジー・エルズバーグは、もっと早くからきっと。

「しっくりきました。もう結構です」
「好い。我はまだ行かねばならぬところがある」
「どうぞ。期待通りの働きを――できるといいんですがねえ。筋書きをその通りに通りになぞってやるの、あまり好きでないんで」

紫の瞳が細められて、神を見上げた。
とは言え知っている。あの箱庭の中で、自分が反抗の狼煙を上げるのは難しい。それはとても難しい。どこまでも優しい少女の望みを崩してまで、自分の意志に従うことは、この男にはできそうにない。知っているからだ。彼女がどれだけ虐げられたか。

「だが貴様はそうせざるを得ないだろう。知っているからだ」

その通りですね、とごく短く言った男の言葉を背にして、神はふわりと浮き上がる。
一面のノイズ。一面の海。すべてがそれらに呑まれていく。


一面のノイズと、
一面の海と、

――切り取られた水族館の前。

「ジョン・ブラックよ」
「……はい」

ずっと雪が降っている。その瞬間その時間から、彼はこの場所に縛り付けられた。より正確に言えば彼が望んでそこに留まり続けているが、そのことを忘れているのか、見ないようにしているのか。確認して、気づかせてやるほど、この神は優しくはない。

「もはや貴様に問うことはただ一つのみ。気は済んだか」
「……とても。またああして、触れることができるなんて、とても思っていませんでした」

死者を呼ぶことを請われた時、神には別の選択肢もあった。それは例えば、男を自らの眷属とし、完全に生命の輪廻から外してしまうことで、――少なくともこの男には、幸せな記憶が残る。その選択肢を、この男も、箱庭を望んだ魚も、選ばなかった。
だからほんの少し、ほんの少しだけその足に絡みつくものを解いて、夢の中へ誘うだけでよかったのだ。楽といえば楽だが、つまらないと言えばつまらない。

「ベルも……ローラもいる……これ以上何も、望むことなんか」

だが、望まないことを押し付けるのは、少なくともこの神の矜持には反する。故にこれ以上、この場では手を出すことはしない。彼が幸せの時を忘れていったとしても。

「――好い。だが覚えておけ……と、言ったところで仕方がないが、これは所詮夢だ。お前の記憶に残ることは叶わない……何より、お前はもうこの世におらんのだ」
「……はい。でも、いいです。ベルとローラがそれでいいなら……」

晴れやかな顔だ。憑き物の落ちたような、すっきりした顔。その顔を再び作ることが叶わなければ、ずっとこの場所にいるだけだ。それでも男は、そう穏やかに微笑んだ。守るべきもののある顔だった。

「よく眠ると良い。次の生こそ、行く先に幸あらんことを願おう」

そこは事故現場だった。誰かが頻繁に花を添えているようだ。
人の往来のある中、誰にも存在を認められることなく、神は備えられた花の前に立つ。

「少なくともあの箱庭で、最も幸せだったのはお前だった」

他人の幸せを望んだもの。望んだ幸せを受け入れられなかったもの。幸せの箱庭の付随物でしかなかったもの。呼ばれすらしなかったもの。
人のために箱庭を作ったあの魚が、唯一自分のために求めたことだった。――父親と会って話がしたい。あわよくば自分のことを撫でて欲しい。

「ごく僅かに幸せな夢を見た。それ以上にも以下にもならない。次の道に往くためには、そこを踏み出さなければならない」

行き交う人は、誰も神の姿を認めない。同様にそこにいるはずの男にも、誰も目を留めない。視えないからだ。わからないからだ。
神はほんの少しだけ目を細めた。

「お前の足を止めているものは何だ?」

答えはない。
備えられていた花が、風に吹かれて揺れた。