Day19:風邪


「風邪なんてねェ。陸では馬鹿は風邪引かないとか言うらしいけれど」

じゃあ馬鹿じゃない証明になったっすね、とか。そんな言葉が脳裏を過ぎって――過ぎるだけだ。話す力もない。
藻屑から飛び出してきたイワシを雑に追い払い、軽薄な船を叩き壊したあたりで、キノイの体調が急変したのだ。陸に上がるまで気合で吐くのは堪えた。あとはなんかもう記憶がめちゃくちゃ曖昧である。なんか悪いものでも食ったかと思ったが、風邪を引いたらしい。
何でクソネーレーイスが俺の部屋にいるんだよとか、なんか言いたいことは山ほどあったがその気力がまるでない。自分でもびっくりする。

「おとなしく寝てなさいな」

心底腹立つ。言葉自体は確かにそうなんだけど、ちらりと見えたドリスの横顔は、全然そんなことがなかった。
だができたらどっか行ってほしいのだが。同じ部屋にいられるというのだけで結構気が立つ。

「ああ、そうだわ。残念なお知らせがあるの」
「何スか」
「今、アナタの側から離れられないのよ。私」
「……ハァ?」

感じた嫌悪感は、残念ながら吐く方のほうがずっと強かった。水の中に出すんじゃないわよ、と差し出されてきた何かの入れ物に、さっき食べたものが戻っていくのが見える。悲しい。というかこれつまり、世話されるルート確定か。

「仕方ないでしょう。いくらアナタが鬱陶しかろうと、病人を連れ回す趣味はないわ」

そんなんこっちからお断りじゃ。もちろんだがそんなことを言う気力はない。水に浸るように高さが調整されたハンモックの上ですっかり死んだ魚のような目を晒しながら、横にいるドリスを見やる。そういえばこの魔術的リンク、初めの宿探しのときにもめちゃくちゃ振り回された記憶が蘇ってきた。効果範囲が全く安定しなくてあっちこっち引っ張られたのは、もしや体調のせいなのか。そしてそれなりにこのテリメインに慣れてきた(いろんな意味で)ので、意識してなかったというか、しばらくこのリンクにキレた覚えがないのだ。このクソ具合悪いタイミングで思い出す羽目になったのはちょっとキレている。

「……」
「そんな難しい顔してたら、治るものも治らないんじゃなくて? いいから寝てなさい」
「わかったッスよ……なんか優しすぎて気持ち悪いんスけど」
「あら。また戻す?」
「そういう意味じゃねえっす」

今までの積み重ねというかイメージというか、初手の『死ね』の印象があまりに強すぎるのは認めざるをえない。そうでなくともキノイは、ドリスに対して罪人というフィルターをかけている。実際今までその通りに、“らしい”行動が多々あった。
要は今日のドリスは、キノイ的にはあまりにも“らしくない”のだ。

「にしても、口数の少ないアナタってまるで別人ね。面白みがないわ」
「あっはい」

仲間にどんな印象を抱いているんだ、という話だが、仲間である以前に捕まえるべき罪人なのである。ずっとそれは続いていて、それが故にいつだって、気が抜けた例がない。ほぼ。
それで疲れたのかもしれないなあとか、もうちょっと気の抜き方を覚えるべきかなあとか、いろいろ考えることはある。ぼうっとする頭でふわふわと考えを巡らせていたら、ドリスから予想だにしない言葉が吐き出されてきた。

「寝れないなら子守唄を歌ってあげてもいいけど」
「ハァ?」

その見た目で。子守唄て。

「なんか変なもん掛けたりするんじゃない、でっ……オエッ……」
「だから寝てなさいって言ったじゃない」

真っ先に思ったのは何か魔法というか呪いでも掛けられるんじゃないかということで(病人相手に確実に殺しに来るのではとかなり真剣に思ってしまった)、しかし声色の限りでそんなことはなさそうだった。それにしてもあまりにもイメージに合わないので、今の返事は仕方のない返事だ。ということにしておく。

「アナタがまともに動けないと、私もエレノアさんも困るのよ」
「ハイ」

ド正論をぶつけられて黙るしかない。ぎゃあぎゃあ騒ぐ力も残ってないので、すでに黙りっぱなしなのだが。

「分かった?」
「ハイ……寝ます……」
「明日までに治るのかしらねえ」
「治すッス」

特技にどこでも寝れると書いてもいいぐらい、眠りにつく速さには自信があった。何かドリスが言っていたような気もしたが、それを耳が捉えて脳に伝えてくるよりずっと速く、意識が落ちる。半分水の中に浸かった状態で四肢と尻尾を投げ出して、キノイは目を閉じた。