14:トリエステ漸深層の先

最初は、何が起こったのか全く分からなかった。呆然として見上げた先に一人の少女が立っており、そしてその後ろに、死ぬほど見たくない顔が、同じようにして転がっていたのである。

『――てめえ、何のつもりだ?』
『そりゃトーゼン。オレのやりたいことをするためさ!』

少女はそう言い切り、食ってかかろうとした“もう一人”の尾を、難なく受け止めてみせたのである。力の差を見せつけられ、沈黙するしかなかった。

『オレはオレの目的のために、お前たちを従えるよ!』

そんな宣言をせずともよかったのだ。何らかの術により、ほんの一ページ分だけが呼び出された時点で、彼女の下につく以外の選択肢は存在していなかった。
何故彼女が自分たちに辿り着いたのかという問いかけもするまでもなく、こちら側の誰かから聞いた、ということがすぐに判明して、そして十五週が無事に終われば何もせずに帰す、と言い切った。
その目の色は自分の娘の色によく似ている。

「……」

くだらないとは思っている。二度と関わりたくないと思っていた相手と一緒で、その運命を呪いたくもなる。だが逆に言えば、これは自分たちでなければ成せない。
同じ顔、同じ背格好、同じ力――【絶対的狂裁者】を欺くために、必要とされたもの。
当然だ。元は同じ存在だった。生み出した自分が悪いのか、勝手に生まれたそちらが悪いのか――今は後者を主張したい。あのとき確かに自分はありとあらゆる救いを求めていたが、今となってはそれは愚かだったように思う。
だが、あのときの全てを否定することはできない。結果的に救いは生まれたし、自分も新たな道を歩みだした。
新しい道に、誰かを導けるというのなら、それも悪くはない。そうでなければこの誘いに、明確に乗りはしなかっただろう!

「――やっちまえ、【誰が為の自己犠牲】!クロシェット・アストライアー・スケープゴート!」」
「言われずともよ!【鈴のなる夢】!」

あの日の残渣。本の中の記憶。記録される側となった、一対の本の化物。
その本質は、自らの“領域”を展開することにある。
立ち入った瞬間に本の登場人物にさせられる、二人の最終兵器。語り手が物語を紡ぎ、“主人公”は敵を撃ち貫く。語り手となった咲良乃スズヒコ――タイトルは【鈴のなる夢】――は、ただ無慈悲に、今回の主人公たるクロシェット・アストライアー・スケープゴートに、指示を下した。

「さあ!ハッピーエンドの始まりだ!」

果たして本当にハッピーエンドか?とは思うが、仕方あるまい。“ハッピーエンドに導け”という指示は、【水族館の魔女】からのものであり、語り手の指示ではない。
主人公補正を与えられた以上、この領域の中で、今クロトに破壊できないものは存在しない。壁も、床も、魔法も抵抗もギミックもそして人も、立ち塞がるものは乗り越えていかなければならない。主人公である以上、そうであり続けなければならない。
さて、自分は本当に主人公に向いているのか、と思ってしまうこともなくはないが。どちらかと言えば限りなくヒールで、主人公らしく剣を構えることもできやしない。手元にあるのは、クロスボウと弓と、銃。

「全部ぶっ壊してやるからな!お前が来たことも!このくっだらねえ夢想も!――それが、道だ!」

どこに向けられている言葉なのか、リンジーには分からなかった。ただ立っているだけのスズヒコと、駆け出して銃を乱射し始めたクロトと、――自分に深く突き刺さった矢。
あ、死んだ、と思った。いや、リンジー・エルズバーグは、もう死んでいる。それでもまた死んだな、と強く思ったのは果たして何故か、彼らの言葉でなんとなく理解する。
“この物語の中で”殺されたのだ。主人公が明確に主人公であるのなら、【魔王】たるリンジーは、殺されて然るべきなのだ。それが物語へのハッピーエンドへの道筋だ。
クラトカヤは自分のことを勇者だと名乗ったが、彼女の存在も恐らく今は改竄されているだろう。滅ぼされるべき何かに。今適当に考えたが、魔王の使い魔的ななにかとか。……あんなクレイジー女を使い魔にするだなんてとんでもない!と自分で思ったので、やっぱり今のナシで。却下。
順当に【魔王城】は崩されていく。リンジーの思い描いていた水族館、――水槽に囲まれた、アクリルガラスに囲まれた退廃的な道筋が、ヒビから穴を開けられて消えていく。
ハッピーエンド。自分にとってのハッピーエンドって、何だろう?そこに自分は本当にたどり着くことができるのか?
疑問が浮かび、消えるより早く。

「――ふざけた世界でした。全くもってふざけた……私には手に負えぬものども……」
「そう理解してくれたのなら僥倖だ。俺達としても二度と会いたくない」

恨み言を口走った女の頭が、勢いよく後ろに仰け反った。
それがヘッドショット一発だ、ということを理解するよりも早く、女の身体がさらさらと溶け落ちる。何も残らない。いた痕跡も、何も。

「ひどい話だ。自分から飛び込んできて暴れておいて、挙げ句ふざけた世界だと宣ってくれる。悪役にするに、実にちょうどいい代物だった――と、俺は思う。どうかな主人公くん」
「同意せざるを得ないが、俺に話しかけるな!」
「なんだって?よく聞こえなかった――もう一度言ってほしい。次はお前の頭だ」
「よしてくれ。あんたこそふざけてる場合じゃねえんだぞ」
「ふざけてないよ。いつだって真面目さ」

ぱちん、と指が鳴らされる。
何もないまっさらな空間に、自分と、顔のよく似た男ふたり。
角の生えたほうが近寄ってきて、銃口を向けながら言うのだ。

「では最期、言いたいことは?」
「ッ……が、……お前ら、もうちょっと、老体を労えよ……」

これは結局、彼らが手を組んだ壮大な反乱であり同時に喧嘩で、その仲裁――もしくは中断のために、クロシェットは呼ばれたのだ。別にここでこうして暴れ、最後に何もかもを破壊することは、自分でなくともよい。ニーユでもいいし、スズヒコ本人がやってもいい。
それがたとえ強引なハッピーエンドへの道筋だったとしても、全ては結果論であり、繋がってさえいなくてもよい。ここは夢想であり、そして今いるのは、現実と夢想の境目だ。
そこから引きずり出すための一手であり、一発である。その手を委ねられている。こんなものに託すな、と言いたくもなったが、領域の中では語り手には逆らえない。

「労う老体がどこにあったか教えてくれよ。俺じゃなくてスズヒコの方に言ってくれよな、それ」
「労われたいのはこちらの方だよ。……いや、まあそうだ。楽しくなかったは嘘になる、とだけは言っておこうか。ハッピーエンドに相応しい言葉くらいは、俺にだって用意できるからね」
「……そりゃあ、どうも……、……俺の水族館だ。俺の水族館だからな……」
「じゃ、そろそろ最期にさせてくれ。もう一度聞く。なにか言いたいことは?」

何故彼らが手を下さないかと言えば、そんな理由、決まっている。そうしたくないからだ。汚れ役は生贄が。そしてそれは、最も自分に相応しいとも思っている。
最期まで多少は気を遣えるスズヒコと、自分の差を見れば一目瞭然だ。人を慮る気はさらさらないし、どこまでも独善的で、何もかもに取り残されていく。それが自分だ。終わりのない物語を永遠に紡ぎ、永遠に辿るだけの存在だ。

「……俺は、……ハッピーエンド、に、辿り着けるのか、……」

だから言葉を聞いて、躊躇いなく引き金を引いた。

「知るか。あばよ」

銃声。
水族館が崩れていく。