陽光の空のセカイイチ

けたたましく階段を駆け下りてくる音。男はそれを、台所で聞いていた。

「ああーーーーーー!!寝坊!!タカミネ!!ばか!!起こしてくんないのなんで!?」
「知らねーよバーカ」

揺れる髪の毛はおひさまの色。鮮やかにグラデーションの掛かった髪をゆらゆらさせながら、台所に飛び込んできた娘を見やった。厳密には娘ではないし、さらに言えば人間でもない。その証拠に、髪の間からちらちら見える耳は少しばかり尖っていたし、その上縁の色は肌色ではない。

「めしは!?」
「あるから早く着替えろ。ほんとに遅刻すんぞ、送ってってやっから早く」
「よっしゃ」
「早くしろっつってんだろ!!」

別に、落ちてた得体の知れない子供を拾ったとか、そういうわけではない。男の昔の職場で『飼っていた』いきものの子供だ。運命というものは時に残酷で、まだ幼かった彼女を残して、父親は死に、母親は行方不明になってしまった。いろいろあった末にこの娘を引き取って、もうすぐ十年が経つ。
未だに悩むし、魘される。母親は男に呪いと枷を残した。
後悔していない、なんて嘘だ。あの時の自分の判断を悔やむことは常々あるし、きっとこの娘は、全てを知ったら自分のことを恨んでもおかしくない。それでも手元に置き続けなければならない、そんな難儀な身体に頭を抱えながら、今日まで生きてきている。娘は無事に大きく育ったし、育つほどに母親に似る。無邪気で快活なところとか、笑った時の顔とか。

「あっタカミネ!今日そういえばね、キューショクないんだった!」
「みかんお前なんでそういうこと昨日言わないの!?」

上半分だけセーラー服に袖を通した無邪気な顔が、そんなことを言ってきた。朝飯を抜いてやろうかと思った。

「忘れてた」
「クソ」

今の冷蔵庫の中身だけで、この育ち盛りが満足する弁当は作れそうにない。とにかく良く食べて良く動くから、だいたい前の日のおかずは残らないし、使う弁当箱だって全然可愛くない男物の弁当箱だしそもそもそれはタカミネの弁当箱だし、何より今ごはんがない。炊いてないのだ。朝はいつもパンだから。

「おべんと」
「わーった、わーったから、昼に間に合うように持ってってやっから」
「やったー」
「特別な」
「あいあい!」
「分かったら早く着替えろなんで下だけはいてねえの」
「忘れてた!」
「痴呆かよ」

スカートに足を突っ込みつつトーストをかじる行儀の悪さは、今だけはスルーした。車じゃ間に合うけど徒歩ではもう間に合わない、中学校はそんな絶妙な距離にある。
娘……みかんが寝坊をキメた回数はすでに両手では収まらず、まだ一年生だというのに不安しか残らない。小学校は歩いて五分だったからその癖が抜けていないのだろうとは思うが、タカミネも同じことをしてよく怒られていたので全く人のことは言えない。

「おら早くしろ」
「あー待って、待って、教科書とか準備してない気がする」
「ふざけんなよおい」
「いいや!見せてもらう!」
「よくねーから早く詰めろ!!」

昔、当時の仕事場で、同僚に言われたことがある。
『タカミネさんは、×××ちゃんのお父さんみたいですね』
今じゃほんとうに『お父さん』として振る舞うことを要求されているのだから、不思議なものだと思う。
お母さんに置いていかれた人魚の娘、ということで通っているから、タカミネのことを、人魚に誑かされた男、なんていう人もいる。それはそれで都合がいい。下手な詮索を受けるくらいならそれでいいのだ。童貞だけど。

「オラー行くぞ早くしろー」
「ああーい!」

セーラー服に着られた人魚が、階段を一段飛ばしで駆け下りてくる。そのままスニーカーをつっかけて玄関を飛び出して、軽トラックの荷台に飛び乗りそうなのを腕を掴んで捕まえて、助手席に叩き込んだ。

「えーなんで」
「何でじゃねえ飛ばすから危ないに決まってんだろ」

エンジンをかける。始業まであと十五分、車だと十分でつく。そこそこ飛ばせば。

「やったー間に合う!怒られない」
「ちったあ怒られて反省しろやお前」

こん、と頭をどつかれて縮こまったみかんは、隣でハンドルを握るタカミネを見やる。友達のお父さんよりだいたい年上っぽい、けれど見た目は全然若い(とよく言われる)『お父さん』。男性にしては少しばかり長く伸ばした髪が首元にかかっている意味を、みかんはようく知っている。

「忘れもんない?」
「たぶん」
「まー言われてももう遅いんだけどな」

田んぼの真ん中の舗装された道を、軽トラが軽快に飛ばしていく。こちらに手を振ってくる見知った顔の農作業中の老人に手を振り返しながら、みかんは中学校へ送られていった。





弁当箱の下の段にみっちり詰めた炊きたてのご飯の上に、山ほど鰹節をまぶして醤油を一回し。庭の畑からむしってきたサニーレタスを雑に敷いたら、レトルトのミートボールを爪楊枝に刺して詰めて、さっき焼いた卵焼きを詰める。魚肉ソーセージを一本袋から出して弁当袋にダイレクトに放り込み、茹でたブロッコリーを適当に切って詰める。作りおきのあったポテトサラダも適当に詰めたら、あとはもういいかな、という気持ちになったので、微妙な隙間にはミートボールを増量して対応した。
なんてったって食べ盛り。運動部の男子学生よりも食べるとか食べないとかで、給食掃除機の異名をつけられたとか、そんなことを前に聞いた。同じだけ給食費を払っているんならもりもり食ってこいという気にもなるが、女子としてどうなのだろう。女子である以前に人魚だが。

「ふいー」

授業の終わる時間に合わせて、今度は軽トラではなく自転車に乗った。弁当はリュックに入れて背負って、田んぼの畦道を飛ばしていく。でこぼこ畦道で酷使された自転車は、タカミネの一番下の妹が学生の頃に使っていた自転車だった。もう何年ものになるかはわからないが、たまにみかんも乗る。
自転車を飛ばして、車じゃ通れないところを通ってショートカットして十五分。ちょうど中学校の鐘が鳴る。お昼休みだ。
遠目から見てもとにかく目立つ、鮮やかな髪が目に入った。昔、どうしてもみかん色にしか見えなくて、ふざけてそう呼び始めた髪色は、基本的に黒しかない人間の中学校ではやたらに目立った。

「タカミネーおべんと!!おべんと、」

めちゃくちゃでかい声で叫びながら走ってきたみかんは、制服ではなくジャージを着ていた。叫びながら来るの、だいぶ恥ずかしいのでちょっとやめてほしい。とはいえ田舎の中学校、一学年の生徒の数は両手で数えるには指が足りないが、足まで持ち出せば足りる程度だし、その大部分の親と家は一致する。みかんの『お父さん』が自分なのも、周知の事実だった。

「お前飯のことしか頭にないのか」
「だーってお腹空いたんだもんーさっき体育だったの!ほら!」
「見りゃ分かるわ」

校舎の際に、友達だろう女子生徒が見える。こちらのことを認識したのだろう、ひとりが頭を下げてきた。待たせるのもどうかと思って、弁当を手渡して、そのまま肩を掴んでくるっと半回転させた。ぐりんと首が動いて、きょとんとした顔がこちらを見てきた。

「友達待たせてんだろ?早く行け」
「えー別に平気だよおヘーキヘーキ」
「昼飯の時間がなくなる」
「それは困る!」

ぴ、と背筋を伸ばして、それから今にも走り出しそうな構えをとってから、みかんは思い出したようにタカミネのほうを振り返った。

「まだなんかあんの?」
「なんもないよ!おとさんありがとう!」

ぶんぶん振られる弁当の中身は無事だろうか。考えないことにした。どう考えてもみかんが悪い。あっという間にタカミネの元を離れて、待たせていた友達と談笑しながら校舎に入るのを見送って、自転車を押して帰路につく。このまま晩飯の買い物をして帰ろうかな、と思ってから、そうなると車でくればよかったな……とほんのり後悔した。





「みかんのとーちゃん若いよなー」
「ぼくの自慢のおとさんだよ、怒るとこわいけど」

机を三つくっつけて弁当を広げて、友達とお昼ごはんを食べている。みかんの『お父さん』はよく学校に顔を出す人で(ほとんどがみかんのせいなのだが)、学校でも知らない人のほうが少ないくらいだ。二年生の先生と同級生だとか聞いたし、この学校の出身だとも聞いた。

「今朝も怒られた」
「それはさあ、みかんが弁当忘れるからじゃん!」
「そうなんだけどね!」

女子生徒三人分の笑い声。二人分のが収まる前に、みかんはドヤ顔で言い放った。

「まあね、けどね、世界一のおとさんだからね」
「ファザコンかよー」

みかんは絶対に、タカミネのことを『お父さん』と呼ばない。みかんのお父さんはタカミネではないからだ。タカミネもそれは分かっていたから矯正はされなかったが、人前で『お父さん』に当たる人を名前で呼ぶのはヘンだと気づいたのが、小学校の真ん中くらいの頃だ。その頃から人前ではおとさんと呼ぶようになった。早口で言ったらお父さんもおとさんもそう変わらないだろうけれど、みかんはそれらを区別しておきたかった。一度だけ抱き上げてくれた本当のお父さん。まだ今よりずっと魚だった頃の記憶だ。顔はもう写真を見ないと思い出せない。
教室に差し込んでくる陽の光が眩しい。窓側で弁当を食べていた男子が立ち上がって、カーテンを閉めた。

「あっりんご入ってるよっしゃ!食べる?」
「いいの?やったーみかんあるよ!みかんほら、みかん好きじゃん」
「超好き!」

友達の誰もが、『お父さん』が二人いることを知らない。どっちのお父さんも世界一と信じて疑わないみかんは、小さなケースにみっちり詰め込まれたうさぎりんごをみかん(果物)と交換して、満面の笑みを浮かべていた。




20161008:歩みを寄せて(おっさん×少女アンソロジー)参加作品
アクリルガラスシリーズのスピンオフというか未来の話でニューサマーの正統続編です。ちゃんとみかんが幼女から少女に!!!
もし3があるなら、そこにぶち込む話はもう決まっているのです。