11:アルプトラウム獣の調べ

能力はある。申し分ない。今までの誰よりも素晴らしく、完璧だと言われ続けていた。誰よりも素晴らしく、そして従順で、ある一点を除いて彼は完璧だった。
臆病で穏やかなこの気質がなければ、今頃まっとうな形で生きていられたか分からない。そうあれなかったのが、“向こうの彼”なのだろう。
誰より戦いに向いていない性格をしていながら、誰より戦いに向いていた。誰より優しく気配りができながら、誰より冷たく刃を振るえる適正があった。
どうせならそんなものいらなかったとずっと思い続けているし、それはハイドラに乗るようになってからでも変わらない。ただ、そう、自分の手で手を下さなければ、救えないものもあると、あの時確かに知ったし、手を下す術を知っても、それが届かなければ救えないのだ。

なれば今、自分の力を以ってして、救えるものがあるのならば!

「ウゥウウーーーーーーァアアアァァァアァア!!」
「さあ行っちゃおう、どんどんね!行け行けどんどーん、喰い殺そう!深海探査艇にクラックなんぞ許さないのさあ!」

シャチ。サメ。マッコウクジラ。あるいは別の何か。装甲のようにフジツボやイガイを纏い、屈強な手足を生やしたバケモノ。なんとなくワニに体型が似ているような気もしなくもないが、その頭は明確にハクジラのそれだ。
海の生態系の頂点を基準にして更にかさ増しをされた、悪夢のような生き物が目の前にいる。アルプトラウム・オルカと言ったか、であればシャチだろう。

「な……」
「どうしたどうしたー!怖気づいた!?さっきまでぶいぶい言わせてたくっせにさー!やっちまえ!」
「信じ難い。信じ難いこと……あなたは!そしてあいつが!噛んでいるというのか!」

見るからに女が狼狽した。噛みちぎられた腕を庇うこともせず、逆の手と、口から紡がれる魔術だけで、自分より遥かに大きい図体のバケモノに対抗しようとしている。
そのバケモノの背に、なんてことのない顔で【魔女】が乗っていた。自在に操っているようにすら見える。むしろこの、バケモノは、どこから、――

「……【魔女】!」
「呼んだ?こっちは任せてよね!」

立ち上がることすらできない。ここに至るまで、“彼に何があったのか”が、全て流れ込んでくる。全天識術だ。全天識術が、聞いてもいないのに全てを教えてくる。
ニーユ=ニヒト・アルプトラという男の、九番目の悪夢の夜の中身を!地獄のようなその道行きを!それを知っていてこの所業を課したのなら、なんたる外道かと吼えたくなる。
それを受け入れたのだというのなら、それはそうか、と言わざるを得ないのもまた道理で、――彼は優しすぎるのだ。優しすぎるが故に戦うことから身を引いたと語っていた。だのに!

「なにが……なにが、任せてよね、だ、」
「任せてよ!できることをして……むしろ、しなくたっていい!スズヒコ、そのように動いて!もう、【魔王】はどうでもいい!」
「はっ!?」
「はい。では予定通りに」

薄情かと思った。実際に薄情だったのかもしれない。スズヒコは【魔女】の言葉を聞くと、即座にその場を離脱していなくなる。
予定通りに。予定通りに、なんだ?何をする?何もわからない。ただこの場に取り残されていく。脇腹と背が痛いままに、バケモノと女が戦うのを眺めるしかない。
何かが確実に深層に、真相に近づいていく。

「ウ……ウゥウウーーーーーー……」
「《A.Orca》!とにかくあの女だよ!何してもいい、どうせ何したって死なないよ!やれるだけやっちゃえ!それがオレの命令だ!」
「アァアアァーーーーーー!!」

咆哮。動きは十全ではないように見えた。
ありとあらゆる突貫工事で、全身が軋んでいる。それで何故あの女が狼狽えたのか、そして優勢であることができるのか、まるで分からない。機を見た【魔女】がその背から飛び降り、こちらに歩いてくる。

「【魔王】……リンジー」
「……何」

寒い。何かをひどく恐れていた。
明確に近づいてくる何かを恐れていた。恐れている。もうどうしようもないところまで来ていることが分かっている。杖が識らせてくる。それから目を背け続けている。

「リンジー、あのね」
「何だよ、……何だよ……」
「真面目に聞いてよ!オレを見て!……わたしを見て……」

喧騒の中でも、はっきりと声が聞こえた。怖い。やめてほしい。今すぐこれらのことを中断してほしい。
――なぜ突然?それを考える暇もない。

「ああ、でも、うん。リンジーはオレを見てくれない。知ってる。知ってたし、これは二回目だ。だからオレは止まらない」
「やめろ」
「やめないよ」
「……やめろって!言ってんだろうが!!」
「やめないよ!!」

子供のわがまま。はたしてわがままを言っているのはどっちだ、自分もそう。【魔女】もそう。これは果てしない意地の張り合いで済んだはずのものだが、そこに土足で乗り込んできたやつがいる。それが、あの、女。

「リンジーは覚えてないかもしれないけど、これは二回目なんだ。オレに与えられた最後のチャンス――だった。……そう、だったんだ」

土足で乗り込んできたやつがいなければ、かつてとはまた違った手段で、同じようなことをしただろう。それもできなかった。
提示された必要な人員は、一柱の神と一人の魔術師の手助けによって一発で揃い、そしてそのための権限も付与された。
この城の絶対的な魔王は、ロールランジュメルフルールだ。
変わらないことがあるとするなら、それが一人の男のために行われているということだけだ。いつかの夕闇の夢。そしてこの破壊と創造を繰り返す一端の――夢。
夢と言うには程遠い。けれどももはや、そう処理するしかない。この長くクソッタレなふざけた夢を、海底に沈めて終わらせるわけにはいかなくなってしまった。
だからこその、トリエステだ。海溝の底より人を引き上げてこれる力のある名前を求めたのだ。

「やめろよ……やめてくれ……違うんだ、俺は……」
「リンジーはここで死ぬ。死ななきゃならない。死ななきゃならないけれど、その邪魔をさせちゃ、絶対にいけない」

厳密に言うと、もう違う。
どうして寒がりなのか、どうしてあの迷宮があの水族館に似ていたのか、どうして何も知らないまま【魔王】などやらされているのか、それ以前の問題が。そこに。

「だから……だからこそのトリエステ。だからこそのトリエステなんだ、リンジー!思い出して!」
「何を。思い出すって何をだ!俺に今更そんなことなにも……しなくていい!終わりでいい!」

あとは彼に掛かっている。そう言っても過言ではない。
どこまでもフェイルセーフのもとに、入念に練り上げられてきたはずだ。だが、そこに彼の生死は関わらない。
ロールランジュメルフルールが関わったのは、【魔王であること】と、【リンジー・エルズバーグ】を魔王に仕立て上げることの二つだけだ。
どれだけ拒まれても(想定内だ)、どれだけ状況が切迫していても(ちょっとだけ想定外だ)、ロールランジュメルフルールは魔王であり続けなければならない。この城を保ち続けなければならない。
それは、権限を譲渡されただけの、リンジーにはできないことだ。そしてこの男は仮に、本当に好きにできる魔王城が渡されていたら、なんの躊躇いもなく引きこもることを選択しただろう。

「――話は終わりでいいですね?」

ぞっとする声がした。
あのバケモノに徹底して追い詰められていたはずの、女の声。

「!《A.Orca》!こっちに!」

声ひとつで一跳びで戻ってきたバケモノの手と口は、血と肉片に塗れている。視線をやった先の女はボロボロだった。
それでもその口が、薄く弧を描いている。

「ああうん、終わりでよさそうね?それじゃあさ、本当に終わりにしようぜ、……リンジー。」
「おまえ、――どうして、」

続いたはずの言葉より早い刺突。

「ごめんな」

突き刺さる剣。声も出せない。黒のインバネスがベタついていく。
目の前に立って自分を刺し貫いた男は、確かに死んだはずの親友の顔をしていた。