15:アルカールカ深廃墟の鎖

果たして、ハッピーエンドとは何を以て定義されるのか。
語り手をこなしたスズヒコにも、答えは出せない。その人が幸せだったと言えばそうなるだろうし、外から見ればまるでそうでない場合もあるだろう。
だが少なくとも、この水族館はハッピーエンドに導かれた。巣食う魔王と勇者は打ち合い、ともに致命傷を受けて消滅。あとには平和になるだろう世界だけが残される。
――と、定義したことによって、【来訪者】の来訪それ自体を無に返し、干渉そのものをなかったことにしてしまった。そんな神めいた芸当ができるのも、ここが出来損ないの世界で、そして破壊と再生を繰り返す世界だからこそだ。
故にこの水族館は今一度消滅し、そしてまた蘇るのだろう。自分たちのいた層だけを脱ぎ捨ててそのまま捨て置き、新たにまた人を呼ぶのだ。恐らくは。

「――で、【魔女】。君はこの結末に満足している?」
「それをオレに聞くの?」
「指示したのは君だろう?顧客満足度くらいは調査するよ、俺だって」
「コキャクマンゾクド?なにそれ?」

何故このようなことになったかと言えば、クラトカヤと名乗る女の介入が全てだ。
もはや何を考えているかについては、自分たちの知るところではない。しかし確かに彼女は、純然たる悪意を持ってここに来ていた。別にリンジーでなくとも、誰でも良かったのだろう。彼はただ運が悪かっただけで、そして運が良かったのだ。
まずクラトカヤの悪意を見逃さない誰かがいて、そしてそこにちょうどよくひよっこの魔女がいた。それがロールランジュメルフルールだ。リンジーと特に親しかったというロールランジュメルフルールは、誘いを二つ返事で引き受けた。

【魔王】にならないか、という誘いを。

この城の持ち主はロールランジュメルフルールであり、そして真なる【魔王】もロールランジュメルフルールだ。この水族館に深夢想水族館『トリエステ』と名前をつけたのも彼女だし、動く水族館に仕立て上げたのも彼女だ。
だが、その裏にいるさらに大きな存在のことまでは、知りえない。物語の語り手として、相応に強大な力――有り体にいえばチートを以てしても、その存在は霧に巻かれたように掴めない。嬉々として乗り込んできたあの女が怯えるくらいなのだから、よほど強大な何かと見たが、それ以上のことは分からなかった。
ただ、そいつがロールランジュメルフルールにありとあらゆる力を与えたことは分かる。そして彼女が勝手に決めてきた姉妹提携先とやらで、あらん限りの暴虐――具体的に言うと冷凍庫のアイスを食い尽くすとか、そういうことをしてきたことも分かる。

「……君はこれでよかったのか、ってこと。君が望んでいたとおりになった?」
「オレそんなのしーらないよ。だってあとはリンジーの問題だもん」
「……は?」

手持ち無沙汰になっている手で、【魔女】は帽子を弄り倒している。
大きな魚影に見える帽子だ。肩に掛かるマントは、常に魚が泳いでいる。

「オレはね!どうしてこうなったかって言ったら、はっきり言ってリンジーが弱かったからだと思ってるよ」

リンジー・エルズバーグ。アルカールカ水族館人魚飼育部、あるいはアクアシール人魚担当、もしくはアルモーグ大学海洋研究科人魚学専攻の実験補助員。
彼のことを語るに、常に一人の人間のことが切っては離せないのだ、という。

「タカミネって言ってね。オレの“おとうさん”たちの一人なんだけどね」
「――ああ。あの、黒髪の……」
「そうそう。なんか……ぐねっとしたのが、変身してたやつ」

現れた瞬間の狼狽具合と、その後の彼の行動を思えば、十分に分かる。
あれは親しい人間を愚弄され、怒り狂っていた動きだ。仮に自分も同じことをされたら、十中八九似たようなことをするだろうと思っている。

「オレは、人魚だから、人間とかは、先に死なれるのが当たり前って分かってるけど……人間と人間は、そうじゃないんだよね」
「……ああ、うん。そうだね」
「けどねえ、リンジーもタカミネももういないけど、これからもいるよ。オレはきっと、そのうちちゃんと、【魔女】として会うだろうし」

何てこともないように【魔女】が言ってのけた言葉が、微かに胸に傷を残す。
もうずっと昔のことだ。スズヒコは、置いていった側だった。

「そう、今ね、オレシュギョーチューってやつなんだよ。けどなんかすごいことやっちゃったし、どうしよっかな」
「学びは永遠の宝だよ。君は調子に乗らないほうがいい。ニーユくんくらいに謙虚に生きてたほうが相当身のためだ」
「ええー。ええー?そうかなあ。でもスズヒコさんがいうんならそうなんだろうなっ」
「だろう?ニーユ。君だってその知識に明確に助けられてきているはずだ」

くるくると表情を変えながら話を続ける【魔女】に、スズヒコは確かな年長者としての立場で言葉を返す。眼鏡を外した紫の髪の男に不意に話を振ると、めちゃくちゃに渋い顔をしている。それもそうだ、ついさっき彼の辿った道筋を詳らかに話した。一言で言うなら立場の違いを分からせるための威嚇だったが、三割くらい効けばいいと思っていたものが少々効きすぎている。

「……物語の化身、ずるいですよ、人の過去を覗いたりとか……!」
「特権階級みたいなものさ。ここじゃ特に顕著みたいだけれど……」
「さて何のことだか。まあ、紙魚にうっかり話さなくてよかったね」

水族館に灯りはついていない。
リンジーが別の魔王から仕入れてきたという灯りは、外気に触れて何の意味もなさなくなってしまったし、ここにはもはや水槽すらない。
――夢想だ。深い夢想に潜り込んだ深海探査艇。浮上すればそこに現実が待っている。

「そういえばニーユ、特になんともない?」
「あ、はい。私は何ともありません、大丈夫です」
「クロトは……」
「おっ呼んだか。空気を読んでひっそりと佇んでいたんだけど」

夢想だからこそ無茶が効く。怪物に変身させられたニーユも、首を飛ばされたクロトも、何事もなかったかのように佇んでいる。
明確な変化が存在していたことすら、無に還される。世界喰いたる【絶対的狂裁者】からの介入を防ぎ、これ以上の被害を出さないためには、それが一番いい選択――だと言われたことを、ぼんやりと思い出している。ロールランジュメルフルールは、それが何なのか、どのくらい大変なものなのか、全く知らない。

「ほらごらんなさい。そこに殺意の化身がいるよ〜」
「こわ〜い」
「ふざけるのも大概にしろよ。終わったから殴り放題だ」
「や、やめてください、できたらここじゃないところでやってください巻き込まれるの嫌なんで」

ただ、自分の護りたいものが、助けこそあれど自分の手で護られた。
その事実だけが自分の手の中に残ることこそが、あまりにも確かなハッピーエンドのように思えた。

「――うん。それじゃあ、さよならだ。わたしは確かに、ハッピーエンドを掴み取ったよ」

この小さな手に光を。あの筋張った手に、次に進むための標を。

「蛇竜は食い殺される。そして知識の獣が清流の中から生まれ出るのさ!おめでとう、ウロボロスの蛇は今川に還って、そして新たに泳ぎ始めた」

これは確定された未来の事象だ。ロールランジュメルフルールは識っている。
いずれ出会い、いずれまた話をする。その時間違いなく、このことは覚えていない。当たり前だ、これはあったことをなかったことにする戦いだったんだから!

「閉館だ。最後にオレが、リンジーの真似して、ここを閉めるよ。それでこの話はおしまい――でしょう、語り手」
「であれば確かに。この物語の円環は閉じるだろう」

一回りする。少女の姿が絵に描かれたように変わって、初老の男の姿となった。

「それじゃあ行こうか。これで何もかもが終いだ。オレは俺のために、ここにピリオドを打つ」

歩き出すインバネスコートの後ろに、男二人が続いた。