08:フォーリナー科学の落とし子

確かに顔は、あの【料理人】そのものだった。
その無感情な目と、その色と、そして何より人体の常識を逸した身体の可動域、というか、これを一言で言うならスライムだ。それが唐突にこの迷宮に現れ、今自分の前にいて、――いた。今は何だこれ、どうなっている。
すっかり溶けてしまった人型が、目の前で再構成されて、人の形に戻っていく。一連のとてもじゃないが信じがたい現象を眼前にして、吐き気がした。
あの男は一体何だ?俺は何と話をしていた?

「……な、何だお前。俺の知ってるニーユは――」
「おれは……そうなってしまった、可能性……」
「――可能性」
「おまえが心配をする必要はない……と、思う。おれは……おまえと関わらなくてよかった……はずなんだ……なのに、……なのにあいつが……」

あいつが。あいつとは誰だ。
それを聞いて教えてくれるのか?その言葉を口に出した瞬間に、自分が死ぬことにならないか?リンジーはひどく警戒していた。こういう時に限って、全てを識る術は働いてくれないのだ。この男が同じ天の下にいないということを明確に指していて、――どこからかやってきたに違いない来訪者。【料理人】がそうなれなかった世界の彼。……ということになる。目の前の生き物の言葉をすべて信じるのなら。

「かわいそうだと思うか?」
「……何でそれを俺に聞くんだ?」
「おまえが、おれの前にいるからだ」

かわいそう、だなんて、とてもじゃないが言えなかった。どちらかと言えば自分のほうがずっとかわいそうだと思っている。この状況下においてもだ。
なーにがかわいそう、だ。訳のわからないまま迷宮(らしい)に放り込まれた結果、見知った顔の別人と遭遇し(しかもこれで二人目だ)、何なら多分命もヤバい。

「おれは、殺せるものなら殺してみてほしい」
「……は?」
「だからリーンクラフトのために、全てを殺す。全てに従う。それが、今のおれ」

多分どころじゃなかった。めちゃくちゃヤバい。そうやって言う相手の目はどこまでも透き通った子供のような色で、なおのこと気持ち悪い。
そう言われた直後に、リンジーの影から生えるようにクロトが現れたのだ。その手にクロスボウとハンドガンを握り、爛々と殺意に目を輝かせて。
確か【狙撃手】だか【諜報】だかと聞いた。なるほど然り、それらしい武装だと思う。違うそうじゃない。今のこの状況についてきちんとした説明が欲しい。欲しすぎる。

「なるほどな。まあ向こうも一人じゃねえことくらいは、まだ想定の範囲内か」
「……おまえは――邪魔をするのか?」
「当たり前だ。邪魔をするのか?じゃねーよ、あんたらのやってることが道理じゃない」

赤く光る目。

「そうか。じゃあ、殺さなければいけない……おれは、そんなこと、したくはない」
「じゃあやんなきゃいいんじゃねえのか。自分の意思のねえガキか?」

クロトはそうするのが当然だと言わんばかりに、【料理人】に似たものにまずクロスボウを突きつける。その間もリンジーは、ぼんやりと言葉を反芻していた。
殺せるものなら殺してみてほしい。その意味。そこに内包されている――怒り、あるいは悲しみについて。

「おまえはそうなったことがないから、分からないんだろう。そうだ、それでいい。その方が――後腐れがなくて済む」
「ハァーン?今更後腐れもクソもあるか。俺はここでお前を殺す」
「――殺せるものなら、殺してみてほしい」

ああ、これは怒りだ。そう思った。純粋培養された怒りだ。悲しみを糧にして育った怒りだ。
どうしてそれが分かるのだろうか。あまりに理不尽なことがあった時に、そういうことを思うからだ。思ったことがあるからだ。ではそれはいつのことだ?
強められた語気と、それを鼻で笑い飛ばしたクロトを見て、思った。
誰かが明確に自分のことをターゲットにしている。そして目の前にいる【料理人】に似た男は、その誰かの差し金だ。根拠はどこにもないが、恐ろしく確かに確信を得た。

「……クロト、」
「――お前らの無理を通すわけにはいかねえんだよ!」

合図のつもりで名前を呼んだつもりはなかった。けれども彼は欠片も容赦せずに、その引き金を引く。まずクロスボウのクォレルが跳ねた。
続けて構えられたハンドガンが火を噴く。間近で聞いていたはずの銃撃の音が、急速に遠くに離れていった。


  .。o○ o ○ o。 ○o。.


クロシェット・アストライアー・スケープゴートと咲良乃スズヒコは、実質上の同一人物であり、少し(本当に少しか?)その在り方が変わってしまっただけだ。そう言いながら今、背の高いリンジーをファイヤーマンズキャリーで運んでいるのは帽子を被ったほうだ。――つまりこれは、咲良乃スズヒコの方。

「訳が分からねえ……」
「それで大いに結構ですとも。今はそれどころではない――!」

気づいたときにはスズヒコに担がれていて、数多の銃声をバックに迷宮の中を異動していた。ひたすら遠ざかるように。彼に足止めをさせて、その場から逃げている――ということになるのか。
それどころではない、と言う割に、スズヒコの顔には微塵も焦りは見られなかった。逆に不気味に思えた。

「それは、分か……ぐえっこの運び方どうにかなんない!?結構、おえっ」
「老体を労うのもあとにさせてください!」

道に迷う様子が一切ないスズヒコは、軽やかな動作で段ボールを蹴り飛ばして道を開けると、長い尻尾がその段ボールをさらに跳ね飛ばした。道は綺麗……ではないにしろ、再び塞がれる。

「ちっ……分かった。分かったよ、というかこの迷宮をどうにかすればそれで済むことじゃないのか!?」
「いいえ」

強い声だった。
反論の言葉を探し続けていたリンジーも、言葉に詰まる。

「今ここで。今ここで――絶対に食い止めなければならなかった、ん、ですが」
「――が?」
「まあ。あれも言ったでしょうけど、『まだ』想定の範囲内ですよ――っと!」
「うおお」

一跳びで階層をひとつ飛び越え、軽やかに着地したスズヒコの身体能力もなかなかどうかしているな、と思ったときだった。なんとかずっと握っていたままの杖が、識らせを持ってくる。
――恐らく彼らの『想定外』の識らせを。

「おい」
「はい」
「二人目のご登場のようだが、あいつはいいのか一人のままで」
「……もう一人?」

足が止まったのはごく一瞬だった。
それから何の躊躇いもなく、走りながら言葉を紡ぐ。

「――平気ですとも。それで“死んだら”それまでということ」

確認できた横顔は、薄く笑みの弧を描いているようにすら見えた。スズヒコが走る先に、覚えのある紫色が見えて――まずぎょっとする。それから、それがニーユ……【料理人】であることを確認して、ようやく生きた心地がし始めた。

「スズヒコさん!」
「――とりあえずここは、予定通りですね!」

脱出できる。少なくとも彼らの元なら、自分一人よりはずっと命の保証がされるだろう。そう思った次の瞬間だ。

「あとは――よろしくお願いします!!」

身体が浮いた。
浮遊感とかそういうちゃちなものではない、もっと勢いをつけて――これは投げ飛ばされているって言うんだ!

「あっとはよろしくじゃねええええーーーーーーーーーーーッ!!」

どうせ胸元に投げつけられるんならせめて女性相手にしてくれ、と真剣に思った。今度こそ浮遊感。一気に浮き上がっていって出た先は、いつものトリエステ内部だ。一般公開している開架書庫よりもずっと奥、トリエステ最奥とも言っていい場所の、リンジーの部屋という扱いになっている――即ち、玉座の間。
結局誰にも受け止められたわけでもなく、無様に床に転がっていったリンジーは、顔をあげようとしてそれを辞めた。
杖が告げている。この天の下にさえあれば、全てを識ることを許す術を与えられている杖が告げている。

「……」

自分を受け止めずに床に転がしたのは、“そいつ”のせいだ。それを明確に理解した。
女がいる。目を閉じた女。目を閉じて大きな杖を持った、魔術師というよりは剣士の身なりの、金髪の女。

「来訪者に対して、随分と乱暴でいらっしゃるのですね」
「客《Customer》の相手はすれど、来訪者《Foreigner》の相手は――私たちはしませんよ。……それが望まぬ来訪者であるのならなおのことです」

身動ぎする気配がした。身構えたのだろう。

「望まぬ来訪者?――アハハ、随分な物言いでいらっしゃること。わたしを明確に導いているのは、あなたたちじゃァないですか……」

ざわざわする。あの訳の分からない生き物と一人で対峙していたときよりずっと、身の危険を覚えている。
今更ながらに、自分を豪快に投げ飛ばしたスズヒコが目の前に立っているということに気づいた。あとはよろしくお願いしますというのは、自分にかかっていた言葉ではないのか?

「【水族館の魔王】殿。顔をお見せになって」

床を見ているのが精一杯だった。先程の衝撃で転がったままにさせていてほしかった。

「わたしこそがこの世界で言うなれば【勇者】!さあ、その名を耳に刻みなさい――私の名前は、」