19:願わくば年長者のままであれ

『おにいちゃん』『おにいちゃん』『おにいさん』『ママ』『おにいちゃん』
『にいさん』『おにいちゃん』『おにいさん』『にいちゃん』『おにいちゃん』

かつて湯水の如く浴びせかけられてきた言葉はもはや呪いの言葉であり、未だに立ち居振る舞いを縛っているようにも思えた。
いつから。いつからこうあれと言われたのか。その記憶はひどく乏しい。
何故そんなことを今考えているのかと言うと、ミリアムが聞きたいと言ってきたことが、ニーユがどう過ごしていたのか、ということだったのである。

「私はですね、ある研究所にいました」

絞り出すように言う。
研究所の名前は出したくなかった。

「一日のことはほぼ決まっていました。私の仕事は、当番の時に食事を作ることと、飼育されていた生き物の世話と、研究所の他の子供達の相手をすることで、空いた時間はほとんど、資料室にいて本を読んでいた気がします」

やることは決まっていた。その日の当番ならほぼ一日中食堂にいたし、そうでないときは勉強をしているか、自分より年下の子供たちの相手をしているか、――あるいは。

「……たまに実験の手伝いなど、することもありましたけれど……そのくらいです」

実験の手伝いというと、聞こえはいいだろう。実体は“被験者”だ。
どういうわけか知らないが、他人よりずっと頑丈にできている。それを理由にして、苦痛に晒された回数は数え切れない。今思えば体のいい実験体として扱われていた気さえしてくるし、もうわからない。

「そうですか……あなたが何かされたりとか、そういうことはなかったのですか?」
「……詳細は伏せますけれど、全く無かったわけでは、ないです」

思い出して恥ずかしくなってきた。きっといつかの誰かのためになるのだと思って耐えていたことの詳細を、よりによって全年齢向けではない冊子で知ってしまったことだけは、未だに後悔している。下手にゴミ捨て場のそういう本など拾うべきではないということだ。すいません興味に負けました。普通に凹んだし。

「そうですか……いえ、私は、いまあなたが無事でいるのなら、それに越したことはないと思っていますけれど……」
「あまり詳しいことを聞かれても、答えられないのです。ほんとうに覚えていなくて……スーの方が詳しいぐらいで……」
「……自分のことを知らないのは、恐ろしくないのですか?」

ずっと迷っているところに、自然と刃が差し入れられて、ニーユは思わず呻いた。それは紛れもない事実だ。特にここ最近、目の前の人間のせいで。
さすがに本人の前でそれは言えない。

「……いい機会だと、思っていますよ、そうでもなければきっと、私は何の疑問も持たないままでしたでしょうから……」

それは本当。何もなければきっと、何も疑問に思わずに、死ぬまで過ごしていたに違いない。聞ける相手がいないわけではないのに、聞く発想がまるでなかった。自分の記憶を疑ったことがなかった。

「ええ。ええ……どうか、いい機会にしてくださいませね」
「……はい。そのつもりです」
「最後に、ひとついいですか」

はい、と小さく言う。

「研究所の名前は、教えていただけないのですか?」
「……ッ……」

伏せていたところを突かれて、また声が詰まった。思えば先にもうスーと話をしているのだから、リーンクラフトの名前は聞いていておかしくない。
そしてその名前を店に掲げている以上、関わりを否定することはできなかった。
でも本当に、自分の居場所はそこしかないと思っていて、新しく自分の居場所を作るのなら、その名前をつけようというのは、ずっと心の中に秘めていたものだったのだ。

「……。……リーンクラフト研究所です。その第一研究棟に……いました……」
「……そうでしたか……」

いくつか言いたいことがあったのだろう。ミリアムの口が何かを言おうとして動いたはいいが、すっと押し黙ってしまう。
否定する要素が、少しずつなくなっていく。目の前の男(――姉らしいけど!)との関わりを否定するものが、少しずつ。
否定したいわけではないけど、信じられないというか、信じたくなかったのだ。今まで自分が縋ってきたものが、全て崩れていくのが嫌で。

「邪魔してしまってごめんなさいね。仕事もあって、ライダーとしての出撃もあるというに」
「……いえ。いいんです、いいんです。私は大丈夫ですから」
「なら、いいのですけれど。……いいのですけれど、本当に――大丈夫ですか?無理をしていたりはしませんか?」

目を伏せる。
すこしだけ考える。答えは決まっていた。

「大丈夫です。私たちは大丈夫なように過ごしている……いつ戦場に出向くことになっても大丈夫なように、です。大丈夫ですから」

ぱちぱちと瞬きしたミリアムは、ぽつりとこぼすように言った。

「あなたの言う大丈夫ほど、信用のないものはないような気がしました」

何も言い返せなかった。
ずんと重苦しい空気が場に満ちてしまって、それきりになった。


――


残像領域の霧は常に深い。いつどこから何が迷い込んでくるかわからない。
霧に満ちた荒野に、ずるずると這うような音がする。

「なん……なんなのよ……ここはどこなのよ……」

白衣の女だった。長く伸ばした髪はひとまとめにされて、首からはどこかの社員証のようなカードホルダーを提げている。
煤で汚れた顔を拭って、女は辺りを見渡した。見渡す限りの荒野だった。
手に持った通信機器は何度操作をしてもエラーを起こす。ここがどこだかわからない。助けを求めようにも何も発信されない。

「どういうことなの……私は……私は早く……戻らないと……」

数多の救難信号が霧に溶けて消えていく。もう何度送信したかわからない定型文が、ようやくひとつどこかへ飛んでいった。
それを皮切りにして、周辺情報が女の端末に表示され始める。知らない地名。知らない建物。それらばかりが並んでいた。

「……!」

知らぬ文字の一群の中に、ひとつ、たったひとつだけ、自分の知りうる言葉を見つけた。すがるように端末を見る。明確に記されている、自分の所属している場所の名前!

「――リーンクラフト……おお、ここにも……ここがどこだか知らないけれど……ここにも!!」

女は躊躇いなく、そこを目指すことにした。今自分が頼れるのはそこだけだと思った。