06:例えるなら狂ったように

戦い方を変える。
それはニーユにとって、果てしなく大きく、そして恐ろしいことだった。
とはいえ約束をしてしまった以上は、それを無碍にはできないのも――この、ニーユ=ニヒト・アルプトラという人間だった。

「……」

普段使いのパイプベッドに倒れ込んで息を吐いた。ミリアピードはまるでなんてことのない、せいぜいかすり傷程度――以前に砲を一発貰ったときよりも、よっぽど軽いダメージで済んでいた。軽量機が恐れているプラズマ砲の一撃も、なんてことのないように受け流してしまったのだから、やってやれないことはないのでは――と、思うことにした。
内心は。内心は、全くそうではない。ただただ恐ろしかった。
努めて冷静な声で通信を飛ばすようにしている僚機は、戦場に出るとまるで人が変わったように動く。どちらが本当の彼女なのか、まるで分からなくなる。それも恐ろしく感じた。どこか遠くへ行ってしまいそうなのだ。突然手の届かないところに、……そもそも連れ込んだのはこちらであるので、いつ彼女がいなくなっても、何も言えない立場ではあるが。それがここを立ち去るだけなら、特に何か言うつもりはない。そうでなかったときを考えるのが、恐ろしすぎると言うだけで。
一つ前の戦場の彼女は、実によく動いていた。ランキングにリーンクラフトミリアサービスの名が乗ることはそうそうない。一方で、自分がうまく立ち回れているかは、全く自信がなかった。生きている。どこも痛くない。――どこも、痛くないはずだ。

『ニーユ』
「……ん……」

足元がひんやりしている。スーの声が直接ニーユの頭に届くのは、彼の本体に触れているときだけだ。

『顔色がむちゃくちゃ悪いけど生きてる?』
「生きてる……」

そうだ。今日ももう少ししたら、整備の予約を入れている客が来る。普段は朝早く起きて着替えたら、作りすぎた飯をどうにかこうにか消化する手段を考えながら、早々にガレージにいることもある。ミリアピードを見る時間は、多ければ多いほどいいと思っていた。戦いの場で消費するのならなおのことで、特に関節のチェックは怠りたくない。整備の仕事の合間にそれをやって、適当なところで切り上げて昼ごはんを作って、本当に少しばかりの休憩を挟んだらまたガレージに籠もる。夜は早々に整備の方は閉めてしまうが、休憩所として(あるいは飯屋として)はそれなりの時間までやっている。そして一日の締めに日記を書いて、またガレージに籠もって――

『少し休みなよ』
「けど」
『けどじゃねえ』

冷たい感覚が這う。持ってこられたタオルケットを掛けられ、身体を起こそうとしたのを制される。
うまく力が入らなかった。

『あのねニーユ』
「……はい」

何を考えているのかよく分からない、棒を二本書いただけのような目が、じいっとニーユを見つめていた。

『自分の身体のこと、ちゃんと分かってる?ボクは前にも説明したはずだし、タカムラさんとこでも一度やらかしてるんだからな』
「……」
『分かったら今日は休んでること!いいね』
「……そうする……」

最後にぺしっとニーユの額を叩いて、スーはするすると部屋を出ていってしまった。起き上がろうと思えばできたが、素直に彼のいうことを聞くことにする。
スーは、こういうときも、そうでなくても、ニーユの手助けをすることについては、とかく有能だった。きっとこの後も、手早く店の休みの看板を出し、メールで連絡を済ませてしまうのだろう。店主体調不良のため休業、なんていうのは、一般的にもあることだろうから。
思えば、どうして今日まで一人(と一匹)で、整備屋を回してこれたのかがてんでわからないのだ。スーも整備の心得があるし、簡単なものなら彼に任せてしまうこともある。何よりスライムというのを活かして、ヒトの手の届かないところにも彼は簡単に到達してしまうから、それに助けられたことは数限りなくある。
彼と――そうでなくとも今は、リーンクラフトミリアサービスに多くの人がいる。整備士だという女性もいるし、ひらくもの二人も、もしかしたら力を貸してくれるかもしれない。そこはスーに全て任せてしまうことにして。

「……やらかしたって、何をだ……?」

思い当たることがないのだ。例えるのなら、ケースの中身が引っかかって引き出せないような状態で、何かあったことこそ思い出せても、その詳細は全くわからなかった。
そもそも今だって、――本当にただ“疲れている”だけなのか?

「……」

気が重い。
スーは、自分よりも多くのことを知っている。それは間違いなかった。ニーユは無知だ。恐ろしいくらいに外の世界のことを知らない。誰も教えてくれなかったのだ。だから痛い目にも遭ったし、ちょっと言えないようなことだってする羽目になったし(――それはもちろん生きるために)、残像領域にたどり着いてからの三ヶ月位は、本当に地獄を見ているような気持ちだった。
あのとき、あの人に強引に酒場に連れ込まれなかったら。今頃何をしていたのだろうか。

「……はあー……」

疲れているのだと思うことにした。
そうでなければきっと、こんなこと考えないのだろうから。今までこんなこと、考えたことなどないのに。

「(――あれ?)」

右手の先がない。
慌てて視線を巡らせると、サイドボードの上に籠手が置かれていた。中身はからっぽだった。
露出した右肘の先は、ほんの少し残ったスライムが先端に張り付いているだけだった。そうしているかぎりいつまでも切断面は塞がらないままで、少し角度を変えるだけで、明確に皮膚の下の肉を視認することができる。
腕を切り落とす選択をした記憶も、ひどく曖昧だった。何か救いようがない状態になったのか、それとも別の理由か、全く覚えていない。自分で決めたことだというのだけ、鮮明に覚えている。

「……包帯……」

サイドボードの引き出しを開ける。中に入っていた包帯を引っ張り出して、慣れた手つきで右手の先に巻きつけていく。籠手を外すタイミングは風呂のときくらいで(ここに残っているスライムはかさぶたのような存在だとスーに聞いた)、早々人に見られるものではない。それでも右手を外さざるを得ないときは確かにあって、その時は包帯を巻いておくのが常だった。できたら長袖を着てしまう。時期が許せばの話だ。
再びベッドに横たわって、何をするわけでもなく、天井を見上げた。何もない、何の代わり映えもない天井しかない。それをじっと眺めていられる日があと何回あるかと思うと、すっと背筋が冷えた。
ぼんやりとした微睡みの中で、ひとりで揺れている。――天井が崩れてくる。轟音と罵声と悲鳴を伴った肉の焼ける香り、

「――ッ!!」

寝ていられない。
勢い良く身を起こして、サイドボードの籠手を引っ掴んだ。手を動かしている方がまだずっとよかった。
ずっと追いかけてくる。
思い出したように追いかけてくる。
何もなければしまい込まれ続けているはずのものが、何かのきっかけで不意に顔を出してくるたび、それに怯えるしかなくなる。
忘れるのに一番手っ取り早いのは、ハイドラに向き合うでも、料理をするにしても、手を動かすことだった。今までの経験則で分かっていた。

――ニーユ=ニヒト・アルプトラは、休むのが下手くそな人間である。