Day20:海の向こうの霧のそこから


――願わくば、ずっとずっと深く沈んでいって、そのまま永遠のときを過ごしていたい。
そのくらいあたたかでおだやかなところだと思ったのだ。冷たい霧の誘いもなければ、戦場に響く鋼同士が打ち合う音も、火薬の匂いもなくて、飛び交う電波じみた不思議な現象もなくて、ただただ穏やかな場所。
それはずっと求めていたような温かさで、ただひたすらに彼を包んでくれるのだ。遠い昔に失われた温かさを、温もりを、恒久に与えてくれそうだとも思った。

目を開ける。

どこまでも真っ青な世界。今まで見たことのない鮮やかな深い青が、延々と続く。ゆっくりと沈みゆく身体はピクリとも動かせなくて、ただ重力に従って沈んでいく。底知れぬ青は、ゆっくりと暗がりへ変じていく。
思えば、深い深い霧の誘いも、そういう定めだったのかもしれないと、今なら思える。霧は等しく平等であり、等しく戦果を与え、そして等しく傷つける。戦場で生き残れるかどうかなんて、一言で言ってしまえば運だろうから。一度灼かれた右腕。装甲を抜いた電刃。そんな場でいわゆる後方支援をし続けて、――そして道は拓かれた。戦場への片道切符は毎回新しく更新されて配布され、そこから戻ってこれるかどうかは――自分の腕と、運にかかっている。
そんな場所に辿り着いたのも、今ここまで生きてこられているのも、全部全部そうだって。何かの導きがあったからだって。そう思えているのは、今全てから切り離されているからかも分からない。明日のこと、次の戦場のことを考えなければならないのなら、そんなことを考えている余裕はない。

――そう、今俺は。何にも縛られなくて、とびきり自由なはずなのだ。
そのはずなのにまるで身体は言うことを聞かなくて、ただただ沈んでいくのに身を任せているだけだ。

霧は全てを包み込み、そして全てを狂わせる。
たとえばあの時あの青色に、いつか見たのと同じような青色に惹かれていなかったのなら、心を砕くこともなかったのだろうか。
大多数を守るために戦う男になっていたのだろうか。それともそもそも、石の下を這い回る虫のようにひっそりと、戦場に存在こそすれど、それ以上の何でもない何かだったのだろうか。
過ぎてしまったことを、目に留めたことを「もしも」でいなそうとしたって、起こったことはもう取り返せない。それは、戦場でなくとも、どこだろうとも変わらない。どれだけ悔いても過去に手は伸ばせない。手を伸ばさなかったことを、選択することはできない。

――俺は。いったいどうしているのだろう。

まるで他人事みたいに、何もない闇が迫るのを感じていた。深い海はそうなのだ。あるところを境にして、光の届かない世界になる。その先に待っているのは限りなく過酷な世界で――ああそうか。自分は死んだのだろうか。そんなことをふと思った。いくらでも理由は思いつく。天に昇るわけでもなく地獄に落ちるでもなく、ただ闇の中へ消えていくのか。それも随分と自分らしいなと思って、もうすっかり身を任せてしまおうかと思った。

何かが“右手”に触れた。

「――?」

右手は失っているはずだった。自分の意志で切り落とした腕は、必要としていたひとにあげてしまった。ひどく重い代わりのものも、何も感じなかったから、てっきりつけていないのだとばかり思っていた。
そこには右手がある。小さな手が、確かに右手を掴んでいた。

『――と』
「……!」
『――にひと!』

想像し得ない強い力で、上へ上へと引っ張り上げられていく。目まぐるしく変わる景色が、深い青が見る間に明るさを取り戻しそして透明な世界を勢い良く突き抜けて――

「にひと!にひと、大丈夫……?」
「……っは!?……へあっ?あ?」

青い空。白い雲。白い砂浜。――真っ青な海!
いずれもが本でしか見たことのないようなもの(仕方のないことだ。“残像領域”には、そんなものまるで存在していない)が、確かな現実を伴って目の前に存在している。波打ち際に横たわる自分の体を、引いては寄せる波が一定の間隔で濡らしていた。
ただそれ以上に。それ以上に、自分を覗き込んでいる人間が、右手を取っている人間が、信じられなかった。

「――み、ミオ……?」

空色の髪が、海風に吹かれて揺れている。
見つめてくる緑の目は見たことのない色で輝いていて、そして何より。

彼女に確かな質量があり、そこに実体として存在していたのだ。触れることすら叶わなかった彼女が。そこに。

「えっ。……えっあの?えっ?」
「よかった……にひと、起きてくれた」
「えっはい。えっ。私は大丈夫ですけど……えっ?」

ああ、自分は死んだのかと、改めて思った。それなら全てが納得できて、説明がつく。自分の右手がある理由も、残像領域での僚機――ミオに触れられる理由も。
思っていたよりずっと、死後の世界は鮮やかなのか。それとも一時与えられた夢かなにかなのだろうか。

「にひと、あのね」
「はい」
「ミオ……今、すごく嬉しいの」
「な、何がでしょう」

目一杯の背伸び。そういえばこういう時、自分の知る彼女はふわりと浮いて目線を合わせてきた。普通それはできないのが当たり前なのに、いつもそうだったから、すっかり忘れていた。腰を落として視線を合わせる。

「にひとと一緒に、海に来れたのと……それから、手……触れること」

ああ、これが、これがきっと、彼女の本来の姿なのだろう。活発そうには見えないけれど、控えめに笑う顔が、静かに咲いているような花が。霧に撒かれて見えなかった今までとは、まるで違う。両の手の平を見つめて、それがどれだけ嬉しいかと言わんばかりに――と言っても破顔するほどではないけれど、心底嬉しそうに笑っていた。今まで見たことのない顔をしていた。

「……そうですか……」
「にひとは?」
「そんなの、決まってるじゃないですか――」

手を伸ばす。抱き上げる。手にかかる重さは全然大したことがなくて、けれど確かに彼女はそこに存在していて、今まで何度渇望したか分からないことが、実にあっさりと達成される。手を伸ばして触れられればと思ったことは数知れずで、そうしたら彼女の悲しみを多少は拭ってあげられたろうと、何度となく考え、そのたび現実に打ちひしがれた。
けど、もう、関係ない!

「俺だって嬉しい!嬉しいよミオ、――ほんとうにやっと……やっと!」

何故、というのは、もう考えないことにした。
思い込みのまま走り続けて、あたたかくおだやかな世界を、二人で走れればいいと思った。何も聞こえない。狭い棺の中の水が流れる音も、数多の機械の駆動音も、誰かの悲鳴も、火を吹く火器の発射音も。それでいい。それでいいんだ。
ここに残像はいないはずだから。