03:アクアリウム魔女宣言

「いやー焦った。中身のない水槽の前で延々と話してるのマジでただの頭おかしい人だから焦った。せんべいまだかな」
「さあ……」

時に販売人というものは、強い心を要求されるものだ。鋼の如き笑顔を貼り付けて、言ってしまえば自分のような体格の男性があんなことやこんなこと(お察しください)になっている本を無の心で売り抜いたニーユが、完全に大の字で転がっている。心中は大変お察し致したいところだが、スズヒコもリンジーも『売る側の人間なら最低限中身を説明できる必要があるのでは』と思って心を無にして読んだ上で売りつけたので(リンジーという男はマジで勇者の訪れている時に何もしないことに定評がありすぎるのだが)、そこは読まないほうが悪いということにしておく。彼の場合読んだほうがひどいことになりそうなのは目に見えていたが、余った在庫は颯爽と他のところに回してしまったし、もはや口伝でしか彼は内容を知ることができない。好き勝手言い放題なので逆に楽しくなってきて、二人がかりでいろいろ言っていたら、震えた声で「もう勘弁してください……」とか言い出したのがさっきだ。せんべいについては見込みがまるでない。この世界のマーケットに並んでいたら買ってやる気はあるが、恐らくないだろう。つまりそういうことだ。
それはそれとして、嬉々として出荷した水路に危うく手違いで目玉の生き物を入れ損なっていたときには流石に肝が冷えた。そもそも展示水槽を買う魔王がごく僅かであるということには気づきつつある。ある程度カテゴリ分けされているマーケットの中にあって、水槽の並ぶ区画にあった他のものはひとつだけだった。

「次は何を入れる予定で?」
「ああ、あのあれ……ドクターフィッシュ。次は温かい路線で行ったら多分、強い」
「雑も良いところですが承知いたしました。手はずを整えておきます」

リンジーは断言した。『俺はめんどくさいから水槽しか売らない』と言い切ったのだ。とはいえ唯一まともに働き、そして饒舌に解説をする様を見ていると、それが天職だったのだろうとも思う。絶対社会に向いてないタイプの人間だし、何せ自分のやることを見事にやってくれるので気に障ることがよくあるのだ。そこはスズヒコも自覚があるし、向こうもそう思っていることだろう。このクソメガネ俺に似て気に食わない、とは。

「はぁーしかし意外と何とかなるもんだね……ていうか何か……働かせすぎて申し訳なくなってこない?」
「我々は先程その申し訳なくなってこない?って言った相手を散々弄んだわけですけど」
「誤解の招く表現はやめよう。ちょっとしたコミュニケーションだよ……」
「剛の者はそれでも充分だという話を聞いたことがありますが」
「マジでやめようこの話。俺は自分のケツの心配をしたくない」

ニーユという男は、スズヒコとリンジーの期待以上によく働く男だった。まず早起きをする(この時点でこの二人はニーユに勝てない)し、料理がうまいし、愛想も良ければ腰も低くて力持ち。完全な優良物件だ。
完全に我々の尻拭いのために動員されてきたのではないかと思うくらい、リンジーのできないところを補ってくる男だ。スズヒコは料理はするけど片付けがしたくない派閥だと聞いている。分かる。片付け超めんどくさいよね。

「……で、何だっけ。何で来たの?みたいな話をしていた途中だった気がする」
「そうだったと思いますが、その話に続きが必要ですか」
「俺には必要です。だって何も知らないもん……」

何も知らない、どころではないだろう。そう思ったがスズヒコは口を噤んだ。
リンジーの記憶にはひどく抜け落ちがあり、自分がここまで至った経緯はもちろんのこと、過去に何をしていたかという記憶すら曖昧だ。水族館の飼育員をしていた、とは主張するが、では何の生き物の担当だったのか、と問いかけると、そこで言葉を詰まらせてしまうのだ。
スズヒコは水族館のことを詳しく知っているわけではないが、そのくらいの分担はあるのではないか。少なくともペンギンと魚を一緒にしてはいけないことくらいは、わかる。

「……ああ、はい。分かりました、分かりましたよ、話せば良いんでしょう――」
「その必要はないよお!【水族館の従者】咲良乃スズヒコ!」

通路を甲高い金属音が走っていく。その後に続いて、少女の甲高い声もだ。
スズヒコにとっては嫌になるほど聞かされた声だ。そしてそれは、どうやら隣の男も同じらしい。

「――みかん?」

訝しむような、あるいは心底呆れたような、身内に対して咎めるような声だ。普段マフラーにすっかり隠されている口元をわざわざ露出させてまで、リンジーはその名前を呼んだ。――スズヒコの知らない名前を。

「ふんふははは!オレこそが【水族館の魔女】!いいかいリンジー・エルズバーグ、お前はオレの手によってこの――あいだだだだ痛い痛い痛い!ちょっと!ねえ!痛い!バカ!」
「みかん。分かると思うけど俺はもう今かなりめちゃくちゃ怒った。今この瞬間に沸石が無駄になるレベルで怒りが突沸したよ。むしろ入ってなかったんだと思うっていうか何?マジで何のつもり?」
「せめて全部キメさせてよう!もう!」

今まで見たことないレベルで俊敏に動いたリンジーが、【水族館の魔女】の腕を掴んで捻り上げるまであっと言う間だ。そんな俊敏に動けるのなら普段からそうしろ、という言葉も、今は飲み込まざるを得ない。
――【魔女】と【魔王】の同席する場では、【魔女】の許可がなければ発言が許されていない。何らかの(たぶん魔法的な)力によって、スズヒコとニーユは完全に【魔女】の支配下に置かれているのだ。

「……あーはいはいそうね。そうだね。あんたそういうの大事にするもんね。ハイどうぞ」
「おほん!……オレこそが【水族館の魔女】!【水族館の魔王】が魔王たるか相応しいか、そのために試練を与えしもの!」
「……そんでこれ?」
「四つです!」
「とっとと家に――何でもない。四つって何」

どうやら親しい仲にあるらしい、ということは分かった。そして旧知の仲でありそうなことも分かった。
会話から察せることは今のところそれくらい。何を彼が言い淀んだのか、考えるまでもなく、魔女が捲し立てるように話すほうが早い。

「四つの試練だぜ!【魔王】たるもの、そのくらい簡単に超えてもらわないとねっ!っていうのを【従者】とか【料理人】にお願いしてあるから、頑張って欲しい!」
「ヤダ……」
「頑張ってよ!」
「拒否権……」
「ないよ!!」

わかる。その気持ちはわかる。突然謎の場所に連れてこられて挙句、そういうことをやれと言われることの訳の分からなさよ。だがこれは自分たちも通った(通らされたが適切だろう)道だし、今かなり聞き捨てならない単語が出てきた。頼まれた覚えがない。

「ふふん!質問ある?」
「……じゃあ一つ。俺がこの水族館の【魔王】で、つまり俺が主ってことになりますよね」
「そうだよ!リンジーかしこいね!さっすがー」

ただでさえ天然パーマでくるくるぐちゃぐちゃの髪を掻き回し、リンジーは【魔女】の方を見ると吐き捨てるように言った。

「じゃあみかんお前出禁ね、今から」
「えっ」
「出禁」
「ええーっ!?何で!?そんなのおかしいって!!オレがおいしいご飯食べたくて【料理人】呼んだのに!」
「調子に乗んなよマジで」

この男はこういう顔をするのだなあ、と思っている。心底嫌そうな顔、あるいは呆れきったような顔。歳を取ってそれなりに柔らかくなったと言うことなのだろうか。それらを裏付けるかのように叫び声が反響した。

「第一ねえ、お前もうやんないって……やんないって言っただろうが!?」
「それとは違うもーん!全然ぜんっぜーん違うから!一緒にすんなバーカ!」

反抗期の娘か?という率直な感想が脳裏を過ぎり、そして消えた。
【魔王】が踵を一鳴らししたその瞬間に、通路の床から勢い良く透明な塊が生えてきたからだ。――アクリルの塊。あるいは水槽のガラス。水族館特有の、水圧に耐えながら透明度を確保するためのそれそのもの。
すんでのところで飛び退った【魔女】と【魔王】の間に、確かな質量の壁が出現したのだ。ぺたぺたと見えない壁を触りながら、【魔女】は悪態を吐いた。

「うわっなんか出た」
「ギャッうっそん!?正気かよ!!ヤダーッなんで出禁だよ!言っとくけど出禁にしてもあんまり意味ないからな!全部見えてるし!トイレと風呂以外!」
「なんでそう一言二言余計なんだ?」
「一応言ったほうがいいかなって思って……みかんちゃん様ギリギリそういう趣味はないし……」
「聞いてない……けどありがとう……男三人のところを覗くのも大概だと思うけど……」

それはそれとしてだ。
リンジーは知っている。この【魔女】をこのままこの水族館に置くと、横暴の限りを尽くすことを知っている。それはいつかの――のように、あまりにも明確だ。
であれば、【魔王宣言】を駆使することに何の躊躇いもなかった。

「ひっどいなあ〜!いいよ別に。みかんアテあるし〜」
「……。……迷惑をかけないように。絶対に。絶対にだ」
「んぐぐ」
「第一お前はなんでそんなに」
「あっ長い!クソロングな話が始まる!じゃあね【水族館の魔王】!あとよろしくお願いしまーす!!」

野生の勘と経験が告げている。この話は長い。
長い話を聞いている時間も実際そんなにあんまりないので、【魔女】は脱兎のごとく逃げ出した。