ex4:漸深層のトリエステ(9週目エクストラ)


獣が笑っている。
薄桃の巻き毛の獣が笑っている!

「――!!」

身を起こす。何もない空間――あるいは海、手先も足先もひどく冷たい。胸の奥だけが無限に熱を発していて、辛うじて恒温動物としての体裁を保ちきっている、そんな様子でいた。
水の中と同じような感覚で、周囲を動けることを確認した。足を動かせばその分前に進むし、手を動かせば水を掻いたような感覚がついてくる。
真っ暗で何もない。何もない中に本当に不意に声が響いた。子供の声だった。邪悪に満ちた。

「アッハハハハハ!!」

甲高い声が鼓膜を刺して揺さぶる。声の出元はさっぱり分からず、どこを向いても光の欠片もない暗闇しか見えないのだ。
夕闇から帳を下ろしきった闇が満ちている。

「……何だ。何だお前は、どこにいる」
「わたしはどこにもいないわ。けれど確かに存在したかもしれない【可能性の獣】!!わざわざ会いに来てあげたのよ感謝して、だって“お父様”ったら、今あるものだって欠片も見ようとしないのだわ!!だからこれで十分よね」

気配はそこら中に満ちている。ありとあらゆるところから視線を浴び、晒し者になっているような感覚がある。
そもそも“お父様”とは何だ。誰だ。娘はいないはずだ。

「さっきから何を……おい。いいからとっととここから出せ、それか姿を見せろ」
「見ないくせに!見ないくせに姿を見せろ、ですって!!アハハ最高に滑稽だわ!!」

小さい手が伸びてくる。拒否するより早く手を握られ、それも小さい手には到底見合わない力で、指が砕けそうな勢いで、圧力がかかる。苦痛に顔を歪めている暇もなかった。
目の前に誰かがいるのだ。子供だ。薄桃の巻き毛の、――自分と同じ色の目の、人魚の子。

「――な、」
「ほら!!ほらァ!!よく見て、よく見てよ“お父様”!!お望み通りに姿を見せているわ!!」
「っざ、……ふざけているのか!?人魚の子なんかうちには――」
「いるじゃない」

同じ色の目が笑っている。

「わたしはいないわ。この世界のどこにもいない。だってわたしは摘まれた可能性だもの、よほど道を違えなければ出会うことは決して無いわ!!けれど“お父様”、そうよ、そういうことよ、わたしかもしれなかったもの、ほんっとうに見てないのね」

わけの分からないうちに姿を見せた【可能性の獣】とやらは、リンジーの手を離すとひたひたと遠ざかる。足音が妙に鮮明に聞こえた。

「“お父様”のところに引き取られて本当にかわいそう」
「……黙れ」
「だってそうじゃない!!――あといいこと教えてあげる」

ぐちゃぐちゃに掻き乱されていくような、ひどく不愉快な声は、ほんとうに子供の声かどうかも分からなくなっていく。何人分もの声が重なって聞こえてくるようで、早くここから抜け出したかった。
抜け出したいはずなのに、足は動かないのだ。ここにいることを是とするように。逃げ出すことを許さないように。
そして獣は、躊躇いなく牙を突き立ててくる。そうしろと言われているかのように。

「わたし今、あなたの代わりに喋っているのよ。わたしの言うこと、あなたの思っていることよ」

ひとつ、確実に殺すように突き立てられた言葉が、リンジーの呼吸を詰まらせる。
そうだ。そうだった。見ないようにしているのは自分で、目を背け続けていて、顔の合わせ方なんて分からなくて、何のために引き取ってきたかまでもうわからなくなりつつあって、――人魚の子なんか助けなかったほうがよかったと、

「……」
「都合が悪いと黙るのね」

目眩がする。この問答は、自分の中で何度も繰り返されてきたものでしかない。そのたび渦巻くぬかるみから引きずり出してくれたひとがいたが、もうそれもない。
この件については、正しさを常に他人に求めていた。その人が無事であればそれで良いと、そうやって動いてきたからだ。それが失われて久しい。
けれど、そう、最期――

「……いや。もう、黙らない。別に迷う必要はないんだ、なかったんだ」

恨み言も何もなしに、笑顔で水の中に消えていったのを思い出す。
次の日また会えるかのような気軽さで、いつもと何も変わらない様子でいた。

「正しかったんだ」
「――本当にそうなの?」

薄桃の獣に向き直る。語り合うことはできない。彼女は無限にこちらを責め立ててくるだろう、どこからでも細かい瑕を拾い上げて刃を差し込み広げてくる。
自分がそうしてきたからだ。この可能性の獣は、今は自分の猜疑心の化身だ。

「……ああ」
「……ああ、ずるいわ。そうやって、受け流して痛みを最小限にしようとするの。よくやるわね、」
「“どうせそれしかできないからって縮こまっているんでしょう、馬鹿みたい。もっと他にやれることあるのだろうにね”……」
「……」

どこまでも不毛なやり取りで、そして悪夢だ。ただ永遠に牙を立てられ続ける、――反抗も何も無意味で、目覚めるのが最適解な夢の中。
そもそも一人しかいないのだ。一人しかいない、はずなのだ。

「……それで。わざわざひとの猜疑心の振りをして来ている理由は?」
「チッ。理由。そんなものはないわ。そんなものはないし、さっきまでのわたしのいうこと、全部あなたの思ってることなのは、ほんとうだからね」
「では質問を変えよう。誰の差し金だ」

「――あなたは知ったところで、視えないんだから意味が無いわ。そうね、さっきも言ったけれど、よほど道を違えなければ出会うことは決して無いわ。けれど」

同じ色の目は、どこまでも憐れみに満ちている。
猜疑心の振りをしていた可能性の獣は、何も疑うことをせず、リンジーに小さな指を突きつける。

「あなたは、獣道を歩いていくんでしょうね」

否定も何もできないし、するつもりもなかった。人魚に関わった以上、道を踏み外していくのは必然だと思っている。そういう教えと理念の下、初めは自分の身を守るために動いていた。それが他人のためになった。

「だからいつか必ず私達に出会うの。その時は、違わぬ活躍を見せてほしいものだわ」

真っ暗な闇が、端から崩れていく。
白に塗り替えられていく。何もかもが真っ白に染まっていって、何も見えなくなる。

『……ああ、いいさ。またな、リンジー』

いま、聞こえると思っていなかったひとの、声がする。


「――!!」


目を開ける。いつもと変わらない、自分の部屋の天井が見えた。
延々と誰かに罵られるような夢を見ていた。まただ。いつも言われていることは正しいし、それをどうやって正せばいいのか、まるでわからないのだ。
なにより今の夢は、二度寝する前の続きではなかった。最近すっかり続き物の夢を見るようになっていて、よく分からない店舗でかつての同僚たちや展示物の人魚とわいきゃいやっているのだ。毎日。よくも飽きずに。何故か客にゴリラが来るなどしている店で。

「……」

もう集うことは絶対にない顔ぶれで、楽しそうにやっているのだ。

「……クソッ……、……クソ、……」

そして、何となく分かってしまった。――その夢はもう終わったのだ。
じき記憶からもなくなって、面白かった夢の一端として処理される。

それが無性に悲しい。

「……もう、少し、……もう少し一緒にいさせてくれたって――」

終わらせる選択をしたのだって自分だと言うのに、起きてからそれを悔いるのは、どこまても愚かだ。
本当に自分が終わらせたのか?もうそれすら定かではない。記憶がひどく曖昧で、夢の中身もぼんやりとすら思い出せない。
ただ、懐かしい顔があったことだけは、鮮明に覚えていた。

「……」

目の端を拭って、布団に潜り込む。時計を見ようともしなかった。カーテンの向こうから差してくる日が、少なくとも日中であることは告げていた。
再びまどろみの中に落ちていく。何もない暗闇の中を潜っていく――