12:スーサイド深海の蛇龍

『俺さ、三月末になったら死のうと思うんだわ』

いつもと変わらない調子で吐かれた言葉は、あまりにも重大な言葉だった。
どうやらこいつはそれを言うためだけに俺をわざわざ呼んだらしいし、そのためだけにこの川に来ている。一度登ったことのある山の清流、その流れのすぐ横で、こいつは何の躊躇いもなく言ったのだ。
事情を知らぬわけではない。むしろ知りすぎているぐらいだった。こいつはもう手遅れだ。それくらいは知っている。今日これまで最大限にできることをし、無理やり引き伸ばしてきたと言っても過言ではないリミットが、突然訪れただけだ。いつか訪れる終わりだろうと思っていたし、その話は頻繁に出ていた。あれが死ぬまでがこの研究の勝負であるとすら。

『あ、安心してほしい。さすがに無計画なわけじゃない。俺だってそのくらいは――』
『……そうじゃないそういうことじゃない、お前』
『止めんな、やめろ。もう決めたんだ』

俺はひどく狼狽したことを覚えている。――それもそうだ、親友と呼べる唯一の存在で、今でもなんとか細い糸を辛うじて繋ぐような――否、無理やり繋げた付き合いが続いていた相手に、そんなことを言われてみろと思う。
だが、もう止める手段はなかった。そうするのならそうするんだろうと思った。本当に最後までろくなことにならなかった。だから言ったのに。だから何を言っていた?

『……好きに、好きにしろよ……』
『いやまあさあ、止められようとやったけどね俺はね?』
『知ってる。知ってる……だから、何で言った……』

何も伝えないままでも良かったはずだ。そこにいた子供の人魚は、高校進学に伴って居を移す。この辺には近くに高校がないからだ。
今思えば別に通わせる選択肢だってなかったわけではないだろうに、どうしてその選択肢を取ったのかと言われると、――はじめの言葉が浮かんでくる。わけだ。
こいつなりの熟考。もしかすれば知らぬ間に相談は通されていたのかも知れないし(俺が知ったら止めることは目に見えているからだ!)、正直言って、何で言った、という問いかけすら無駄だと思っていた。
答えは、返ってくる言葉は、とっくに知っていたからだ。

『そりゃあ、お前だからだって、リンジー』
『……そう……』

そうでなければよかったと何度思っても、事実は覆らない。事実は覆らないし、あいつは宣言通りに三月の川に身を投げた。無邪気な人魚は確かに「またね」と言っていたし、「また」が来てたまるものかとも思った。
――迸るのは怒りだ。
あいつさえいなければよかった。あんなことにならなければよかった。あいつがあんなことをしでかさなければ。あいつが人魚担当でなければ。あの人魚があの水族館で飼われていなければ。あの人魚の声がきちんと封じられていれば。あの人魚が厳重な管理下で飼われていれば。あの人魚が産み落とされることがなければ。あの人魚を孕んだ親があの日流れ着くことがなければ――自身の生まれる前の事象にすら怒りを覚えるとは、あまりにも愚かであまりにも滑稽だ。
分かっている。無駄だ。全てはなるべくしてそうなったし、それを今更変えようだなんて、それこそあいつが許さないだろう。それでももし過去に戻れるのなら、どこかの点を変えてしまいたいと何度も思った。
だがそれでも、あの日あの時あの水族館であの水槽の前で決断した全てを後悔こそしても、――無に返すわけはいかない!

「――は、は、ははっ」

尊敬していた。それと同時に嫌悪もしていた。
学を修めたからこそ分かることがあり、実行できないことがある。あいつはそれをやってのけていたのだ。あいつの存在があってこその人魚学の発展だったのは間違いなく確かだ。であれば学徒としてそれは喜ぶべき事象であり、結局自分も、死ぬまで人魚から離れられないのだろうと察した。
まさに、今が、そうだからだ。
どこから恨めばいい?どこから怒ればいい?どこからでもない。少なくともこの道筋は、未知を識るために自分の足で歩き始めた道であり、全ての選択肢を自分で選び取ってきた。
あの日写真に見惚れた日からだ。その瞬間やるべきことが決まった。しつこいくらいに医者になれと言われていた家から縁を切り、ほとんど着の身着のままで飛び出してきたあの日から、絶対に戻れない道を歩んできたのだ。

「リンジー!」
「ひ、ひひっ……ハハハ、アッハハハハ!!」

笑わせてくれるなよ、と思った。
この痛みは偽物だ。
この冷たさと寒さだけが本物だ。三月の末の、雪の残る清流の突き刺すような冷たさだけが、俺に全てを教えてくれる!

「――その擬物の口で偉そうなことを騙るな!!」
「……ッ……!?」

ではこの流れる血はなんだ?
違う。血ではない。血などという生温いものではない。

「分かってると思うけど、今俺めちゃくちゃ怒ってるからな――」

床に落ちて跳ねた血が、今一度跳ねる。
次に床についたその瞬間、大量の棘が親友の顔をした生き物を刺し貫いた。化けの皮が剥がれて溶けていく。

「誰だ?お前は誰だ?きっと誰でもないよな?なあ?分かるよな俺の言ってること?」

黒く長い髪がぼろぼろと剥がれ落ちて、内側から薄青と紫の混じった髪が露出してくる。――第三の試練の来訪者《Foreigner》。
今なら言える。『お前はかわいそうな生き物だ』と、言い切るしかない。追求に怯える姿が滑稽に過ぎた。

「お前は何だ?何のつもりだ?お前は何がしたい?お前は“俺の”何だ?何でもない!何でもないじゃないか!――強いて言うなら敵だ!!」

それを伝えてやるほど優しくもなければ、今は遥かに怒りのほうが優先されていた。きれいなまま飾っておいたつもりの写真に泥を掛けられた気分だ。もちろんそれは気分だけで、とっくのとうに汚れていたんだろう。

「許さないぞ。絶対許さないからな。“俺”に土足で踏み込んできたこと、何一つとて許さないからな……」
「――殺しなさい……殺しなさい【9番】……殺せ!!その男を!!」
「うるせえな……」

腕の一振りでよかった。魔女が連れてきた怪物の向こう側で、小さな悲鳴がした。
寒い。だがもう関係ない。ここは川の中ではない。
あの日自分は絶望していたか?川に向き合った時に感じた震えの種類は何だったのか?
もうそれらも思い出さなくていいことだ。――全ては成された。

「もう何も怖くない――怖くない!ああだってそうだ、もはや失うものなんてなにもない!どこにも何もない、全部置いてきたからだ!だったらここで、お前らごと――“人間として”死んでやる!!」

主に【魔女】に聞きたいことはいくつかあるが、それ以上に気が触れている。この水族館の望まれぬ来訪者を処理してからでなければ、自分の気が落ち着かない。

「お前は……くっ、一般人だとばかり思っていたのに。油断しましたね……」
「……はは、よっぽど人間そのままってよりは魔王らしかろうよ。今の俺ならね。あとで死ぬほど後悔しな」

リンジー・エルズバーグという人間は、当にこの世にいないのである。
それを一番よく知っているのは、自分だ。
同じ道を辿りたくないと散々言いながら、結局後を追うことしかできなかった。例えばもっと早いうちに首を切っておけばよかったとか、そういうのはもう今更にもほどがありすぎる話だ。どうにもならない。

「ここは深夢想水族館『トリエステ』。今は確かに俺の城だ!!――人んとこに土足で踏み入って荒らしやがって、絶対に許さないからな……」

全ての灯りが落ちた。
否、『ここは深海である』。

「何故夢想なのか、何故トリエステなのか、俺はもう全てが分かった。後はお前らを放り出すか殺すかだけだ」