Day10:とある本の戯れバカンス(闘技大会番外編)

「呼ばれた」のだ、と思った。

親しいだれかに、懐かしい声に、名を「呼ばれた」のだと。そう感じた。
微睡むようにゆらゆらと、いつ覚めるともしれない浅い眠りを、長い間、繰り返していた。それはどれくらいの時間だったのか。数えていなかったことさえ、その時に気づいたのだが。
ただ、響いた声につられるように、引き寄せられるように、沈み切っていた意識が浮上していく。

――そうして、「目」を、開いた。

作られた五感が、降り立った空間を認識するには、少しばかり時間が必要だった。久しぶりの「目覚め」だ。あの世界で眠ってから、さて、どれほどの時が過ぎたのだろう。瞬きを何度か繰り返す。目の前に厚く被った前髪の向こうは。

「……、海?」

ひとつ言葉にしてみれば、書たるこの身はいとも容易く、その意味を引き出す。
海。地表上、自然に、一面に塩水をたたえている部分のこと。青空の下では、深い青、多くは鮮やかな色合いに映り、美しさを讃えられることもある場所。
耳をすまさずとも、潮騒が聞こえてくる。鼻先を掠める、少し癖のある、おそらくは潮の匂い。
海、というものを、実際に見たことはない。あの世界にいた頃でさえ、海にいった覚えはなかった、ように思う。

では、ここは、いったいどこなのだろう。

「……れ!アド!!」
「はぁ? いやまさか見間違……」

声がした。
そう、それが眠りを覚ました時の声だったのかは、分からない。けれど、声のした方には、見知った顔が二人。薄緑の長い髪の女性と茶髪の青年。名前だって、すぐに思い出せる。
咲良乃ユーエと、ダグラス・ブラックウッド。
あの世界にいた頃、何度も共に戦い、言葉を交わした「友人」たちだ。朗らかな声に、自然と笑みがこぼれる。ああ、そうだ、こうだった。笑い方も、思い出せた。

「アドー!!わたし!!わたしね、覚えてるー!?」
「おや……もしかしなくとも、君、ユーエかい?」
「えっマジでアドじゃん……何この偶然……」
「そう!ダグラスもいるのね」

右も左も分からない世界で、知り合いに会うこと自体、本当に幸運であることは間違いないだろう。はしゃぐユーエと、戸惑っている様子のダグラスは、どちらも、以前とは印象が変わったように見える。
彼らは、人だ。あれから時が経ち、人として生きて、成長してきたのだ。それは、とても喜ばしいことに思えた。

「あっねえ。ダグラス、何でいるかもわからないならもうこれね、闘技大会」
「はい?」
「三人いないと駄目なの!今三人いるのね、完璧じゃない」
「えっ待って闘技大会って戦うの?俺らが?何で??」

闘技大会。ふむ、とユーエが示した先を見やる。張り紙に書かれた事項をなぞるように読みながら、最初に沸いたのは、純粋な興味だった。闘技大会とは、どんなものだろうか。
戦いについては、全く問題ない。これでも、本の中で、幾多の戦闘をこなしてきた身だ。魔術の扱いについては、自信もある。この世界で同じように揮えるかは分からないが、その時はまた新たに、この身に記された知識から最適なものを選び出すだけだ。

「そこの三人!闘技の参加者なら受付はこっちだ!」
「はーい」
「えっちょっとユーエさん」
「まあ、何もしないより、面白そうではないかな?」
「アドまでちょっと ちょっと!!」

ダグラスが焦るのは、彼がもともと戦う人間ではないからだろうとは思った。けれど、闘技大会と銘打って、なおかつ広く募集をしているところを見るに、命に危険が及ぶものではないのだろう。怪我くらいはするかもしれないが、彼自身は薬屋の主であるし、本の中でも薬で治療をしてくれていた。ユーエも戦いの心得をもち、応急手当の類は出来ていたはずだから、問題はないはずだ。
縋るような眼差しに、言葉を投げかける。

「いいだろう、ダグラス。本が閉じてから、また会えるとは思っていなかったからね。人はこういうことを、思い出作り、というのだろう」
「そっすね……いやそっすねじゃない。納得はするけど、いや、戦うの!?また!?俺薬屋だし本の中でもほら薬投げるくらいしかしてねぇよ!?見てませんでしたかねお二人とも!?」
「逆にちょうどいいくらいね!わたしが怪我したら、なんとかして!」

彼が後ろから回復をしてくれるのならば、これほど心強いことはない。その分、彼をユーエと二人で守ればいいだろう。
ただ、万が一、怪我を負わねばならない時は、なるべくこちらで引き受けよう、と思った。本体さえ無事であれば、この身はいくら傷ついても構わないのだから。

「あああアルに怒られたらどうすんのマジで」
「だいじょうぶね!」
「根拠は!?」
「ないのね!」

打てば響く、というのは、このことを指すのだろうな。テンポのいい言葉の応酬に、思わず笑ってしまった。懐かしさと、ほんの少しの寂しさも含めて。



ウェットスーツ姿のユーエにならい、服装を変える。変えたといっても、この身体は触れられる幻のようなもの。意識すれば、ライトの色を変えるように、すぐに切り替わるのだが。
水着、と呼ばれるものについては、いくつか記述と図があった。だが、どれも露出が高く、戦いには不安が残る。結果的に、腕と脚のみが露出する古いタイプの水着を選ぶことにした。白と黒のボーダーで、囚人服と呼ばれるものに近い。いつもの服装よりも軽装だが、まあ、水の中ということもある。動きやすい方がいいだろう。

「……何でこんなことになってんだろうな……」

げんなりした様子で、ダグラスはまだ着替えていなかった。彼はおおよそ、本の中で会ったときと同じような服装をしている。あれが普段着なのだろうが、水の中で戦うには、動きにくいのではないか。
ユーエも同じことを思ったのか、彼に歩み寄りながら口を開いた。

「あ。ダグラス、その格好で海入るの駄目ね。着衣水泳はオススメできない……ってお姉ちゃんが言ってた」
「お姉ちゃんが……ああ、アルムも元気そうで何よりです……」
「ダグラス泳いだことあるのね?」
「え?いや……俺そもそも海なんて初めて見たレベル……」

おや。
予想外だったのか、ユーエも固まった。こちらも初めてではあるが、ある程度の知識はある。それすらないのなら、確かに乗り気でないのも頷けた。全くの未知のものに、人は抵抗を覚えるものだ。恐怖を覚えることもあるだろう。

「……なんか急に心配になってきた」
「誘っといてそれ!?」
「とりあえず水着着るのね!話はそれからよ!」

けれど、気を取り直したユーエの勢いに押されて、水着を借りるために場所を移動することとなった。
胸に去来する思いは一つ。

……彼女は、こんなに押しの強いひとだっただろうか?



ダグラスが水着を選んでいる間、ユーエは受付から受け取った用紙に、名前を書き込んでいた。彼女の名前がさらさらと書きこまれたところで、ユーエが顔を上げる。

「あ、あのね、アド」
「なんだい、ユーエ」

いつものように応じると、彼女は少し間をおいてから、言葉を続けた。

「わたしね、ずっと思ってたのよ、アドとまたお茶飲みたいって」

その言葉に、目を瞠る。たった一度、茶を共に飲んだことを、ずっと覚えていてくれたのか。
一瞬、今の彼女に、昔の彼女が被った。自然と、口元が緩んだのを感じる。同時に、安堵した。ユーエとて、すっかり変わってしまったわけではなかったのだ。

「おや……それは嬉しいよ。そう思っていてもらえたのなら、光栄だ」
「でも海の中じゃどうしようもないのね」

少し落ち込んだ様子を見せる彼女の肩を、軽く叩く。励ますときは、こうだった。思考しながらでなくては、行動出来なくなっているとは。眠っている間に、人としての振る舞いが随分、下手になってしまったらしい。

「ずっと海の中、というわけでもないだろう?一戦終わるごとに、皆でお茶でもしようか。いいかな、ダグラス」
「あっはい?いや一向に構わねぇけど……闘技出るの?出るしかないの?」

水着を選びながらも、ダグラスは未だに乗り気ではないようだ。が、断ち切るようにユーエから用紙が差し出される。受け取った用紙には、ユーエの名前と、似たような筆跡でダグラスの名前が書きこまれていた。さっきまで水着を選んでいた彼が書いたわけはないから、ユーエが記したのだろう。

「わたしもう申込用紙書いちゃったのね。アドの名前の綴りわかんないから、書いてくれる?」
「ああ、分かった」
「待って??俺は??俺の名前勝手に書いたの??」
「たぶん合ってるから大丈夫」
「そういう問題じゃないんですけど……ユーエさん……」

肩を落とすダグラスと、それがどうした、と言わんばかりのユーエ。彼らはこんな関係だったろうか。これも、成長、ということなのだろうか。首をかしげつつ、ペンをとった。
ユーエとダグラスの名が記された下の欄に、Adele Eremurus、と綴る。この手で文字を綴るのは久しぶりだったが、どうにか、それらしくは書けたらしい。
書き込んだ用紙を、受付へもっていく。差し出せば、受付係の男性は、良い笑顔を浮かべたまま受け取ってくれた。
名前を確認するような素振りの後、視線がこちらへ向けられる。水着選びに戻ったダグラスと、その近くで待つユーエ、を辿って、またこちらへ戻った。

「よしオーケーだ、じゃ、楽しめよ!」

参加受付の印が、用紙に押される。こうして、三人での出場が許されたのだった。



「そういえばダグラス、どうやって戦うのね」
「えっ??……いや……えっ……水中で薬投げるわけにも行かないし……いやそもそも俺薬担当でいいのほんとに?えっ?」
「ユーエはどうするんだい?」

問いかければ、ユーエは事もなげに、近くに置かれた錨を示す。そういえば、彼女は人の女性にしては力がある方だった。戦闘の時も、得物の剣を手足のごとく振り回していたように思う。

「わたし?なんかその辺に錨が落ちてたからそれ使おうかと思って」
「落ちてたのを??勝手に使うの??ユーエさん??」
「あ。銛が余る。貸してあげるのね」
「あっはい。……はい……銛……」

押し付けるようにして渡された銛を、ダグラスはじっと見ている。武器として使えるか、という点を心配しているのかもしれない。似たような形をもつ槍ならば、素人でも扱いやすい武器ではあるが、銛に関しては武器として用いる者の話を聞いたことがない。この身に記された知識にも、そのような話はないから、恐らく一般的ではないのだろう。

「晩御飯も確保できるかもしれないのね、頑張って」
「無理……絶対無理……」

ここまで落ち込んでいる彼も、どれくらいぶりだろうか。さすがに、戦闘前に補助魔術を使った方が良さそうだな。そう思いながら、先程ユーエにしたように、軽く肩を叩いて言葉をかけた。

「ユーエと君と一緒なら、大丈夫だろう。本の中での経験が生きるはずさ」
「アドが言うとなんか説得力ある気はするけど納得行かないんですけど!?死んだらどーすんのこれ!?」

彼の憂慮は、突き詰めれば命の危険にあったらしい。それについて憂慮するほどの問題はない、と説明することもできたが、残念なことに開始時間が差し迫っている。こういう時、「彼女」が記した知識が導きだした応え方は、端的なものだった。

「大丈夫ね」
「大丈夫さ」
「大丈夫じゃねぇーーーーーーッ!!!」

ダグラスの叫びを背に、大会が開かれる会場へと向かう。
何が起こるのかは分からないが、それでも、――共に在れるこの時間を、ただ、楽しもう。