Day19:風邪
今、ドリスは世にも不思議なものを見ている。
「風邪なんてねェ。陸では馬鹿は風邪引かないとか言うらしいけれど」
視界の先には、ハンモックに寝伏せる深海人。もといキノイがいた。いつもなら即座にぎゃあぎゃあと喧しい言葉が飛んでくるだろうに、今日は返事すら無い。
元気が一番の取り柄(だとドリスは思っている)の彼は、今風邪を引いている。ここに来てからかれこれ三週間ほどになるだろうか。探索中はさておいて、こんなにも静かなキノイをドリスは見たことがなかった。静かすぎていっそ気味が悪いし、この深海人も一端のヒトなのね、なんて思っている。
先日の探索を終えた後、キノイは急に具合を悪くした。それは本当に、急に、としか言いようがない。何か予兆はあっただろうか、と思い出そうとしても、彼は元気に呑気に、つまりいつも通りに夕飯を食べていた姿しか浮かばない。
「おとなしく寝てなさいな」
キノイが睨んでいるような気がする。その視線は弱いものだったが、まあでも元気があったら睨みつけている顔だろうと思う。今はそんなことに体力を使わないでほしい。
自分の存在が火に油を注いでいるようなものなのだろうし、ドリスも好きでキノイの部屋にいるわけではないのだが、已むに已まれぬ事情があるのだ。
そういえばそれを言っていなかった気がして、ドリスは口を開く。
「ああ、そうだわ。残念なお知らせがあるの」
「何スか」
「今、アナタの側から離れられないのよ。私」
「……ハァ?」
嫌悪100%の言葉だった。だからそんなことに無駄な体力を使わないでほしい。
早く治ってもらわないと、この状況、ドリスも迷惑なのである。探索が進まないだけでなく、いつも以上に自由に行動も出来やしない。
ドリスとキノイを結ぶこの魔術的リンクは、どうも日によって効果範囲に振れ幅があるらしい。調子の良い時は結構な距離まで離れることができるし、調子の悪い時はこのザマだ。
その条件は、今まで明確に分かっていなかったが――お互いの体調が起因していることは、今日はっきりしたと言っていいだろう。
さて、この深海人を殺したらどうなるのだろう。
「仕方ないでしょう。いくらアナタが鬱陶しかろうと、病人を連れ回す趣味はないわ」
剣呑な思考などおくびにも出さず、ドリスは言う。実際、病人を連れ回す趣味は無いというか、この状況で外に出しても倒れるのが関の山だ。全くもって合理的ではなかった。
「……」
「そんな難しい顔してたら、治るものも治らないんじゃなくて? いいから寝てなさい」
「わかったッスよ……なんか優しすぎて気持ち悪いんスけど」
「あら。また戻す?」
「そういう意味じゃねえっす」
別に優しくしている気もなかったが、キノイにとって今日の自分は"らしく"ないのだろう。彼はドリスのことを、アビス・ペカトル――罪人というフィルターを通してしか見ていないだろうから。
まあ事実、最初にキノイが追ってきた時は真剣に殺そうと思っていたのだし、大体間違ってはいないのだ。警戒するのも当然だろう。
「にしても、口数の少ないアナタってまるで別人ね。面白みがないわ」
「あっはい」
それにしても寝付く気配がないのだから、思っているより容態が悪いのだろうか。無理はしないタイプだと思っていたが、今後は気をつけておいた方がいいのかもしれない。
「寝れないなら子守唄を歌ってあげてもいいけど」
「ハァ?」
割と真面目な提案だったのだが、これもまあ、"らしく"ないようだった。
ネーレーイスにとって、歌は生活と密接に紐づいていた。歌と言ってもそう長いものばかりではなく、食前の祈りなども彼女たちは吟ずる。
何より、彼女たちは歌に魔力を載せることを得意としていた。今は首枷のせいでその力を完全に発揮できていないが、大がかりな魔術――例えば、世界転移――を行使するときは、必ず歌を歌う。船を沈めるくらいはそこまで労力が必要なわけではない。けれども歌うと気分が乗るので、そうすることが多い。
つまるところ何が言いたいかというと、寝付けない子供に子守唄を歌うということは、ドリスにとって普通の感覚なのである。まあ、子守唄なんて長い間歌ったことはないのだけれど。
「なんか変なもん掛けたりするんじゃない、でっ……オエッ……」
「だから寝てなさいって言ったじゃない」
溜息の代わりに、口の端から泡が漏れた。何を言っても逆効果な気がする。
「アナタがまともに動けないと、私もエレノアさんも困るのよ」
「ハイ」
「分かった?」
「ハイ……寝ます……」
「明日までに治るのかしらねえ」
「治すッス」
本当に治るのだろうか。耐久力と回復力の高さはまた別だろうし。これは明日の探索が取り止めになることを覚悟しておいた方がいいかもしれない。
そうなったら、エリーに本でも持ってきてもらおうと思った。この状況、ドリスにとってあまりにも暇である。
キノイは目を閉じている。もう眠りに就いただろうか。
「……ほんと、面白くないわねェ」
その言葉は誰が聞くこともなく、水の中に溶けていった。