21:撃鉄を起こす

パーツの買い出しに出た帰り道でのことだった。霧は深く、数メートル先の視界も怪しい。ニーユが迷いもせずに帰り道を歩けるのは、同じ道を何度も往復しているからだし、文明の利器の力もあった。端末を握りながら行けば、道を間違えても最適化されたルートを示してくれる。
おおよそいつもの帰り道で、何ら普段と変わりない。次に頼まれているエンジンを作るためのパーツが、以前より重たくなっているくらいで、そんなものは誤差だった。

『あと少しで着くので、準備だけお願い』
『了解ー』

ミリアサービスにメールを投げ終えて(大抵見るのはスーだ)、端末から目を離す。霧の向こうに誰かがいるような気がした。気持ち急いでいたので見なかったことにして、歩みを早める。

「――9番(ニーユ)?」

背筋が凍る。
足を止めなければよかったものを、そこで止まってしまって、振り返ることしかできない。霧の中からゆったりと現れたのは、白衣の女だった。
――知らない。けれど、知っている。その胸元のカードホルダーの名前の場所は、嫌というほど!

「……」
「でしょう、間違いない、9番!ああ、あなたもあの殺戮を生き延びていて!」

縋ってくる女が、とにかく気持ち悪かった。縋ってくるのを振り払って、そっぽを向く。すぐにでもその場を逃げ出したい気持ちと、このままもうほど近いミリアサービスに飛び込んでいいものかという気持ちが交錯する。
クラトカヤは言っていた。『わたしの目をかいくぐる“かしこい”やつがいたら、どうすると思う……そうでなくても、その名前を見つけた奴らは、どうすると思う?』――分かっている。分かっていた。根拠も何もなく大丈夫だと思っていて、問題を先送りにしていた。霧が守ってくれるだろうと思っていた。実際何もなしにこの残像領域に放り込まれたら、よほど運が良くない限り、生き延びることから怪しいとニーユは思っている。自分の体験を元にした上でそう思っていて、だからこそ、大丈夫だろうと思っていたのだ。

「……あの、私は……」
「9番。あなたはここで生活しているのでしょう?案内してください。リーンクラフトの仲間ですから、義務ですよ」

ぞっとした。まるで個人の権利などない、ただ自分にその魔の手が及ばないためだけに、従順な子供を演じ続けていたあの日を思い出して、ひたすらに吐き気がした。この場を早期に脱したいと思った。当然従うのだろうと思って、こちらを見上げている顔が見れない。

「……どこでそれを?」
「私の救援要請に反応を返してくれた方からですとも!ベルベット・リーンクラフトと名乗る方でしたけれど、9番とともにいるのではないのですか?」
「……!」

何の否定もできなかった。確かにベルベット・リーンクラフトはここに存在しているけれど、まさか彼女が情報を流したとでも言うのか。しかし彼女に何の制限もかけていなかったことを思い出し――さらに言えば彼女とニーユの思い描く“リーンクラフト研究所”は恐らく全く別なものであることに思い至り、ニーユは口を閉ざすしかなかった。それにしても迂闊だったことは、認めるしかない。自分の考えの甘さに辟易するし、そもそも忘れていたことを言い訳にもしたくなる。もう七年も経っているのだ。

「さあ、細かい話はあとでいくらでもできますから、9番。私を案内――」
「……お断りします」

それは、初めて吐いた、リーンクラフトへの拒絶の言葉だった。
十何年も保護されて――いや、飼われていて、そして命からがらここまで逃げてきて、ようやく分かったことがある。断片をつなぎ合わせ、過去を語られ、導き出した結論は、

「――私はもう、あなた方の言いなりになどなりません」
「……9番?何を言っているのですか?」

もう関わりたくない。そんな気持ちを込めた明確な拒絶の言葉は、女にはまるで受け止められなかった。
だろうな、と思う。どれだけ無茶な言葉にも、首を横に振ったことはないはずなのだ。記憶の限りでそれは正しい。それがどれだけ苦痛を伴うものであっても、自分の右手を失うようなことでも。
首を縦に振るか、ひどく打ち据えられてあとで死ぬかの二択だった。それはもう昔の話で、当に潰えた研究所の一人の研究員に、今更従う理由もない。――最悪殺せばいいと、ずっと深くで囁いている。

「ですから。私はあなた方の言いなりになど、なりませんと!」
「ふざッ――ふざけたことを言わないで9番!!」

ヒステリックになった女が、胸倉に掴みかかってくる。振り払うのはあまりにも簡単だった。そもそもの力が違いすぎる。
あとはもう適当に撒いてやろうと思って、いつもと違う方向に歩みを進めようとした、その瞬間だった。

「あなたたちは――私たちの目的のための子たちなのに!!どうして言うことを聞けないんですか!?」
「まだそれを……ッ、ぐあ!?」

ばちん。
何かの端末を向けられたことはわかった。起点が左耳だったのも、辛うじて理解する。何か得体の知れない衝撃が全身を走り、立っていられなくなった。取り落とした袋が荒野に転がり、袋入りのネジをぶちまける。
睨めつけるように見上げる。女のこちらを見る目は、どう見てもひとを見る目ではなかった。見下した目。かわいそうなものを見る目。
何度も向けられたものだった。目を伏せたのを、女は抵抗の意思がないと判断したらしく、笑い声がした。不愉快だった。

「ほら……ほら。ほらァ……9番はいい子でしたから。とてもいい子でしたから。案内できますよね?そしてリーンクラフトを立て直しましょう?それは間違いなく所長の望みですから!」

耳障りだと思った。
覚悟を固めた。しおらしく目を伏せていれば、それを肯定と捉えたらしい女が、こちらから目を逸らす。

「そう、ですね……」
「9番。あなたにはまず、この世界のことを教えてもらわなければなりませんね!そしてあなたがどうやって生きてきたのか、それかr――ァ?」

一息。取り出されたダガーの刃が女の身体に吸い込まれるまで、瞬きひとつ。
ニーユ=ニヒト・アルプトラは、元来白兵戦に向いている。そう調整を重ねられ、ただひとつその性格だけで限りなく実戦向きでないと判断され、長きに渡り研究所内で留め置かれてきた。穏やか、あるいは臆病と表せる性格はとことんまでに実戦に不向きで、仮想戦闘訓練の成績は良くても、相手が何らかの生きているものに挿げ替えられるだけでスコアが落ちる。そういう子だった。そういう子だったから、扱いやすく、よく言うことを聞いていた。
――ということを女が思い出したときには、ありとあらゆることが遅い。
引き抜かれる赤い刃。的確に心臓の位置を一突きした硬質な刃は、数週間前にダガー工房に連れて行かれて、そこで買い求めたダガーだった。『いざという時に役に立たせるためにはそれなりの訓練が必要だから』という言葉を思い返していた。ダガーは確かに使ったことがないけれど、誰かを相手取る訓練は、嫌というほどさせられた。拳で殴ったほうが強いのも、あながち間違ってない。けれど、死ぬまで殴るのは非効率だ。殺しそびれたくは、なかった。

「に、……な、なぜ、どうし、」
「――うるさい。うるさいうるさいうるさい!!」

それは、いつか彼らの手で呼び起こされたままにされるはずだったろう明確な殺意で、あのまま研究所が存続していたら誰かに無差別に向けるかも知れなかった殺意で、――リーンクラフトという集団に初めてニーユが向けた、無限にも近い怒りだった。
いつまでも囚われていたくない。いつまでも好きにされたくない。自分の場を荒らされたくない。――彼女に触れられたくない。
ありとあらゆることが、ニーユの肉体を衝動的に突き動かす。突き飛ばした女に、荒野に伏した女に馬乗りになって、握ったダガーの刃を振り下ろした。何度も。何度も。
あの人はわけのわからないことを言う人だったけど、ダガーに拘りがあるのは確かだったろうし、こんな風に使われることを想定していただろうか。違うんじゃないか。もっと綺麗なことに、綺麗な使い方って何?

「う、ううう――!!」

もはや原型すら留めないようなそれがふと目に飛び込んで、ニーユはハッと我に返った。カードホルダーのICカードに印刷されている顔写真の面影は、どこにもない。
なにをしていたんだろう。今ここにいるのは誰?何のためにこんなことを?
全身から冷や汗が吹き出して、ひどく身体が震えた。自分が何をしたのか、まるで理解できなかった。

その後どうやってミリアサービスまで辿り着いたのか、全く覚えていない。


――


青い顔で帰ってきたニーユが、床にパーツの入った袋を投げ捨てて、そのまま自室の方に走っていったのは見た。妙だと思って追いかけてみたら、服も脱がずにシャワールームに飛び込んで、バスタブにうずくまって、頭から水を被って動かないのだから、そこだけ見たら何があった、と問い詰めていたと思う。
それ以上の情報が存在していて、それだけで十分だったのだ。生臭い血の臭いは、ニーユが何をしたのか、スーにわからせるのには十分すぎていた。
証拠を残したらまずい頭は残っていたのだろうな、と思う。自分のダガーと、買ったパーツは持って帰ってきていたのだ。それともう一つ、忌々しい名前の刻まれたカードホルダー。

「イーデン・アスカムかあ。あんたのことめちゃくちゃ嫌いだったよ、俺は」

あまりにも執拗に破壊し尽くされた顔面(だったもの)を見て、笑い声すら漏れそうだった。いい気味だ。

「運が良かったのか悪かったのか分かんねえだろうなあ。あの狂戦士の狩り残しになったと思ったら――大切に育てたつもりの子に殺されるってのもさ、わっかんねえもんだよな」

水色の髪が揺れる。

「早く全員死んでしまえばいいのに……早く、早く!」

人の形が崩れた。何かの溶ける音が継続的に聞こえて、それもそのうち聞こえなくなった。
あとには深い霧だけが残されている。