13:手を引くクルーガー

破壊された研究所を飛び出し、さんざん危険と言われていた外の世界を楽しむ余裕もなく、雨に打たれ風に吹かれ、この先どうなるのだろう、と。そう思えるようになった頃、不意に霧に巻かれた。研究所から出て一晩経っていたかも怪しい。どれだけ前に進んでも先の見えない霧は、まるで自分のこの先の暗示のようだった。どれだけ歩いたのか分からなくて、少しは休憩しても許されるのではないかと思って、座り込んだ場所はとにかく硬かった。それが荒野の真っ只中だと知るのは、次の日霧が晴れてからのことだった。
残像領域。未開拓な領域の残る、不確定の世界。ここが様々な世界から神隠し的に迷い込んだ人が機械がよく訪れる場所だということを教えてくれたのは、ニーユをある整備工場に叩き込んだ男だった。

今でも鮮明に思い出せる。
ご機嫌そうな男がこちらの肩を叩きながら、こう言ってきたのだ。


――『おうにーちゃん!そんな死んだようなツラしてんじゃねえよ!』


肩を叩いた青年は、大げさな動きで身を竦めた。
こちらに向けられた紫の目は、どこまでも怯えの色に満ちていた。

「ひっ!?」

バルトロイ・クルーガーは、残像領域の一ハイドラライダーだ。事故で一度は前線を退いたものの、再びハイドラ乗りとして戦場に戻ってきた男。
当時彼は、とにかく上機嫌だった。大規模なハイドラ戦がひとつ終わり、懐が潤ったのだ。それで手に入れられた新しい義手は、今までのものに比べれば高性能。ハイドラライダーの実入りの良さもそうだが、なにより自らの腕はまだまだ通用することがわかって――そう、二人で戦場に出ずとも、一人でも問題なく、ジャンク漁りのハイエナども程度なら蹴散らせるのだ。再び一人で戦場に出られる日もそう遠くはないだろう、そう思うと、取らぬ狸の皮算用であるかもしれないが、ハイドラのパーツをどうするかとか、そんな事ばかりが頭に浮かんだ。あと酒。せっかくなのでいい酒を飲みたい。
そんなご機嫌の状態で目についた青年は、バルトとはまるで真逆の、一言で言えばひどい表情をしていたのだ。明日にでも世界が終わるような、そんな顔を。

「あ、あの」
「何だ何だ……にーちゃんちゃんと飯食ってんのか?ん?」

成人しているかも怪しい青年は、バルトから必死で逃れようとした。いつから着替えていないのか、すっかり薄汚れた服と、それに見合わない金属の右手の篭手が目を引いた。
酒が入っていたからかもしれないが、バルトはこの瞬間、名も知らぬ青年にお節介を焼くことにしたのだ。ジャンク街のジャンク漁りだろうと構わないことにした。

「すい、すいません、あの、……目障り……でしょうから……あの」
「いい身体してんのに勿体ねえぞ!よし来い!」
「えっ、あの、あ」

腕を掴んで引っ張った身体は、見た目の割に随分と重い。始めこそ抵抗していた青年も、そのうち観念したのか、諦めが早いのか、大人しく引っ張られるだけになった。

ニーユと名乗った青年は、どうやらジャンク漁りではないようだった。それ以上のことが分からないまま酒場に連れ込んで、人数分の開幕ビールと洒落込もうとしたら、ビールを飲んだことがないという。バルトにはカクテルはよく分からないが、店員の薦めの甘いやつを適当に頼んだ。そういえば年齢確認を忘れていたがまあいいか、ということで。

「よし!遠慮しないで食え!!」

カシスオレンジと、バルトが適当に頼んだ種々のおつまみを前にして、青年は相変わらずおろおろしているだけだった。全部食っちまうぞ、と声をかけると、ようやくフライドポテトを一本口に運んで、――あとは早い。ろくにものを食べていなかったのだろうことが伺えた。
ニーユ=ニヒト・アルプトラ。つい最近この残像領域に流れついたらしく、今日まではそれこそ、本人曰く“生きるためならなんでもやった”。飲食街の近くを彷徨っていたのは廃棄の食材狙いで、当たり前だが家――心行くまで休めるところなど、持っていない。元いたところは壊されてしまったし帰り方もわからない。
初対面の、それも強引に酒場に連れ込んだ男に対してべらべらと自分のことを話したのは、酒の力があまりにも大きかった。最初の一杯ですっかり出来上がってしまったらしいニーユは、ぐすぐす泣きながら、どれだけ自分がこの残像領域で酷い目にあったか、という話をし続け、今はもうすっかりテーブルに突っ伏している。言葉をかければ曖昧な言葉で応じるし、完全にダウンしているわけではないようだけれど。

「お前よぉ」
「ぁい……」

どうしてそこまでお節介をしようと思ったのか、と聞かれたら、酒のせいか、機嫌が良かったせいか、そのどちらかだ。
それと、ちょうどよく、彼のこの先について、大変な名案が思いついていたのもあった。もうオレめちゃくちゃ天才だなと思ったのだ、本当に。

「家も何もねぇんだろ」
「ぅ……」
「オレの知り合いんとこ来るか」
「うぅ……?」

アルコールですっかり赤くなった顔がこちらを向く。それでもまだ、潤んだ紫の目には、心配の色だけがあった。
そこに、畳み掛けるように言う。

「今よりはずっとマシだろ!細けえことは気にすんなよ」
「……ふぁい……」

ごん、と痛そうな音がした。それでも彼がまた起き上がることはなくて、そのうちすうすうと寝息が聞こえてくる。
はて困った。今からこの青年を、ある整備工場まで引っ張っていかなければならないのだが。そのつもりですっかり寝こけてしまっている青年を抱き起こして、――

「……ウオッ重てえ!?」

見た目によらない妙な重たさに驚いたが、何とかできる範囲だった。こちらに来てから数ヶ月、ろくなものを食べられていないという話だったのに、随分と立派な体格をしているなあと思った。元々はもっと良かったのかもしれない。
犬とか猫を拾うならまだしも、まさか人間(しかもでかい)を拾ってしまうとは、とか、あとで何か言われるかもしれないなとか、いろいろ思うことはあった。
けれどきっと、事情を説明すれば、あの整備工場の人らは分かってくれるはずだと。それは今までの関わりで、確かなものとして、バルトの中に存在していた。


――こうしてニーユ=ニヒト・アルプトラという青年は、タカムラ整備工場に預けられたのである。
起きたら知らない場所のベッドで寝ているし、前日の記憶はまるで思い出せないし(変なおっさんに絡まれたところまでは覚えていた)、服は新しいものに着替えさせられているしで、パニックを起こしてベッドから落ちたことは未だに覚えている。
ただここにいるだけというのも何だから、ウォーハイドラの整備を覚えたらどうだろう。それがきっと、将来の君のためになるから。その提案を受け入れ、寝る間も惜しんで勉強したし、実際の場に出てハイドラに触れた。工場の一人娘だという自分より年下の女子の後ろに、本当にひよこのようについて回って、いろいろなことを聞いた。ハイドラのことだけでなく、“残像領域”のことも、一般的な常識の、ことも。
そこでじわじわと、自分がいた場所がどうやら相当に異質だったらしいことに気づきこそしていたが、ずっと目を背けていた。人間は相応にあたたかいのだ。ではあの場所の冷たい人間たちは。
それを気にする余地の無いように、ウォーハイドラのことを、残像領域のことを学んだ。機械のことなどまるで知らなかった(少しばかりの物理の知識がある程度だった)が、それでも半年もすれば軽微な故障なら修理対応ができるようになったし、一年もすればよほど難しい案件でなければ一人で大丈夫なくらいになった。
そうして二十になる一ヶ月前に、ニーユは言った。ここを出て、別のところで働くと。引き止められることはなかった。
そして今に至るまで――より正確に言えば、リーンクラフトミリアサービスを立ち上げるまで、企業子飼いの整備士だったり、個人の整備屋だったりを渡り歩いてきた。それからミリアサービスを立ち上げ、今に至る。すっかり(飯屋としてか整備屋としてかはさておき)名のしれた店になったリーンクラフトミリアサービスは、今日も話し声が絶えない。賑やかな場所になった。そういう場所が欲しくて、そうなるように努力したのも、自分自身だ。

「……」

なので、バルトと、タカムラ整備工場には、本当に感謝してもしきれないのだ。彼に捕まらなければ、今頃どうしていたかわからない。行きていたとして、真っ当な生活はできていないだろうから。
ただ、エロ本を持ってきたことについては次会った時にめちゃくちゃ怒ろうかと思っている。それはそれ。