02:ハローハロー魔王さま

凍えるような寒さだった。
目を開けたくなかった。俺はこの世界を徹底的に拒否して拒絶して、そして××したはずなので――次目を開けたときなんていうのは、

「お目覚めですか?」

――来てしまったよ。次目を開けたとき。冗談じゃねえ。
目を開けた俺は、二人の眼鏡の男に覗き込まれていた。一人は見るからに理系〜で性格の悪さ〜が全身からにじみ出ていた。そう、ちょうど俺みたいなやつ。もう一人は随分お人好しオーラが全身から溢れているけれども、その肉体はあまりにも強靭だった。下手したら俺二人ぶんくらいの重さがあるのでは? というくらいの圧がある筋肉だった。圧。もうすごい圧。

「……あ、うん、ああ……」

どこか覚えがあって懐かしいような、それともまた何かが違うような場所だ。寒い。
辺りを見渡す。空に大きなジンベイザメが泳いでいる。――ジンベイザメ? 本当に?
よくよく見てみればそれはいびつというか、少なくとも生き物ではない。何かしらの構造物だ。余計に既視感を覚え始めたが、それはそれとして寒い。

「よかったです。心配していました」
「お人好しもそこまでにしてください。俺たちの仕事が始まるんですよ」
「す、すいません」

朧気な空に鎮座しているそのジンベイザメは、明らかに自分が見てきたどれよりも大きいし、どれよりも異質な存在だった。中に何かがある。何かが存在している。けれどそれが、ここからでは何もわからない。

「あれは……」
「あなたのものですが。記憶にございませんか?」
「いやさすがの俺もあそこまででかいジンベイザメを飼ったことはないです」

思わず口をついて出た言葉に、帽子を被った方の眼鏡の眉間にシワがよる。ああそういうの求めてないタイプ、と思うと、ほんの少しだけのやりづらさを覚えた。
別にあいつは頭良かったわけでも眼鏡だったわけでもないけれど、そういう何か。

「あなたの経歴については一切聞いていません。あれがあなたのものなのかどうかということを覚えているかどうかを聞いているんです」

こいつめんどくせえ。

「……いいえ。というか、ここに来るまでのことをまるで覚えていません」
「なら最初からそう言ってください。説明が必要かどうかの判断基準はそこです」

ていうかマジで俺みたいだ。俺もこういうことするわーめっちゃしたわーと思うと、さながら業が跳ね返ってきているのかのような気分になった。そういう反射はお断りだし、そもそも――

「スズヒコさん。あの、そろそろ」
「はいはい。分かってますよニーユくん」

俺の顔を半分ほど覆っていた髪を強引にのけた眼鏡の――両方とも眼鏡だったわ。性格が悪い方の男は、空を飛ぶジンベイザメを指差す。そして言うのだ。

「あれが貴方の城。ようこそ【水族館の魔王】」
「……は?」

【水族館の魔王】だって?
さすがにもう、わけがわからなかった。わけのわからない、長い長い夢は一度だけ見たことがあるけれど、その時よりずっとわけがわからない。あの時は確かよくわからないコンビニで、あの水族館の全員が揃っていた。昔の夢の話なんてしてもしょうがないのだけれど、それを疑って身構えて、すぐにそれはない、と思った。
あの子はもうそんなことしないよ、と言ったのだ。

「私、ニーユ=ニヒト……アルプトラと」
「俺、咲良乃スズヒコが貴方をサポートします。ですので、可能な限りで魔王めいてください。リンジー・エルズバーグ」

何が水族館の魔王だ。魔王なんかじゃない。なかった。ただの飼育員だったっていうのに。
――ただの水族館の飼育員でありたかったはずなのに。ふざけるなよ。
口から出掛かった怒鳴り声を冷静に飲み込み、ひとつだけ聞いた。

「……拒否権は?」
「ありません」

期待を込めて聞いてみた問いかけは、ばっさりと一刀両断されてしまった。
抵抗は無意味だ。どう足掻いても逃れられないらしい。観念して両手を挙げた。――寒い。


  ▼  △  ▼


あまりにも寒い寒いという男を見かね、持たされていたインバネスコートとマフラーと湯たんぽ入りのぬいぐるみ、そしてもこもこのブーツまでを装備させ(何故かそのためにばっちりと準備してあったのだ)、スズヒコは嘆息した。
端的に言ってめんどくせえ。めんどくせえことに巻き込まれてしまった。かなり不可避といった感じで。
【水族館の魔女】は言った。少なくともここには、周りが言うよりも早く“世界の危機”が訪れ、そしてそれに対抗するために自分ともう二人を呼んだのだという。ふざけた話だと思ったが、見知った顔まで引き合いに出されてしまったらもはや頷くしか無い。

「どう思う?」
「どう思う……とは、どれについてでしょうか……」

帽子につけられた星型(あの魔女はイトマキヒトデと言って聞かなかった)のモチーフの位置を調整しながら問いかけた相手は、同じように彼女に呼ばれてきた人間だ。
ニーユ=ニヒト・アルプトラ。少なくともあの寒がりのクソジジイよりはずっとまだ使えそ――働いてくれそうで、それは大変によろしい。体格もいいし、スズヒコは力仕事は全て彼に丸投げする決意を固めた。

「はあー……何もかも。何もかもだよ!俺はだいぶ不機嫌だ。何が悲しくて突然こんな……第一内容が掴み切れていないし、説明が雑にも程がある。あの魔女」
「ですよねえー……何を考えているかわからないっていうか、俺たちにも何も言いたくありませんみたいな……」

【水族館の魔女】と名乗った少女は、それはもう子供っぽい言動で、彼らに言い放ったのだ。『今からあなたたちはオレに従ってもらいます!』と、ドヤ顔で言ったときの両隣の凄まじく嫌そうな顔を、ニーユは鮮明に覚えている。

「けど従うしか無いみたいな不可抗力だよ!?こんなん誰がどうやったら不機嫌にならずにいられるって言うんだ。何が【水族館の従者】だよ……」
「スズヒコさんは従者なんですね……俺【水族館の料理人】だったんですけど……」
「えっマジで。じゃあ俺飯作らなくていいじゃんやったあ。最高」
「今すごい高速の手のひら返しを見た気がするんですけど」

それはそれとして、だ。あの【水族館の魔王】と【水族館の魔女】は間違いなく知り合いで、そして絶対にどこかで繋がっている。
そう確信しているスズヒコは、ニーユに耳打ちをする。

「まあそれはそれとしてさ。いざとなったら謀叛とかする気ない?」
「えっ気が早くないですか?時期尚早にもほどがありすぎませんか?俺でもなんかもうちょっと機を伺いますよ」
「やる気がないわけじゃないことは分かったよ。まあ多分、その機会は来ないだろうけど」

少なくとも、今こうして話している中身は、【魔女】には筒抜けだ。今頃えーっ何だよそれ気が早くない!?とか言っているに違いない。だがそれ相応の行いをそっちもやってんだぞ。分かれ。――深呼吸ひとつ。

「……俺もそう思います。なんだかとても嫌な予感がして……」
「はあ。何か予知能力でもあるのなら、ぜひとも今後について詳しく聞きたいところだけど」
「ただの勘ですよ!それ以外の何物でもないです……けど」

スズヒコが帽子に長めの髪の毛を入れ込んでいるのを見ながら、ニーユは少しばかり俯いた。自分の眼鏡に手を触れて取ろうとして、そっと戻した。

「絶対、……ぜーったい、とても面倒というか……けど、どうして俺たちだったのかは、わかるんじゃないかなと、思ってるんですけど」
「……その勘が当たることを祈っておくよ。俺だって理由なく呼び出されたくはないしね」

何もない水路に、ちらちらと魚の影がちらつき始めた。
いくつもの魚影。それが【魔王】によるものなのか、【魔女】によるものなのか、少なくともニーユには判別がつかなかった。

「(――水族館、か)」

海の生き物を飾る施設。
知ってて呼ばれたのだとしたら、あの【魔女】は相当に残酷だ。それこそ魔女を飾る施設名乗るに相応しい。そう思いながら、ニーユは上着に袖を通した。
ほんの少し眼鏡をずらした。見える景色を確かめてから、そっと元の位置に戻した。