13:エルズバーグ全天識術

思い出している。

『お前は人魚との距離が近過ぎる。いずれいつの日かろくでもない死に方をするのに間違いないし、何が起こるかわからないから改めろ』

思い出していた。
言葉は届かなかった。本当に届かなかったのか?届いていて無視されていた可能性は?
今となっては実にどうでもよくなってしまった。いずれ、同じものになる。結局同じ轍を踏み歩き、そして。

「……なんだっけ?クラトカヤとか言ったか?」
「くっ……何ですか」
「さっきまでの強気っぷりはどうした?救いがどうこう言ってたくせに。それとも匙を投げたか?大いに結構」

金色の髪の女は、すでにいくつもの棘で串刺しにされている。すでに抵抗することは諦めたのか、もはや何もしてくることはない。ただ気に食わないという理由で、気が向いた時に、思いつきで軽く、一本、また一本、床からどす黒い棘が飛び出しては、女を串刺しにしていく。そのたび小さな悲鳴が上がっていたのも、もう聞こえなくなっていた。

「……私は……あなたほど救いのない人間は……初めて見た!否、救いの手を跳ね除ける人間は!……ッ!」
「ああそう、大いに結構だ。そんなもの最初から求めていないし、お前に俺は救えやしないよ。この世界もだ。さあな、果たして、この果ての世界は救えるかもわからないが。」

この水族館は、まさしく世界に内包された世界だ。
世界を切り取ってきた水族館。一般的な水族館が、海を切り取ってそこに持ち込み、新たな海を構築するように、世界を内包して泳いでいる。

「夢想だ。全てが続いている夢だ。深夢想水族館『トリエステ』なんて存在しないんだ。夢に迷い込んだのは誰だ?俺だ。迷い込まされたというべきか」

かつての夢を思い出している。
一面のノイズと、一面の海と、切り取られた海の箱庭。つくりものの親友。つくりものの人魚。呼ばれた飼育員。夢を見たあの男。
その時の犯人もあの人魚だったが、果たして今回は誰が犯人なのだろう。誰を明確に名指しで犯人と呼ぶべきなのだろう。

「その時まさに死の縁にあった俺に甘言を投げかけたのがお前だということはよく覚えて……いや、覚えてはいなかったな。さっき識った。敢えてそう言おう」

ひとつ。【水族館の魔女】ロールランジュメルフルール。絶対的な主犯として名前を挙げても間違いはないが、こいつに悪意はまずない。この水族館は間違いなく善意で作られ、ただそこに彼女の愉快犯的な何もかもが乗っている。
ひとつ。【絶対的狂裁者】クラトカヤ・リーンクラフト・レーヴァンテイン。この女の甘言がなければ、おそらくここにはいないはずだ。だが、何かを言われたことは覚えていても、それが何だったのかは覚えていない。実質的な悪は、彼女だと定義しても問題ないだろう。
ひとつ。――それ以外の誰か、外部の何者か。ロールランジュメルフルールも、クラトカヤ・リーンクラフト・レーヴァンテインも、一人ではこれだけのものを構築できないはずなのだ。どこかに、協力者がいるはずだ。
――だが、それら何れも、もはやどうでもいいことだ。今更追求するつもりも何もない。分かった手札だけで、全てを為すだけだ。

「果たしてなんのつもりかは知らないが、ああ本当になんのつもりかは知らないし識りたくもないが!ただ一つ言えることがある」

本当にクラトカヤとかいう女の目的は、世界を救うことなのか?
本当にロールランジュメルフルールは善意だけで行動しているのか?
もはや何もかもを、全てそれごと深くに沈めてしまおうと思った。俺は知らなくていい。何も知らないままここから還る。それでいい。

「俺はここに来たお前を殺すよ。お前が本体でないことは分かる……だからここでお前だけは殺してやる。ここは俺の城だ、たとえどんなに偽りがあって、そして夢想の存在だったとしてもだ」

どれだけそのように取り繕ったとしても、この女は間違いなく人智を超えた存在で、そしてせいぜい様子見に来た程度の端っこだ。
であれば、何も持たせずに帰してやるか、そもそも帰さないことが適切だ。この女だけには人魚の特性を知られるべきではないと、そう強く思っていた。
ならば殺すしかない。どうやっても、何を以てしても。殺すしかない。
一端の人間でしかないリンジー・エルズバーグであったなら、そもそも人間を殺すことが如何に人道から外れているか、そのくらいの理解はある。だが、今の自分は決定的にそうではない。
そもそも人間ですらない。冷たい川に身を投げた死人だ。そしてこれからまさに孵化する、魚。
何故人魚に呪われた人間のデータが尽く残らないのか、何故途中でばっさりと裁ち落とされたようにデータが終了するのか、リンジーはよく識っている。見届けたし、自分もそうなるしかできない。
死ぬか、孵化まれるか、二択だ。無限の苦しみを背負わされ続けてようやく解き放たれた先に、初めて泳げる海がある。そうなるしかないのなら、思えば自分の人生では最善の選択かもしれないし、この先に何が待っているか、何も分からない。今までより遥かに辛く重い道のりかもしれない。
ただ、ただひとつ、先に光があることだけは識っている。

「俺は【魔王】。だがそれ以前に、水族館職員なんだ」

それは虚勢でも何でもない、純粋な誇りだ。
六年。六年間師のもとにつき、そして人魚を学んだ。学び、調べ、究め、知らしめてきたのだ。そうして得た最も人魚に近い職は、――無事に失うことになったし、挙げ句、……もういい。
かつん、かつん、と足音がする。液体の垂れる音も。

「さあ、その言葉を待っていたぜ。最後のショーの始まりだ」
「この不本意なショーを終わらせよう。俺たちはこのために呼ばれたらしいのでね」

振り向いた。同じ顔の生首を、無造作に片手に持つ男。帽子は被っていないが、その下に角はない。生首の方には角が生えている。
しばらく見ていたはずの顔よりも、老け込んだように見えるその顔を見つめた。思っていたよりも長い薄緑の髪が、風もないのに広がってなびいた。
生首がなんてこともないように放り投げられる。黒い液体が尾を引いて落下――すると思われたそれからさらに勢いよく液体が吹き出して、生首の原型が失われた。かと思うと、そこからぬるりと人型が生えてくる。角と尻尾を持った年若い男。

「な……」
「おっ。ビビってる?首を刎ねたのに生きてるって?首くらいで死ねたらクッソ楽なんだけどさー、俺のこと殺してくれるかと期待したのに、残念だ」
「……、……」
「クロシェット。それくらいにしろ。遊んでいる暇はないんだ」
「チッ。遊んでねえよ……あーヤダヤダ。何が悲しくてあんたと組まなきゃいけないんだ」

それは確かに、迷宮でリンジーを導いた男だったし、もう一人はスズヒコだという確信があった。けれども、違う。自分がこれまで、水族館で共に過ごしてきた彼ではない。何か、何かが決定的に違う。
それらを振り払うように、あるいは答えを求めさせないように、遮る。そのように声を出す。

「さあ【魔王】!やるべきことは分かっているでしょう」
「――指示をよこせ!」

二人分の同じ声色に、【魔王】として、応えなければならないのだ。
彼らにかける言葉も、もう分かっていた。

「――ああ!」

杖を振りかざす。

「【領域】を――【領域】を展開して……この水族館ごと!何もかもを破壊しろ!!」

この二人の隠された――あるいは真の能力についてを、今まさに識ったのだ。
それは全てを破壊する領域であり、物理で全てを捻り潰すものであり、そして精確に押し潰すものなのだ。問答無用で。そこが彼らの領域であれば、何もかもを。

「ずいぶんと豪快な指示だ。けどまあ……八割方承知した。この水族館だけは、俺達にも殺せないから」
「構いやしねぇ。全部壊すつもりでやるだけだ」

黒い液体が跳ねる。それがインクだと気づいたときには、角の男の目が爛々と光っている。向けられる矢。

「ではこの夢想は終わりだ。何もかもあるべきところに還るんだな!」

引き絞られた矢が、胸を貫く。
痛みはなかった。背後で飛び散ったインクが、複雑怪奇な紋様を描いていくところまでは見届けられた。