07:ラビリンス第三の試練

こつん。こつん。
杖をついて歩く音が館内に反響する。開館時間を過ぎても、客の訪れる気配はなかった。当たり前だ。この水族館は客を迎え入れたい時にだけ『降りてくる』のだから。
【水族館の魔王】の力で生み出された大きなシャチのいる水槽の前で、リンジーは立ち止まった。自分が思いつくものであれば、見たことのあるものであれば、寸分の狂いなくその生き物を生み出して水槽という箱に詰める力は、この世界で十分に活かされている――ようだ。他の魔王に対する売上は悪くない。
ふざけた話だとは思うが、リンジーもリンジーで、自分が置かれた状況はそれなりに楽しんでいた。そうでなければやたらに人をからかったり、無駄に饒舌に話したりもしない。何にも囚われておらず、抱えているものもないのだから。よっぽど気は楽だった。

「……さて。ついたのはいいんだけど、こっからどうすればいいわけ?」
「ああ、どうもする必要はない。ここからは俺の領域だからだ」
「――なんだって?」

毎日よく聞いている声だった。そっくりそのまま同じ声に振り返ると、想定した通りの姿が立っている。
――普段被っている帽子がない。薄緑の髪の間から、さながら悪魔のような角を生やしている。

「……えっ?スズヒコ?お前そういう趣味だったの?」
「おっそう来る。生憎ですけど違いまーす、俺がここに呼ばれた三人目です。どうぞお見知りおきを」
「双子かなにか?それにしてもエキセントリックな趣味だと思うよ」
「双子じゃねえしこれはちゃんと生えてんだよ!!」

見た目はまるで同じ(角を除く)だが、どうやら中身は別物らしい。そして双子でもないらしい。疑う目で見ていると、困ったねと言いたげに肩を竦めた。

「ああーしゃらくせえとっとと始めようね。【水族館の諜報】にして【水族館の狙撃手】としてお呼ばれしましたクロシェット・アストライアー・スケープゴートが、ただいまより深夢想水族館を深夢想迷宮として“作り変えます”」
「……はい?」

【諜報】とか【狙撃手】とか、そもそも何だそれ。水族館の、という冠詞をつけていいものではない。全くない。何よりそんなものがこの水族館にいたというだけでちょっとぞっとする。
クロトって呼んでね、などと軽く付け加えてから、そいつは何てこともないように言った。

「じゃ、頑張って脱出してくれ。俺の言うことは以上です。質問ありますか?」
「エッ……腹減ったらどうすんの?身の安全は?」
「えっそこ気にすんの?いやそれは……とっとと出ればいいんじゃない?……いや、流石に呼ばれたら俺は来ますけど……一応あなたの安全確保も必要なことですからね」
「はあ」

一人頷いているところに、取り残されていく。
何も分からない。あの【魔女】の言う試練など、遊びか何かにしか過ぎないのだと思っていた。

「さあ。そこに誰かが『来週絶対使う』と言ったものがあるだろう?あとは自力で何とかしろよ、――もし何かおかしいなと思ったことがあれば、そのときは呼んでほしいが」
「ツンデレか?」
「いいえ。あんたと話してるとほんと心底めんどくさいな……とっとと始めようね!じゃ、あと頑張って」

耳が明確に聞き取ったのは、ヒビの入る音ひとつだけ。

「――うわっ!?」

不意に目の前からクロトが消えたあと、足元が崩れたのだ。
深く、深くに落ちていく。真っ暗な水の底に真っ逆さまに、――何も見えない。


  .。o○ o ○ o。 ○o。.


まず足が床についた感覚があり、そして杖を握っている感覚があった。
何も見えない――否、深すぎて光の届かない領域に『落とされた』ということを把握するのに、そう時間もいらない。目の前を過ぎっていったのが深海生物の一種だったからだ。

「……」

杖で床を突いた。途端に勢い良く杖の先に据えられていた宝石のような石が発光し、辺りを照らす。そして鮮明に頭の中に浮かんでくる、フロアマップ。
――それはとても見覚えがある、しかしトリエステではない水族館。

「……悪趣味め……」
『お褒めの言葉をどうも』
「ウワッ監視かよ引く」
『うるせえな!こっちも仕事でやってんだよ』

吐き捨てるような声がした。館内放送のように響いた声は、どこまでも冷静だ。それはあの帽子を被っていた眼鏡と、何の変わりもない。

「はあ……人の邪魔すんのが仕事?いいご身分だよねえ」
『ちっげーよ。せっかくだしいいことを教えてやるよ、まず一つ。この水族館は何もかもが仕組まれている』

人も。魔女も。魔王も。施設も。

『そしてもう一つ。それは、お前のためではなく、ある脅威のため――少なくとも俺たちは。あの魔女はどうなんだか知らねえ』

自分のために用意されたものではない『らしい』城に、立たされる魔王。
それは例えば討たれることを前提にした傀儡なのではないか。それはそれで、と思ったところに、もうひとつ。

『最後に一つ。この迷宮こそが、その罠であり鍵だ』
「なんか急に試練がガチに……」
『あんたが呑気に炬燵に入ってる間に俺たちはあっちこっちだったんだよ』

歩みを進める他ないらしい。さてどこが出口に当たるだろうか、と。記憶を掘り返して考える。入場口。スタッフ専用のドア。まさかそんなセレクトはないだろうけれど、トイレ。杖を床に一突き。

「……くそったれ……」

きらびやかな文字が脳内のフロアマップに浮かび上がる。
やはりそのゴール地点設定も、どこまでも悪趣味だとしか思えなかった。――その理由は、思い出せない。

「……」

そして【深夢想迷宮】に作り変えます、と言われたとおりに、フロアマップこそリンジーの知るそれそのものであったが、見えない壁が存在していたり、ありがちに山ほど荷物が積んであったり、迂回せざるを得ない場所があまりにも多い。この分だと、自分が通路だと記憶していない場所も通れそうな気さえしてくるし、床下に階段でも隠されているんじゃないか。
――改変されたあの水族館。

「……あ、悪趣味……」

いつぞやの記憶との統一性。あの時も諸悪の根源はあの【魔女】で、あの時は諸悪の根源というよりは純粋な心でやっていて、だとしたら今のこれは本当になんだ。邪悪の塊みたいな顔をしていた。……というのは少々言い過ぎな気がするけれど、とにかくそういう邪気を孕んだ顔だったのだ。
いつの間にそうなった、と言われればまあ、成長したから、の一言に尽きる気はする。人を面白がって笑う顔はあいつに似ている。
ホネクイハナムシが揺れる廊下の突き当りに、案の定段ボール箱が山積みにされているのを確認して、リンジーは元来た道を引き返し始める。このルートが使えないなら、あと思い当たる道は一つだけだ。
サケビクニンが横を通り過ぎる。光に照らされたユメナマコが、ゆらゆらと漂っている。全てが取り繕われた水族館。全てが何かのために用意された水族館。そこに申し訳程度に添えられた(と思われる)自分に、果たして何の意味がある。
――この行為には何の意味がある?そう思って足を止めたタイミングと、リンジーがそれを識ったタイミングはほぼ同じだった。

「――おい。おい!……クロシェット!」
『はいよ。何?』
「聞くぞ。この迷宮の壁はガバガバな作りなのか?」
『まさか?あの赤縁の眼鏡くらいのパワーがあっても壊せないと思うぜ。だってここは俺の領域だから――』
「じゃあこれは何だ?」

壁を無視して一直線に突き進んでくるものがいる。全てを破壊しているか、あるいは通り抜けているかの二択だ。
幸いにしてまだ距離はある(と思われる)が、向こうが壁を抜けている(破壊している)のなら、本当に時間の問題だとしか言えない。そしてあの赤縁の眼鏡――ニーユでも壁の破壊ができないというのなら、この水族館にそれを成し得る人型はいないことになる。

『――何だって?』
「おい、冗談じゃねえぞ……お前らの仕込みだ、っていうなら、あとでぶっ殺すからな……」
『違う。それはあの【魔女】に誓って断言する――急ぎそこから離れろ。俺も向かう』
「あいつに誓ってる時点で信用力相当減ってるけどまあ分かったよ、まあ!くそったれ……」

踵を返す。脳内で思い描く最短ルートが、リアルタイムで書き換わっていく。恐らくは迷宮の作り手の側でも調整を掛けているのだろう。後ろに壁ができていく。
だがそれも何の意味も成していないことすら、識ってしまう。先回りされた。そう思って改めて道を変えようとして、――透き通った青い手が、壁から伸びてくる。

「ッ!?」

掴まれかけたのをすんでのところで回避して、よたよたと後ずさる。
ずるりと壁から生えてきた青――が紫に変わって、息を呑む。

「……に、ニーユ……?」

見たことのある顔をしていた。
無感情な色の目が、確かにこちらを捉えた。

「なぜ」

そして、言うのだ。

「おれの名を、識っている?」