09:アストライアー夢と生贄

一言で表すのなら、そのものずばり【弾幕】だ。
これ以上先に進ませないための仕切り。それをひたすら、生み出し続けている。

『殺せるものなら、殺してみてほしい。』

その言葉の意味を、嫌というほど噛み締めている。
俺だって殺してほしい。生まれてきたくはなかった。誰より望まれぬ出自だろう、そのくせあの男は理不尽に手のひらを返したのだ!存在意義を全て否定された瞬間に、絶対に許してなるものかと誓った。そのためにいつか刃を向け殺してやろうと誓ってきて、だがしかし“本質”がそれを許さなかったのだ。
スケープゴート。誰かの代わりの生贄。
そのように定義され、そして結局使われていない。他人の生贄になろうとして一度失敗してからは、あまり深いことを考えていない。そうあることを望まれ、結局手のひらを返され(――あるいは決意を新たにしたとでも言うべきか)、思い描いたことがうまく行っていたことなんて、全く無い。もはや好き勝手にやるしか、選択肢はなかった。
ただそう、逆に言えば解き放たれたのだ。一応は解き放たれ、こうして自由の身となった。向こうが持たずに自分が持っている技能も多くあるだろう、そのくらいには道を違えた。あれは多分狙撃の技能は持つまい。
俺はここでお前を殺す、なんて言ったはいいが、わざわざそんなことを言うやつがどういうやつか、自分が身をもって痛いほど知っている!

「へっ」

踵を一鳴らしする。それを合図に、足元の影からバリスタが飛び出た。
【誰が為の自己犠牲】あるいは【雷華の射手】クロシェット・アストライアー・スケープゴートは、――その名の通り、二つ名の通りに、撃てるものであればそれを呼び出して撃ち殺す、哀れな生贄だ。本当に哀れかどうかは、自分以外の誰にも断じられたくないが!

「おらよ!」

弾倉の入れ替えも、クォレルのセットも、矢の補充も何も必要ない。撃つという意思があればいい。己の影から無限に補充されてくるからだ。
弾切れで投げ捨てたハンドガンが、影の中に吸い込まれた。次のタイミングではもう、その手に弓を握っている。バリスタの引き金は、もはや自分の手で引くこともない。
壁に激突して無残に身体に穴を開けていく相手を見ながら、クロトは手にしていたハンドガンとクロスボウを放り捨てた。
もう必要ないはずだ。今求められていることは、目の前のこれを殺すことではないのだ。――それこそ今まさに、自分が、

「――もう終わりか?」
「!」

吐き捨てようと思っていた言葉が先に相手に吐かれて、舌打ちをした。多少駆け引きでもしてやるつもりでいたのだが、相手にはそのつもりは全くないらしい。
爛々と光る赤い目が、こちらを睨めつけている。

「……へえー……」

そして、何よりだ。
今目の前にいる生き物は、自分でなくとも“殺せないだろう”という理解をした。きちんとした形も何も残さないような勢いで撃ち込んだはずの銃弾が、矢が、粘着物に絡め取られた塊になって床に落ちる。
人型は完全に崩れていた。飛び散った薄青の粘性の液体が、一斉に視線を向けてきている。それらが少しずつ寄り集まって、また人の形を作っていった。あれだけ撃ち込んだはずの弾は、この目の前の何かにかすり傷すら与えられていないだろう。その事実があったところで、自分に課せられた役割には何の影響も及ぼさない。
なるほど怪物ってやつね、と言いかけた言葉は飲み込む。もはや壁の存在が邪魔だった。

「もう終わりか?と聞いている。……これで?おしまいか?」
「まさか?」

影が伸びていく。

「終わるのはお前だ」

迷宮の壁が崩れていく。ばらばらと剥がれ落ちていって、残ったのは遥か下に闇を抱える昏い海。広がる青の遙か下に、計り知れない闇を抱えた超深海。
――深夢想水族館『トリエステ』。その意味を。

「――知ってるか?バチスカーフ・トリエステ。最も深い海の底に、初めて潜った有人潜水調査船」
「海の、底」
「いずれお前も知るだろうさ!この暗闇から浮上した先の不条理!望まれないなんてそんなもんだ!」
「……うるさい。何を言っているか分からない。おれは、――おれはあれのために……ほんとうにあれのために……?」

上を見上げた。何も見えない。今頃この上に、何より望まれていない来訪者がいるはずだ。
何も見えないほうがいい。何も知らぬほうがいい。光差す世界というのは致命的に残酷で、照らされたものを灼き殺しさえするだろう。陸に適応した生き物が海の底で生きていけないのと全く同じで、無理に引きずり出された生き物がどうなるのかなんて、先は見えている。
そこまで考えて、ようやくかわいそうだと思った。さあこいつは、自分の手で道を選び取ることができるのか?

「あれのためにあれのためにって。お前は本当に何なんだ?自我なしか?」

言葉を吐くたび、過去の自分に傷がつく。そうだ。そうだった。何をしていいかも分からなかった。なれば、導いてくれる誰かがいるのなら、それだけで羨ましくすらある。
それが果たして、いかなる外道であったとしても。

「――うるさい!!」

見た目だけで判断していたのが致命傷になる。あの赤縁眼鏡と全く同じ体格をしているのだから、そう動きは素早くないと思っていた。むしろ素早くあれるのなら、あの雨霰のような銃弾を避けるような真似くらいしてみせろ、とすら。もしくは赤縁眼鏡がその能力を隠しきっているか、だとしたら。
いずれにせよ。今確かに、一撃で右腕が吹き飛んでいった。

「――は?」

赤い糸を引いて飛んでいった右腕を、追う暇もない。もう眼前に迫っているのだ、その、クロトの右腕を軽々と吹き飛ばしていった――右手が!
ああ、かわいそうなバケモノだ!その手の先が確かに鋭い刃物に変わっているのを見た。それで一撃で跳ね飛ばしたのだろう、なんとまあ物騒なやつ、と思いながら、ひとつ舌打ちをした。

「全部だ!その手足を全部!もいでから殺してやる!!」
「ははぁー……正気か?なわけねえよなァ!?」

今、致命的に一箇所おかしいことがあることに、目の前の奴は気づいていないだろう。そこまで取り繕い損ねたのだが、これだけ激昂させたのならそこまで気は回るまい。
ただで食らってやるわけにもいかないし、くたばるわけにもいかない。腕の一本がなくなったところで、今後にも、この先にも、何の影響もない。むしろ、ここで必要な役目は果たしきったと言ってもいい。
あとはもう単純に、どのタイミングで引くかだけだった。ただ、癪に障っている。自分が散々手を出しておいて、ハイ無傷でしたーで終わるようなことが許されると思っているのか、――答えは否!聞くまでもない!

「お前もぶっ殺してやるからな!――絶対にだ!!」

指先が赤熱する。それを通り越して青くなる。次すれ違った時、自分の身体は果たして形が残っているだろうか?
持ちうる全ての怒りと呪詛とそれからほんの少しの哀れみを込めて、逆叉のごとき強靭な尾を振る。生み出された推進力の全てをかけて、真正面から突っ込んでいった。

「くたばれなりそこない!いや、絶対にくたばらせてやる、なんとしてでもあ――」

言葉は続かなかった。
その手が左の顔面を抉り取ったのとほぼほぼ同時に、勢いよく首が刎ね飛んだからだった。
断末魔も何もない。ただ転がっていった頭が、視界の中から消えていく。肩で息をしながら、紫色のバケモノはえぐられた顔を手で覆った。指先が透けて見える向こう側は、黒く焼け焦げている。

「くそ……くそが……ちがう、おれはなりそこないなんかじゃない……違う……!!」

あれはなんだったんだろう。
あれはおれに似ていた。そう思った。だからこそ余計に許せなかった。全身ずたずたにしてやらないと気がすまなかった。引き裂いた。着ているものも残った肉体も何もかもをずたずたにした。得も言われぬ塊だけが残った。どこかへ飛んだはずの頭も潰してやりたかったが、半分程度消滅した視界の中で、どうしてもそれだけが見つからない。

「……っ……、……熱い、……直らない……時間が足りない……」

どんな術を使ったんだ、と思う。すぐ直るはずのものが直らない。
何度左目のあたりを触っても状況は変わらないし、用が済んだのなら早く来い、と呼ぶ声が上からひっきりなしにする。
それに従うしかない声がする。きっと直してもらえるはずだ。行くしかない。行くしかないのだ。行って、行って、また殺す。それしかない、それしか。
もはや迷宮の体も成していないものを、一跳びで抜けていく。暗闇が蒼へ変わっていく。

「――フェイルセーフ。全ては仕組まれている……全くもってその通りだ」

そこら中に飛び散った何かの塊が急速に黒ずみ、そして影の中に消えていった。