09:過去を見るリーンクラフト

辺りは炎に囲まれていた。誰かの小さな手が、自分のことをしっかりと掴んでいた。
大人の大きな手が、腕を掴む。引きずり出されていく。

『ニヒト!――!!ニヒト!!』

自分の名前が“ニヒト”であるらしいことを裏付ける記憶は、それしかない。
甲高い声が叫んだ名前がきっと自分の名前だろうと信じて、今日まで生きてきている。声の主が誰なのかは、覚えていない。
“炎の中から助け出されたと思っている”。

埃ひとつない、おぞましいまでに綺麗な場所にいる。
自分を含めた子どもたち十数人の前には、一様に同じ服に袖を通した大人たちが、だいたい同じ数だけいる。
周りの誰もが不安そうな顔をしていた。大人たちの目は笑っていない。顔こそ、笑顔の形をしていたけれど。

『こんにちは』

冷たい床に反響する声も。
自分たちの不安を煽るように冷たい。

『今日からここが、あなたたちの家であり、世界です』

そう言われた。あらゆる危険から守るし、危険に対抗するための力をつけましょう。そう言われたのも、覚えている。
“その言葉をずっと信じていた”。

その人は、ある日連れられてやってきて、自分たちのことをじろじろ眺めていた。真っ赤な目がこわくて、泣き出す人もいた。空色の髪を靡かせて歩き回って、自分の前ではたと止まった。
じっと見つめてくる瞳を、見返すことしかできない。

『決めた。こいつにする』

突然そう言われて、強く手を引かれる。赤い目は得意げだった。
手首にすっとバンドを巻かれて、首から下げていた名札をまじまじと見られた。

『……ふーん、ニーユ。ニーユ=ニヒトっていうのか』
『ボクは   。   =   』

名前は思い出せない。けれど、その人のおかげで、何かが変わったのは、よく分かった。
次の日から、自分にやることができたのだ。毎日何かを教え込まれるだけの生活ではなくなった。

『ボクについてきて、ニーユ』
『いいか。ここで生きていたきゃあ、言うこと聞いて、いい子にしてるのが一番さ。機嫌を損ねさせなきゃ、ちゃんと……ちゃんと大人になれるはずなんだ……』

彼が初めての友達だったのは、よく覚えている。
けれども名前だけは、霞がかかったように思い出せないのだ。
一緒に机を囲んで勉強したり、彼の知っている外の話を聞いたりしていた。“それがずっと続くと思っていた”。

『彼らの世話を。あなたにしてもらうことになりました』
『よろしくお願いしますね。あなたは真面目なので向いているはず』

真っ青な水槽だった。
中に人型が揺れていた。それ以外のことは覚えていない。

『外は危険な世界なのです』
『外に出るために力をつけましょう』
『外で生きていくための力を』

『私たちの目的のための力を』

――断片的に記憶が流れていく。いつも同じ夢を見る。
大切なことがあるはずなのに、少しも思い出すことができない。記憶にあまりにも穴が空きすぎている。おかしい、と思ったことは、今までは――なかった。
人と関わることがなかったからだ。あっても仕事上のやり取りくらいで、どうしてそうしていたかと言えば、ハイドラライダーは人が死ぬ仕事だったからだ。深入りしたくなくて、悲しみたくなくて、そうしていた。そのはずなのに、今はどうだろう。
人の集まるところになっている。次誰が死んでいるかもわからない場所で、あまりりにも多くの人に囲まれている。それとは別に話をする人も増えたし、ハイドラライダーの世界の広さを実感している。誰か、誰か知り合いが死ぬようなことがあったら、そのとき、自分は。

『問おう。お前はどうする?わたしの前に立つか?』

クラトカヤは、その問いかけを、ありとあらゆる人にしていたようだった。
自分の前にそう問いかけられた人は、立ち向かうことを選んだのだ。そうして自分の目の前で、上半身と下半身を分断されたのである。

『私は』

――死にたくない。
  ここを出たい。
  外の世界を見てみたい。

『そんな、ことは、しません――いえ、できません』
『――では往け。覚えておけよ、貴様らの行い、決して許されるものではないことを!』

そうしていつも、その言葉とともに目が覚めるのだ。いつも。いつも。
クラトカヤ・レーヴァンテインという女は、確かにニーユ=ニヒト・アルプトラの道を拓いたが、それ以上に傷を残した。
彼女が訪れるたび、夢の中で断片的な記憶を辿り、最後に燃え盛る建物の中で問答をするのだ。まるで忘れることを許されていないように。

「……」

元来汗っかきではある。けれどもひどく汗をかいているなあと、他人事のように思った。時計はまだ朝とも言えないような時刻を示していたが、寝直せる気もしなかった。そのまま起き上がって、着替えることにする。
持っている服はそう多くないし、たいていTシャツ一枚に上着を羽織っておしまい。下は汚れてもいい作業着のズボン。なまじ体格が良いので、あまり洒落た服は二の腕で引っかかったりするし、そもそもそんなにセンスがなかった。服を着たら、寝る時には外している篭手を着けて、手が動くかどうかを確認する。付けっぱなしでも別段問題はないらしいのだけど、風呂に入るときは外してしまうので(水に濡らすと篭手の管理が面倒だからだ)、そのまま外しっぱなしのことが多い。
元々寝付きは良くないし、かと言って睡眠時間を長く確保しなくても、問題なく動ける身体であるらしい。今のところ不都合が生じたことはない。着替え終わったらタオルを首にかけて、部屋の外に出る。電気もつけずに暗い廊下を歩き、建物の外へ。
真っ暗だ。霧が出ていることだけ、肌の感覚で分かるような。

「ミリアピード」

機体の名を呼ぶと、控えめな駆動音がした。
闇の中からぬるりと現れる、巨大なウォーハイドラ。朝早く起きたとき、ニーユは必ずと言っていいほど、ミリアピードに手を掛ける。気を紛らわすため。あるいは、ふだん彼女に割く時間を、他のハイドラに回すため。

「おはようございます」
『おはようございます?何言ってるのかしら。女の子をクソ夜中に起こさないでほしいものだわ』

ベルベットの声は聞こえない。霊障の類で発されているらしい声は、霊障能力の低いニーユには、操縦棺に収まるか、通信機器を経由しないと認識できない。
一方的な言葉は、通信機器のログに溜まっていくばかりだ。彼がそれを見ているかは、定かではないが。

「頭を」

仮に言葉が聞こえていたら。

『しょうがないわね』

聞こえていても。
この人はきっと、ひとの話を聞きやしない。そうするのがいいと思って、そうする。一AIの進言は、聞いてくれない。
ベルベットにできることは、ニーユがこうしてやってくる証拠をきっちり揃えて、あとで誰かに突き出すことくらいだ。

『ねえニーユ』

装甲が開けられていく。刃をまっすぐ差し込まれるのを防ぐべく、互い違いに組まれた装甲が一枚ずつ剥がされていく。

『最近そうね、平均した睡眠時間は4時間ちょっとよ。今日は3時間もなさそうだし、普通の人間だったら、確実にバイタル面が低下してると思うのよ……』

ベルベット・ミリアピードに搭載されているサーモセンサーが、そこにいる人間の体温を捉える。

『そうならないあなたは一体何なのかしら?あなたって本当に、まっとうな人間なのかしら?それとも』

想定しうる平均的な人間の体温より、いくらか高いそのデータは。

『上限が高かっただけで、緩やかに低下しているのかしら?私には分からないわ』

きっとあとで、誰かに突きつけることになる。
スーか、あるいは、他の誰かに。