07:シャワールームにご用心

ミリアサービスの建物は、一言で言うと不格好だった。
必要に駆られてニーユが継ぎ足していった部屋や設備のせいで、廊下(というには狭いし曲がりくねっている)と部屋の接続を把握するにはかなりの困難がある。休憩所として――あるいは食堂として――開放されている一番大きなプレハブ小屋は実に分かりやすいが、そこからトイレに行くのがすでに結構な難易度になっている。ましてや家主のニーユの部屋などの、彼のプライベートスペース、あるいは居住区域――たとえば風呂なんかに辿り着くのは、初見ではなかなか難しい。ひらくもの二人には、ニーユが手書きの地図を渡したくらいだった。

「……」

ミオも例に漏れず、ミリアサービスの建物の中で迷っていた。
しかし彼女は、他の人たちとは違う。来た方向さえ覚えておけば――いや、それすら覚えておかなくても、なんの問題もなかったのである。
ミリアサービスの壁を抜けていくのなど、幽霊である彼女には、ハイドラの操縦よりも楽なことだった。
今いるのはニーユの私物の本などが詰め込まれている倉庫だ。ハイドラの月刊雑誌やなにやら難しそうな虫の本、それから虫の写真集。自由に見ていいですよ、と言われたのはいいものの、ミオの頭で理解できたことは、世の中にはとてもきれいな虫もいるということぐらいだった。ミオの故郷でも虫は身近な存在だったが、見たことのない鮮やかさで輝いている虫たちは、さながら宝石のようだったし、恐らくはこの本を持ってニーユのところにいけば、彼は目を輝かせながら話をしてくれるだろう。ニーユのもとで過ごすようになってから一ヶ月強、“見知らぬお兄さん”は、“残像領域で信用してもいいお兄さん”に変化しつつある。

「……ん……」

さてそろそろ戻ろうかと、ミオは見ていた写真集を棚に戻した。ミリアサービスの食堂(ニーユは休憩室と言い張っている)は、よく集う面々と、馴染みの顔とでいっぱいになっている。賑やかなのは良いことだが、それはそれとして一人になりたいことだってある。その点、他の人がほぼ来ない場所に立ち入れるというだけで、ミオは随分と安心していた。
壁にかかっている時計は、もうすでに夜であることを示している。ついと顔を上げたミオは、なんとなく思い立って、いつも出たことのない場所から出てみようと、入ってきた壁とは逆の方向をすっとすり抜けた。一瞬外に出た次の瞬間、耳に入ってきたのは水音だった。
――水?

「……??」

湯気の向こうにはっきりと視認できるシルエット。大人の男性。筋肉質な。紫色の髪。右手は肘の先からない。
もしかして。もしかしなくても。

「……にひと……??……え……??」

声をあげなければ、気づかれなかったのかもしれないが。それに気づいたとしても、言葉を発したあとでは遅すぎる。
なんてことのないように、シャワーヘッドを左手で持ったままのニーユが振り向いた。当然ながら誰かの侵入なんて想定していない、一糸纏わぬ格好で。

「……えっ?」
「……ぁ……」

随分と長い間、そこにいたように思った。実際は本当に僅かな間で、慌てたニーユがシャワーヘッドを取り落としたのが、凍った時間が溶けた合図だった。

「ミオ!?な、なんでここに」
「いやあッ……!!」

当然ながら、ミオが家族以外の男性の裸を見るのは初めてのことだったし、ニーユだってこんなことになるのは想定していない。
最近数の増えたシャンプーなどのボトルがガタガタと音を立てた。その、次の瞬間には。

「――あっでェッ!?」

勢い良く飛んだ洗面器が、ニーユの脳天に直撃した。



彼女が相当な衝撃を受けたというのが痛いほど分かった。というか実際痛かったのだ。ウォーハイドラすら操る霊障の力で、こちらに投げつけられた洗面器の当たった跡はすっかり赤くなっていて、しばらく残っているかもしれないとも思った。何かで隠すにしたって前髪は短くて仕事をしないだろうし、包帯を巻くほどでもないし、むしろ包帯だったら一体どう説明しろというのだ。事故?間違いなく大事故ではあったけれど!

「はあー……」

というかまず、この後どう対応すればいいのかが全くわからないのだ。
最低限誰かのいる前で何かあったような素振りを見せたら死ぬ。それは分かる。スーにも知られたくない。彼は絶対憐れみながら指を指して笑ってくるタイプの性格をしている(それに助けられたことは多々あったが、それとこれは別の話だ)。
とはいえ。このままここに籠もっていても仕方がないことは確かだった。ついに始まる要塞攻略は、確実に今までと違う色のものだろうし、そのことについても少しは“僚機”と話をした方がいいと思っていた。
そう思っていたらこのざまである。痛みには強い方だと思っていたのだが、まだじんわりと額が痛い。

「……」

右腕は自室に置いてきている。服を着替えて風呂場を出ると、曲がり角の向こうから顔を出している姿が目についた。
引っ込んだ。

「ミオ」
「……」

また出てきた。

「……気にしてます?」

ニーユの部屋の方向は、彼女がいる方向である。それを果たして分かっているのかは知らないが、立ち止まっていてもしょうがないので歩いて行く。
歩き始めるとまた角の向こうに引っ込んでしまって姿が見えなくなったが、曲がった先、数メートル距離を取って、ミオはじっとニーユを見つめていた。

「……ぁ……」
「私も悪かったですから……必要ないだろうと思って、あなたに細かいことを教えなかったのも私ですから……だからそんなに気にしないでください、ね?」
「……その、……ごめんなさい……」

額はまだ痛い。どれだけ強烈な一撃だったのか、当たりどころが悪ければ流血沙汰だったのではないか。そういうどうでもいい考えを押しやりながら、ニーユは努めて穏やかな笑顔を作った。実際気にしてはいないのだ。見られたところで減るものではない。
おずおずと近づいてきてぺこぺこ頭を下げるミオを見ながら、彼女の肩に手を置こうとして、――行き場の無い手を頭に回す。

「気にしないでください。……できたら忘れてくれたほうがありがたいですけど」
「……うん……」

彼女に触れたいだとか、そういう欲求があるわけではない。ただ何かがあったとき、手を伸ばせないのがほんの少しだけ寂しいのだ。
どうにもなりそうにない問題であるのもまた、余計に。

「……そうだ、ミオ。この後少しいいですか、今まで特に戦闘の前に打ち合わせをしたことはありませんでしたけど……次は流石に、少し話をしておきたいなと思ったので」
「……ん……いいよ。今から?」
「はい。私の部屋、すぐそこですから」

今まで誰かを招き入れたことはない。ひらくもの二人は場所こそ知っているし、一度笛付さんが部屋の前まで訪れたこともある。そのときも部屋のドアすら開けなかった。
思えば今日のようなことがあったのなら、ミオもいつ入ってきてもおかしくないのだし、そもそもさっきのことを思うと、部屋に立ち入られること程度はもはやどうでもよくなってすらいた。

「今ドア開けますから……」

幽霊にそう呼びかける意味を考えながら、ニーユは立て付けの悪い自室のドアを開けた。ミオは律儀にドアが開くまで待っていてくれた。
一言で言えば、殺風景な部屋だ。いつも寝ているパイプベッドと、端末の置いてある机と、それから衣装ケースが適当に積んである程度だ。部屋に置いているととっ散らかって仕方ないからという理由で本の類を倉庫に押し込めてしまったので、当然の帰結ではある。
机の上には日記帳代わりにしているノートが乗っている。とりとめのないことを書いている途中だったノートをそっと閉じて、情報として送信されてきたリソスフェア要塞の敵配置図と、おおまかな予定の出撃位置をプリントアウトしたものを、手元に手繰り寄せた。ちょっと紙が湿気っていた。

「……にひとの、部屋……」
「別に、いつでも来てもらってかまわないですよ、私がここにいることそんなに多くないですけど……」

ベッドに腰掛ける。軽く手招きすると、すいとミオが近くに寄ってくる。
暖かさを感じても何もおかしくない距離で、感じられるものは何もない。

「……でも……」
「さすがに今日みたいなことはもう起こらないと思いますよ、いや、ほんとに……」

蛍光ペンで線を引きながら、けれども話すことはごく軽く。
要塞攻めの戦術は存在するし、ニーユは一通り目を通した。それを噛み砕いてミオに説明したところで、そのとおりに実行できるわけがない。
霧の戦場はそういうところだからだ。足元が突然爆ぜることもある。見えない力に薙がれることもある。
あと、正直彼女に難しいことを説明したとして、半分も理解できないだろうという見立てがあった。ニーユですら完全に理解できていないものを、ほんの少しでも分かればもう十分なくらいだろうとも。

「――まあ、わざわざ話しましたけれど……あなたは、いつものようにやればいいんです」

その言葉を伝えたかっただけだ。
そう言えばまだ右腕をつけ直していなくて、肘の先がぴりぴりと痛んだ。

「……ん……分かった。……あのね、にひと」
「ん?」
「……だめだよ。あんまり、前に出ちゃ……怪我、したら、嫌だよ」

空気が冷える。
ずんと重くのしかかってくる言葉は、少し前にも似たようなことを彼女に言われたものだ。

「……大丈夫ですって。私は、あなたが思っているよりずっと“頑丈にできている”し、……ミリアピードも、そうですから。私は、私にやれることをしているだけですから」

笑顔で嘘をついている。事実と虚構を織り交ぜて話している。
それに気づいているのかいないのか、あるいは言っても無駄だと思われたのか、ミオは頷こうとはしなかった。

リソスフェア要塞攻略戦。
巨大塹壕と無数のトーチカがそびえ立つ、《月の谷》までの道筋の、最初のひとつに過ぎないもの。