04:キッチンナイフ第一の試練

リンジーは凍りついていた。
六十余年ばかり生きてきて(そうは見えないとよく言われるが残念ながらそういう歳のジジイなのでマジで周りはもっと労って欲しい)、過去感じてきた種々の絶望やら怨嗟よりも何よりも、打ち砕き難く攻略し難いものが目の前に存在している。
まな板。包丁。大きい鍋。じゃがいも。にんじん。たまねぎ。豚肉。カレールーの箱。

『では、第一の試練は私からにしましょうか。……そんな心配しなくても大丈夫ですよ、私たちだって巻き込まれて困っている側なんですから……』

穏やかな声でそう言った【料理人】のことを思い出している。
そう、このリンジー・エルズバーグ、今までまともに料理を作ったことがないに等しいのだ。もちろんソロなんてもっての他だし、包丁捌きについてはもっぱら餌の管理で鍛えられた。魚の餌を作ったことはあっても、人間の餌を作ったことはマジでろくに経験がない。鯖の内臓を素手で抜けても、ししゃもの雌雄が見分けられても、『今日の晩御飯はカレーにしますので、よろしくお願いします』――その言葉には勝てない。カレー、作ったことないし。自分じゃレトルトのカレーしか作った(あれは作ったと言えるのか?)ことがない。それも人の家でだった気がする。詰みか?第一の試練から?

「……」

魚以外に対して包丁を持たせないで欲しい。犯罪だ。俺に対する犯罪だ。
そもそもまずカレーの作り方……?というところから始まり、たぶん野菜を切って肉(これはご丁寧に切ってあるやつ)を焼いてあとなんかしたらできる。さすがにそれくらいの推測はできる。できるとも。できるんだけど。

「……【料理人】……あれ欲しい……」
「はい?何でしょう」

と言うかなんなら、丁寧にレシピも準備されているのだ。さすが仕事のできる男は違う。これがあの帽子被った眼鏡のほうだったら絶対にこんな準備してくれない。
正式名称が分からないので、ジェスチャーを交えながら必死で話した。

「あの……こういう……こう……皮剥くやつ……」
「……。……あ、ああ、ピーラーですね。確かににんじん相手にするのにはあったほうがいいですね」
「えっ芋は!?」
「えっ?いやじゃがいももピーラーでやってもいいですけど……」

通じた。通じたけどこのでこぼこの球体の皮を?包丁で剥けと?りんごも剥いたことないのに?
信じられないものを見る目で【料理人】を見てしまったらしい。さすがに申し訳ないような顔をしながら、けれども確かに彼は言い切った。

「どうやってもらっても結構ですけど、私はめちゃくちゃ優しい試練を……設定したつもりなんですが……」

彼以外に誰も居ないことが救いだった。いや、資料室には誰かいたのかもしれないが、ここからでは声は届かないだろう。外のフードコートの、そのさらにカウンターの中の、客から完全に見えない位置のキッチンなのだから。

「……。……すいませんでした……」

辛うじて絞り出したカッスカスの声を、彼がどう思ったのかは知らない。
ただとにかく、あるのか知らない自尊心のようなものは完全に事故死していったし、にんじんの皮を剥こうと思ってピーラーを握ったら、先に頭を落としたほうがいいですよ、と言われてめちゃくちゃに混乱した話も添えておこう。
とにかく地獄みたいな時間だった。全ての人類が料理できると思うなよ料理人……という気持ちと、曰く『こんな簡単なこと』すら真っ当にやってこなかったのか……という自分が大喧嘩している。しかし三秒くらい考えてみた結論は、料理スキルがあったとしても自分は絶対料理しなかったな、ということだった。実際改めて向き合ってみてわかったのは、作るのはともかく片付けが無限に面倒だということで――


  ▼  △  ▼


「――というわけで、今日の晩御飯はリンジーさんの作ったカレーです」
「そのリンジーさんはどこに」
「もう俺が悪かったので許してくださいとか言いながら死んだ顔で自分の部屋に帰っていきました」

確かに、一つ目の試練としては手頃だろうとスズヒコも思ったのだ。なのでゴーサインを出した(一応内容はきちんと相談している)のだが、まさかそこまでできない側の人間だとは思っていなかったのだ。

「なのであとで持っていくつもりですけれど……」
「……まあカレーだし……普通に食えると思うんだけど」
「俺はMPを使い切ったから後は任せた……って言い残して……」
「そう……」

あと多分この男三人の食卓で、男からなんだかんだ言われるのが嫌だったのでは、とスズヒコは推測している。これがあの【魔女】ならたぶんともかく、男二人によってたかってボロクソに言われるとでも思ったのだろう。カレーでボロクソに言うのはなかなかに難しいというに。

「なんか俺もこのままで良いのかすっげえ不安になってきた。大丈夫か?」
「いや……スズヒコさんは大丈夫だと思いますよ、俺のよりはたぶん……」
「……いや俺も君のは大丈夫だと思ってたんだけど。眼前でこうもなるとなんか……不安になるじゃん?」

切ってある野菜が妙に不揃いというか、慣れてなさが伝わってくることを除けば、普通に食べられるカレーだ。カレーで事故を起こすことはなかなか難しい、ということも、たぶんあの男は知らないだろう。

「……いやっ、でも、スズヒコさんは大丈夫だと思うんです……俺は三つ目のほうが大分心配で……」
「……それもわかる……」

三つ目、あるいは三人目はここにはいない。
存在することを認めた時に今すぐありとあらゆる与えられた役割その他を放棄して帰りたくなったが、それも許されなかった。あの【魔女】の力はこの世界では随分と強大で、――というよりこの、彼女に呼ばれたということが、何もかもを縛っている。
それさえなければ、今すぐにでもこのくだらない職務を放棄しているところだが、隣の赤縁眼鏡は恐らくここに残っただろう。
【魔女】は確かに言った。『これは、わたしたちだけの問題じゃなくて、あなた達にも関わってくる問題だよ』と。何故彼女が強大な力を持つに至ったのか、そして自分たちを呼ぶに至ったのか、それら全てに納得をせざるを得ない状況を突きつけられ、スズヒコはここに残っている。
それでもあの魔女は、この状況を最大限に楽しんでいるとしか言えない。出禁にされたあと、どこに行っているのだろう。

「あ、スズヒコさん」
「はい」
「お手隙でしたらですね、カレーを持っていって欲しいところがあるんですけど……」
「構いませんよ。近場だとなお良いんですけど」
「近いですよ。たぶん、【魔女】もそこにいます」

何気なく指されたのは、姉妹提携先の二人がいるシェアハウスだった。
あそこも男が二人。片方はまだ礼儀があるけど、もう片方がクソだったのをよく覚えている。何が辛気臭い男三人だ。てめえのほうがよっぽどだ。
――とは言え残念ながら向こうのほうが“結果”はいい。この水族館は主が俺はやる気を出さないと高らかに宣言しているので、しょうがないと言えばしょうがない気もするが。

「……。……やっぱ嫌です。というかあなたのほうが行くべきだあそこは」
「エッあの俺結構やることあるんですけど」
「そっちを変わっていいからあんたが行って欲しい。――同じ世界の出でしょう」
「……げ、厳密に言うと違いますけど。あの二人の住んでいた世界にいたことは確かですけど……」
「話も合うからそのほうがいい。絶対にいい。俺は間違いなくあの辛気臭い方に会ったら口論を始める」

そこまで言うか、みたいな顔をしたのを確かに見た。
けれどもそこは譲れなかった。譲るわけにはいけない理由がある。

「……わ、分かりました……けど本当にいいんですか?」
「俺の料理の腕を心配している?それとも作業量?どっちにしろ問題はないって言ってるんだ。言ってる。というわけで行って欲しい。俺は正直あの魔女も嫌いなの」
「分かりました、分かりましたよ!そんなにそこまで言わなくとも――あ」

忘れていたな?と鋭い一瞥が飛ばされ、ニーユは肩を竦めた。
そういえばそうだったことを、ひとつ忘れていただけだ。であればやはり自分が出向くしかない。

「すいません。俺が行きます」
「はい。分かってもらえたのならOKです」

挑戦的に口角を上げて笑った男を見ながら、ニーユは丁寧に一礼した。
――全てが仕組まれている。この水族館は、何もかもが最期の目的のために動いている。自分たちはその歯車で、それが終われば――十五週の勤めが終われば、それで解放される。少なくとも、その水族館で起こったこと全てから。

「では行ってきます。やることリスト、あとで送っておきますね」
「はーい。行ってらっしゃい」

水族館を出て行く姿を、見送ることもしない。そのうち自分の背後から、示し合わせたように足音が聞こえてくる。

「バトンタッチの時間だ」