はるかの海のニューサマー

田舎の広い家だった。昔はきょうだいたちで賑やかしていた家は、盆と年末年始を除いてすっかり静かになった。一度都会に出ていった自分も、そういう時に戻ってくることこそあれど、再びこの田舎に戻って住み暮らすことになるなど、欠片も思っていなかった。人生なんてものは分からないものだ。いつどこで何があるか分からないものだ。楽しかったり辛かったり死にかけたり、――結婚もしていないのに、育てることになった子供がいたりとか。
自身が特異点である認識は当然出来ているし、それはあのいきものに関わってしまった時点で決まっていたことなのかもしれない。もう絶対ろくな死に方をしない、それは呪いだった。伝承の中の話だと思っていたことがにわかに現実味を帯びてきた頃、逃げるように実家に戻ってきたのだ。それからしばらくして、気にかけていた子供を引き取ることになる。
いろいろなことの真実を知るものは、もう片手で収まるほどしかいない。

「たかーみね」
「なーんだ」

駆け寄ってくる子供の髪の色は、自身とは似ても似つかない。目の色だって、似ているといえば似ているけれど違う色だ。染めているわけでも何でもない、鮮やかな夕日色の髪が、なんの変哲もない黒髪の男に駆け寄って抱き着いて、その顔を腹にうずめた。

「おうおうどうした」
「あーね、あんね、なんでもないよ」
「わーったから腹はやめて、デブがバレる」
「やーらかい!よ!」
「やめて」

素直ないい子だ。母親によく似て快活で明るいけれど、ちょっと臆病なところがあるのは果たして父親譲りなのかどうか。母親のことはよく知っているが、父親のことはあまりよく知らない。
父親は事故死。母親はそれで気が狂って、どこかへ行ってしまった。血縁に当てはなく、何よりこの子は特殊な事情を抱えすぎている。母親の面倒を見る機会がかなり多かった男が、少しずつおかしくなっていく母親の姿を見ながら、ずっと構ってやっていた。まだ歩くのも覚束ない頃から、もっと言えば生まれた頃から関わりがあったから、新しい預け先に馴染めなかったというこの子を、引き取ることに躊躇いはなかった。
けれど。これは。ひとつの、呪いだろうとも。

「ねーね」
「はいはい」
「みかん食べる」
「おまえほんとみかん好きだな」

畳の上に胡座をかいた男の足の上にちょんと乗って、鮮やかな夕日色が小さい手を伸ばしてくる。皮を剥かせるとボロボロにするし手もべたべたにするから、いつも皮を剥いてやる。

「ほーれ、みかん」

今なら夕日色と形容できるけど、昔はどうしてもそうにしか見えなくて、ふざけてつけた渾名が、そのままこの家での名前になった。みかんみたいな髪の色してるから、みかん。だから今の名前は鷹峰みかん。

「んー」
「みかんがみかん食ってら」
「たかみねうるへー」
「こーら口が悪いぞ」

昔の名残で、いつまで経っても名字で呼ばれるのにはもう慣れてしまった。変にお父さんなんて呼ばれるよりはずっといいけれど、外に出た時にたまに変な顔をされる。
自分の娘じゃないことを説明すれば大抵納得はされるが、そこまでするのはめんどくさかったし、可能なら放っておいてほしい。そのくらい、説明したくないことというか、説明が難しいことを、彼女も、自分も抱えさせられた。
同じ相手によって。
だからと言って相手を恨む気はないし、とても恨めるような相手ではない。むしろ同情ができるレベルで、かといっていまさらできることは、残されてはいない。
ひとつあるなら、この子を、みかんを、自分が死ぬまでは、面倒を見てやることくらいで。

「おまえほんと」
「んー?」
「……みかん好きだな」
「おう。みかんはみかん好きだよ」
「そのうち顔までみかん色になんじゃねーの?」
「なんねーよ!」

家だとこうしてよくよく喋るけど、外に出ると大人しい。人見知りをするのだ。よく外に出て遊びまわるくせに真っ白い肌と、この辺りじゃあほとんど見かけない髪の色だから、余計にそうなのかもしれない。
それか、自分のことを弁えているのか。特異点であることを理解しているからかもしれないことに思い至った時には、深く息を吐く他なかった。

「わかったから食いながらしゃべんな」
「んあい」

みかんがみかんを食べている。
ふんわり漂ってくる柑橘のにおい。

「お前ほんとみかん好きだな」
「タカミネさっきからそれしか言わない……」
「知ってるかお前。みかんっつってもいろいろあんだぞ」

小さい手が二つ目を要求してきた。卓袱台の上のかごには色の違うみかんがいくつか入っていて、男はさっき食べさせたのとは違うものを手に取った。思っていたより皮が厚い。

「まじかー。まじか?これはなにみかん?」
「えー知らね。ふつうのみかん」
「じゃあこっち」
「あ?いやわかんねーって。でかいみかん」

箱に書いてあったかもしれないけれど、その箱もどこにやったか定かではない。ほんとうに思っていたよりずっとみかんの種類はあって、ごく最近もらったやつくらいしか覚えていない。
こないだもらったのは、外皮をナイフで剥いたら、中の白い部分もそのまま食べれる、ちょっと黄色いみかん。

「なんだよー!!タカミネはどのみかんなら分かるの……」
「みかんちょっとどいて。ナイフ取ってくる」
「あいあい」

今さっき手に取ったのがまさにそれで、今はそれしか分からない。とりあえずナイフを取ってきて戻ってきてみたら、ちびっこの方のみかんが床に転がっていた。拗ねているのか。

「何だお前」
「どのみかんならわかるんだよー」
「あー?まだ言ってんのか剥いてやんねーぞ」

座布団の上に座り直す。動く方のみかんは、当然のように膝の上に戻ってきた。

「動くみかんは分かるぞ」
「うごくみかん!どれだ」
「これだ」

動くししゃべるしちびっ子の方のみかんなら、よく分かる。ついでにその母親のこともよく分かるし(父親のことはそうでもないけど)、このみかんの皮を剥いだら何が出てくるかも、よく分かっている。
それでも普通に接せるのはお前だけだよ、と。かつての同僚に言われた言葉がゆるりと頭をめぐって、誤魔化すように男は少女の頬に手を伸ばした。果物の皮よりずっと柔らかい。

「あー!!」
「ほれほれ」
「やめい!!みかんは食えない!!おいしくないぞー」
「お前なんかまだまだ青いみかんみたいなもんじゃねーかよ」

ぱっと手を離す。喋るみかんはぴいぴい何事か喚きながらも、男の傍を離れようとはしなかった。適当にあしらいつつ皮を剥いて、切り分けて、ひとつ摘んで自分の口に放り込む。ちょっと甘さ控えめのみかん。

「みかんも」
「はいはい……ほれあーん」
「あーん」

咀嚼する顔が見る間に沈んでいくのを見て、甘いみかんを期待されてたんだろうなというのは容易に想像がついた。だが剥いたものはしょうがないので諦めて欲しい。二つ目を差し出すと、いやいや受け取って口に放り込んだ。

「みかんこれじゃない黄色いのがよかった……」
「おうそうか。これじゃない黄色いやつか……どれだっけ……」
「これはどっから来たみかん?」
「海の方から来たみかん」

たまに同僚が遊びに来ることがある。みかんとも顔なじみで、みかん(娘)がみかん(果物)を好きなのを知っているから、箱で持ってきてくれたり、あとは送ってきてくれることがある。今日のはそれかもしれないなあ、とぼんやりと思って、それからきりきりと胸が痛くなる。
本当はこんな、田舎の山なんかにいるような子じゃないのだ。それもこれも自分が、――

「うみ……」
「……うん、海」
「海いきたいなあ」
「行きたいかー……もうちょい待っててほしいなー」
「タカミネがよくなったらいけるんでしょ?」
「そうそう」

海に住まうものの呪いだ。首筋にくっきりと、痕が残っている。――人魚の呪い。
だから逃げるように海から離れてきたけれど、また戻れる日が来るのかは分からない。水すら恐れた時期があったというのに、と思う心と、できるのなら、望みを叶えてやりたいという気持ちとで、揺れる。ちょうど波が引いて寄せるみたいに。

「みかんいい子だもんなー」
「そうだぞーみかんちょういい子だからな!タカミネとちがってー」
「は?」
「シキがいってたもーん」
「かーっはァーあのクソ愚妹ーマジなんなのー」

再び卓袱台の上に手を伸ばして、みかんをひとつ手に取ろうとして、男はふと手を止めた。
先ほどのとは違う黄色いのもあるし、その前に食べてたのと同じっぽいオレンジ色のものもある。

「みかーん」
「あいあい?」
「次どれ食べる」
「みかんが選んでいいやつ?」
「俺が選ぶと酸っぱいのしか引かないかもしれない」
「それはこまる!!」

卓袱台の上で、二人と果物のにらめっこが始まった。




20160321:掌を繋いで(おっさん×少女アンソロジー)参加作品
アクリルガラスシリーズのスピンオフというか未来の話です。よかったねタカミネ○○確定だよ。(ネタバレを伏せる)ところでおっさん少女アンソロなのにみかんは幼女だがそこは性癖に勝てなかったよということで
この二人は気に入っているので、なんかいい感じに話を広げていきたいなと思っています。