18:もう生まれないアフロディーテ

バイオスフェアは沈黙した。繭の中から新しく、何かが出てくることはもう無い。

「……やっべえ……」

それはそれとして。
ニーユの前に突きつけられた現実は、今まで記録したことのないレベルの整備費だった。
確か一番高かった時で、スレイベルにやられたときだ。内部配線をほとんど総取り替えする羽目になったものの、ミリアサービスにあるもので十分できたし、それで足りないものを買い足した程度――パーツ一個分、くらいの値段で済んでいたのだけど。
マーケットで普段使う額が一気にすっ飛んでいる。原因はあまりにも明確だった。

「焼夷機関砲……こっわ……」

バイオスフェア要塞攻略戦のために積んだ二門の機関砲は、バイオコクーンのみならずニーユの財布も盛大にすっ飛ばした。
機体の損傷は十分自分で見れる程度だったし、初めから被弾を想定していたので、すぐに新しい装甲がセットされている。霊障に叩かれて凹んだ装甲も、使用不能になるほどの傷ではなかった。
今ニーユの目の前に転がっているのは、今回の度重なる射撃で駄目になったHackTeckの二人から支給された専用砲身と、やはり短い期間で改造を施すには無理があって、動作の怪しくなった機関砲本体。
焼夷機関砲は新しいものを取り寄せることが決まっている。それを抜きにしても、計上されてきた整備費――その大多数が、下手したら全てが弾薬費。バイオコクーンやバイオ兵器に何発撃ち込んだのか、そんなものは当然数えていない。必死だったのだ。
周りが次々と倒れていく。バイオ兵器が動き出すたび、恐ろしい勢いでハイドラの装甲が吹き飛んで、機体が地面に叩きつけられていく。隣を駆け抜けていった相手が、次に隣を通る時は霊障で吹き飛ばされた時。
――殺される前に殺さねばならない。強くそう思っていた。
自分に触れられる前に。霊障の腕が僚機のずんぐりむっくりとした機体を薙ぎ払う前に。ベルベット・ミリアピードが真正面から霊障で叩かれる前に。

――我が呼び声を聞け!

「――ッ……」

あれは誰の声だったのだろう。
それを考え直す余裕も、いろんな意味で存在していない。主に財布のダメージが、思っていた以上に大きくて頭がくらくらするのだ。

「ニーユ生きてる?」
「生きてる……財布は死んだ……」
「そう……」
「だって俺初めてだよ……こんな金飛ぶと思わなかったもん……」

別に、ミリアサービスの経営が火の車だとかそういうわけではない。むしろニーユはしっかりと、ライダーとしての収入と、整備屋としての収入は分けて管理をしていて、そこには絶対の不可侵がある。どちらかが傾いても、どちらかに手を出すことのないように。

「今更弱音か?」
「だってー……」
「言うほど金がねえわけでもないだろうよ。だったらせっせとそのご自慢の腕で稼げ」
「スー今日クッソ優しくないな!?」
「俺が優しかったことあると思ってる!?わーお花畑!」

口だけだ。知っている。
こうしていると、何か懐かしいように思えてくる。――何故だかはわからない。

「まあいいけど」
「いいんだ……あ、それで。何か用でも」
「そうそれだ。忘れるところだった」

忘れていた、と言わんばかりに手を叩く。似せることを放棄している真っ赤な目がニーユを捉え、そしてすっと細められた。

「ミリアムがあんたに聞きたいことがあるんだと」
「……は。……何で」
「さあな」

ようやく落ち着けるだろうか、と。ぼんやりと思っていた心は、あっさりと打ち砕かれる。そもそもこの戦場で落ち着けるような場があるのか、という話で、徐々に――本当に徐々に、ではあるけれど、戦いの場に身を置き続けることに、疲れている。
鋼すら容易に貫き、切り刻むか蜂の巣にする。それがいいという者もいるのだろう。死線を走り、いつ死ぬかわからないようなギリギリの戦いをするのがいいという者もいるのだろう。
自分がそういう人間ではないことは、自分が一番よく分かっている。けれど不思議なことに、疲れこそしても、そこから離れようとは思わないのだ。自分のずっと奥深くで、燻り続けているものがある。

――それこそまさに、自分を呼ぶ声だ。闘争の中から自分を呼ぶ声だ。

「ああそれと全然関係ないけど、バイオスフェアの打ち上げをしたいという声が各所から」
「それお前だけじゃねえだろうな」
「いーやそんなことはない。聞き込みしましたよ俺は」

思考の渦から引きずり出される。
幸いにしてユニオンとしてのリーンクラフトミリアサービスには死人はゼロ。撃墜されてしまったライダーもいるようだが、本人が無事ならそれはそれ。
無事に生き延びたことを祝う会は――そう、リソスフェアのときにすぐやらなかったのを後悔したくらいには、あの時楽しかったのだ。もう一月前になるのだろうか。

「あっそう……いや、俺も、無事乗り切ったこともあるし、前も楽しかったし――うん。やる方面で行くか。張り紙しといてくれ」
「もうある」
「は?」
「準備がいいのはいいことじゃん」
「お前絶対最初からやる気だっただろ!!」

それはきっと、スーも同じなのだと、そう信じている。
まさか他の理由で打ち上げをやりたがるようなやつではあるまい。それは、ニーユがよく知っているけれど、その理由はよく知らない。
あんなに一緒にいたはずなのに。

「今度はさァ。お菓子にしない?」
「は?いや?何故?」
「なんとなく……いやなんかお前最近作ってるし……」
「急にハードルを上げるようなこと言わないでほしいんだけど」
「ごめんもう書いた」
「ハアー!?」

気を紛らわしてくれているのだろうということは、言わずともよく分かった。そういうやつだ。口が悪かろうとそうで、そうしてあの研究所の中でも過ごしてきて――

誰と?

「まあ、うん、……練習しておく……さすがに来週じゃないだろうな!?」
「そりゃあそうさ!俺はその辺の配慮ができる人間ですよ」
「スライムのくせに」

からかいのつもりでスーに投げた言葉に、返答はなかった。
振り向いて、ただにたりと、意地の悪そうな笑みを浮かべているだけだった。


『白衣の集団。その中に少年か少女か、厳密には分からなかったという話ですが、子供が三人いたという話です』
『炎の如き赤い髪。夜闇の如き真っ黒な髪。そして空の如き薄青の髪』
『白衣の集団よりもずっと、その子供たちが殺した数が多かったと聞いています』
『大人の指示に従順に従う姿は、さながら戦闘兵器のようだったと言うものもいたそうです』