10:オルタナティブ裁きの狂気

崩れた迷宮の下は真っ暗だったし、上を仰ぎ見ても暗い。
ここは海だ。海であり海ではない、数メートル潜っただけで有意に光の届かなくなる世界の、ほんの表層に過ぎない。
人間はほんの表層をなぞるように使っているだけ。十数メートルで薄暗くなり、さらに潜れば光が消える。あとは襲い来る圧と低温と低酸素の、光なき世界。
その光なき世界を照らそうとしたのが、この水族館の名前にもなっている深海探査艇《Bathyscaphe》であり、光なき世界に落ちていくことを選んだのは、――ここの主だ。
耐圧球に閉じ籠もっている。ずっとそうしていられないことをわかっていながらそうしている。だからこそだ。
建前にかこつけて、大人げない手を使おうとしているだけだ。だって大人じゃないもんね!

「――ごめんねえ、こんなことに付き合わせちゃって」

だから思わず、そういう言葉も出ようというものだ。

「……こんなこと。あなたにとってこの事象は、こんなことで済まされることなんですか?」
「そりゃあ、あのなんかよくわかんない人のことはそうじゃないけど……わたしはねえ、それに乗って……ちょっと前のリベンジをしようとしてるのさ。だから、こんなことに付き合わせちゃってって言うんだ」

【魔女】は笑っていた。
いつものいたずらっ子のような笑みではなく、穏やかな笑みを湛えていた。

「さあ、やろう!ヒーローは遅れてくるものだって言うけれど、あんまり遅れてもしょうがないからねっ」
「ロールランジュメルフルール……あなたは」

意識の混濁。
【魔女】ははっきりと言った。これはこのために人から教わった術で、だからどれだけの苦痛をあなたに与えるかはわからないし計り知れない、と言った。
けれどもこの程度、あまりにも『慣れっこだった』。そこに痛みはあったかも知れないが、受け続けてきたものに比べたら、どうということはなかった。

「優しい子、なんですね」

混濁。
次に目を開けた時、自分は自分ではないのだろう。


  .。o○ o ○ o。 ○o。.


『――クラトカヤ・リーンクラフト・レーヴァンテイン!!』

あまりにも高らかで、そして自信と狂気に満ちた名乗りだった。
知らぬ名だ。全てが聞いたことのない単語で構成されていた。それでもあまりに圧倒されて、――恐怖で身体が凍りつく。
これは狂気だ。紛れもない狂気だ。嫌でも手に取るように分かってしまう絶対的な狂気。理由は、考えたくない。
クラトカヤ・リーンクラフト・レーヴァンテインと名乗った女は、躊躇いなく帯剣していた深青の剣を抜き放つと、こちら側に襲いかかってきた。素早くスズヒコが取り出したのは短い刃物で、辛うじて打ち合いの体を成しているが、見るからに不利だ。不利であるのに、その顔に焦りが滲むことはない。無愛想の極みかと思ったがまるでそれどころではない。死ぬ。最悪どころか普通に死ぬ。今はスズヒコが打ち合ってくれているが、そのうちマジで死にかねない。

「す、スズヒコ、いつまでこんなん……」

泣き言の一つだって出したくなる。一睨みで制され、そして終わった。何も言えなかったし、何もできない。
スズヒコに諦める気がさらさらないということはよく分かったし、そしてお前は手を出すなと思われていることもまたよく分かった。実際剣を持つ相手にどう対応したらいいか全くわからないし、任せておくのが筋な気もする。
それはそれとして、一応は自分の城だ。そこで好き勝手されているのは大変気分が良くなかったし、この女が何を考えているのか、全くわからないままだ。
それを思うと、するすると口が回り始める。

「――ちょっと、ちょっとさあ。お互いに待とうぜ、対話をしよう。対話。停戦協定をごく一瞬結ぶくらい我々には簡単なはずだ」
「あら。降伏の意思がありますか?」
「まあまあまあまずその刃を降ろさないか?しまえとは言わない。世の中には条件次第という言葉もあるくらいだしさ」

刃先はひとまず下を向く。それだけでも十分すぎるだろう。
スズヒコは構えを解かないままこちらの側に寄ってきて、何やってるんですか、と小さく言った。自分にだって多少の意地があるのだ。多少の。

「まあまずね、目的を聞こう。不血が一番いいのは世界の真理だから、まずはそこからね」
「いいえ。不可能です。この城はもはや不血を謳えません」
「じゃあ範囲狭めようここ。この部屋。とりあえず結果がどうあれ今このタイミングでこの城の主たる俺が対話を求めているんだから、来訪者《Foreigner》はそれに応じるべきじゃあないでしょうか。望まれない何とかとか言われたくなければなおさら!」
「面白いですね。では応じると致しましょう」

口こそなめらかに回るものの、リンジーはこれからすることの無意味さを感じきっていた。
全天識術――全てを詳らかに明らかにされ、気づいている状態に嫌でも置かれているリンジーには、この女の目的も、力量も、これから話されることも成されることも、すでに全てが筒抜けになっていた。

間違いなく自分は死ぬ。このままだとどうあっても。

ひとつ後悔するのなら【水族館の魔女】を出禁にしたことくらいだが、それでこの状況が覆るとは思えず、これから話を続けたところで、死を先延ばしにし続けているだけだ。
それでも話すしかない。もはやそれしか自分にはできず、それを手段として選んだ以上は。

「えっ。えー……自己紹介、いります?」
「不要です、リンジー・エルズバーグ。私はあなたのことを知っています。【死した水族館の魔王】リンジー・エルズバーグ」
「――ワッツ?」

そんな冠詞を、誰にもつけられた覚えはないのだが。

「この世界は死んでいます。死んだ生物に腐肉を食らう者が集うのは道理です」
「いや、いやいやタンマタンマ。ここは破滅と再生を繰り返す世界だったはずだ。死にこそしているだろうが、明確に連鎖が回っている」
「私はあなたのことを指しています。」

迷いのない言葉。
だが覚えはない。全天識術をもってして、識ることができていない。誰かが検閲を掛けているのか?何のために?
――心当たりは一人だけだ。

「……お、俺のぉ?」
「バチスカーフ・トリエステ。それがこの水族館の名前の由来だそうですね」

深海探査艇トリエステ。初めて一万メートルを超える深度の深さに到達した有人探査艇をこの水族館の名前にしている理由は、リンジーもよく知らない。
ここに来たときから、この水族館は深夢想水族館『トリエステ』だったのだ。その名前を冠している割に、深海生物を置いたことはほとんどない。

「私がその窓に入ったクラックとなりましょう。そして解き放たれたあなたを、私たちは受け入れますよ。いつまでもその中にいないで、私とともに世界を壊し、そして統べましょう。それが救いだからです。私はこの世界を救いに来ました」
「――さっき腐肉を食らう者って自称したくせにか?」

純然たる疑問を口にした瞬間に、脇腹を強く打たれたことが分かった。より正確に言えば壁に背中をぶつけてから、脇腹に鋭い痛みが走ったからなのだが。
余計なことを、と毒づく声がした。対処してくれようとはしたのだろうけれど、何も間に合っていない。何が気に触れたんだ。

「安心してください。刃を向けてはいませんから」
「……いや、流血してなきゃセーフとか、そういう問題じゃねえよ、ちょっと……」

安心もクソもない。明確にその剣はこちらを向いている。

「話は終わりでよろしいですか?」
「……まだお前の目的も何も聞いてない気が、するんですけど……」
「語りました。私はこの世界を救いに来ました。以上です」

振り上げられる剣が、ずいぶんと遅く見える。

「これは救いです。あなたは私に救われます。以上です」
「――いーや、救うのはこのオレだね!!」

硬いものがぶつかる音。割り込んでくる夕日色。
魚影が揺らめき泳ぎ続けるマントが、すっかりリンジーの視界を覆い隠した。

「な……?何ですかあなたは。私の邪魔をしますか?殺されたいのですか?」
「えっやだー。みかんちゃん様もっと生きていたいし。けどそれはそれとしてー、今オレとあなたの意思は完全に別の方向を向いている」

杖と言うにはずいぶんとごつい見た目で、何より可変で動くハサミの機構がある時点で、あまり杖とは言い難い代物を女に突きつけ、【水族館の魔女】は高らかに叫ぶ。

「じゃあもうそれって、戦うしかないんじゃなーい!?」

遠くに巨大な魚影が見えた。物理法則を無視して床から飛び出してきた背びれが、猛接近してくる。シャチかイルカか、それともサメか、

「オレは【水族館の魔女】!今からお前をはっ倒す正義のヒーローさ!」

床が激しく割れる音がした。水面が割れる音に似ていた。

「行こう、悪夢を喰らう魔物《Alptraum Orca》よ!あんたが喰い殺すのはこの炎!オレたちはそのために全てを整えてきたんだ――さあ!行け!!」

床から飛沫を伴って飛び出してきたバケモノが、女の剣を持つ腕に食らいつく。
首を一振りして食いちぎられた腕が、乱雑に投げ飛ばされて落ちたのを見た。