22:無邪気で無慈悲なベルベット

人を殺したらしい。
いや、結果的にどうなったかなんて、生死なんて確かめていないけど、あれは死んだと思う。それくらいめちゃくちゃにして(――つまりは原型を留めないほど、という意味で)帰ってきて、あとの記憶はおぼろげだった。
わからない。ただ、とても衝撃的だったのは覚えていて、それはあの女の口からリーンクラフトの名前が出たことなのか、残像領域にリーンクラフトの生き残りが流れ着いたことなのか、それともベルベットの名前が出たことがなのか、自分がそこまでやらなければいけなかったということについてなのか、どれに当たるのか、どれもそうなのか、考えても答えは出なかった。
何れにせよクラトカヤの言っていたまさにそのパターンを引き当てたことは確かだし、思い返せばイーデン・アスカムという名前には覚えがあった。自分に良くしてくれた人とよく喧嘩をしていた人で、曰くどうにも理想に対して誇りを持ちすぎている人。そう肩を竦めて言われたことがある。幸いにしてニーユは彼女との関わりは薄く、何度か実験台にされたことくらいしかない。それが本当に幸いにしてなのかは、さておき。

「……」

店主が体調を崩したので休業、なんていうのはよくあることだし、この残像領域では、店主が怪我をしたので、とか、店主が死んだので閉店、なんてことはざらにある。
今日の整備予定が軽量機だけだったので、ニーユはウメに全てを任せて自室に引き篭もっている。そのことを彼女に説明して頼むときも、あんまりにも顔色が悪くて、早く休みなよと言われてしまったくらいだ。明日には、と思っているけれど、分からない。ハイドラに乗る前に本調子を取り戻さなければならない。

『ニーユ?元気かしら。ベルベットよ!』
「……ああ、うん、全然元気じゃない。何でしょうか」
『ウメから聞いたのよ!死んだ顔して寝てるって!』
「はあ……」

つけっぱなしにしていたパソコンのスピーカーが喋りだす。もとい、ベルベットの通信を再生している。そちらに頭を向けることもせず、ニーユは喋らせたままにしていた。
よくあることだ。ベルベットはお喋り好きで、壁に向かって話しているだけでも十分だけど、やっぱり人が相手の方がいいわ!とは本人の談だ。

『今日はね、スーがなんだか変なのよ!いつもの格好じゃなくてとても新鮮』
「そう……」
『スーにも言われたの。今回のことはおおよそあんたが悪いからって、なんのことかしら』

心がざわついた。

「……ベルベット。確認したいことがあるのですが」
『何かしら?』

返答次第では、彼女の処遇を考えなければいけないかもしれない問題だった。話して分かるのだろうかというのがまず第一にあり、話ができたところで、ニーユの言い分が通じるのかも分からない。
ニーユは確かにリーンクラフトともう関わりたくないが、ベルベットはそうではないのかもしれない。そうなったら、“リーンクラフトミリアサービスの”主として、然るべき処分が必要になるかもしれない。そう思っている。
これ以上、自分の居場所を荒らされたくないのだ。ニーユは。

「直近で、誰かに――ベルベット・リーンクラフトと、名乗りましたか」
『ええ!名乗ったわよ!イーデン・アスカムって……女かしら?なんか男っぽい名前よね、性格悪そう。名乗ったのよ、救援要請だったからここの座標を送ってあげたの!あたしの名前はリーンクラフトにはよく通るのよ、当たり前ね』

元気な声が再生され続けている。スピーカーの音量をミュートにしてやろうかと思ったが、ベルベットはまだ喋り続けていた。

『でも不思議ね。リーンクラフト、こんなところに来る必要なんてないのに』
「……」
『あの人達は《盃》が欲しくて、あんなことしてたんだから――全部ありかの分かってるものなんだから、こんなところに来る必要ないのよ。ほんとよ。だから変だなあって思っていたけれど、リーンクラフトのみんなは仲間だからね。あたしはお父様からそう聞いていて――』
「ベルベット」

言葉を遮る。今知ってもどうしようもないことは、知らなくてもいい。

「今それらいずれもがどうでもいいことです、……個人的に気になりはしますけど」

今知りたいのは、ひとつだけ。
その答えが得られればそれでよかった、のだが。

「仲間だから。それで、救援要請に応答したんですか」
『そうよ!』
「じゃあもう、もうやめてください。今後リーンクラフトから何が来ようと、呼ばないでください。反応しないでください」
『どうして?別に何も悪いことないでしょう?むしろ人が増えたら嬉しいくらいじゃないのかしら、ミリアムだってそうじゃない!』

あそこが善人だけの集団だとでも信じているのか。そう掴みかかる相手はいない。いるにはいるが、ウォーハイドラの中だ。正確に言うと中でもないし、中に入ったところで掴みかかれやしない。
行き場のないフラストレーションは、そのまま声に出る。

「……悪いことが。悪いことがあるから!!あるからですよ!!私は私の居場所をこれ以上荒らされたくない!!ここはあのリーンクラフトじゃない!!」
『何よ。何よ、変なの。変なニーユ。そういえばイーデン・アスカム、来ないわね、迷ってるのかしら。それとも――』

声を荒げた理由は、なにひとつ伝えてないままだった。
そもそもあの女を殺したということを伝えていいのか、殺してよかったのか(――いいわけがないけれど!)そういうレベルで迷っていて、ベルベットはニーユがどういう状態だとかまるで慮らずに、思ったことを言っているだけだ。
それに気づいてしまって、次に吐き出したのは、この場から逃げ出すための言葉だった。

「もうやめろ」
『何よ』
「もうやめろって言ってるんだ!!それ以上――それ以上話すな!!」

押さえ込んでいたものが弾けると、自分でも歯止めが効かなくなる。そういう理解はあった。理解はあってもそこに至るまではまるで制御ができなくて、今みたいに吠え立て始めてから気づくのだ。どうしようもない。

「お前に通信権限を預けてた俺が全部!!全部悪いんだろ!!そうだよ、全部、全部俺が!!」
『何よ!!何なのよ!!全ッ然わからない!!ふざけたことを言わないで――何の話してるのか全然わからないわ!!なに!?ついに頭がおかしくなったの!?』

きっと、誰に相談しても、その名前をつけたお前が悪いのだと。そう言うに違いなかった。そこまで離れたい場所だったら、その名前をつけなければよかっただけだ。
言い訳をするなら、本当に自分の居場所はそこにしかなく、そこが全てだと思っていた。思っていたから。
もう何の話をしていたかも分からなくなって、叩きつけるように言った。冷静さはとっくに欠いていた。

「もう黙れ!!これ以上お前と話したくない!!」

ついにスピーカーがミュートにされる。何も聞こえてこない静寂の後すぐ、機嫌が悪いのかのしのしと歩き回る音が聞こえてきた。
話していないのは自分だ。話すことを拒んだのも自分だ。まったくもって正気でいられる自信がなくて、怒鳴りつけて何もかもをシャットアウトしたけれど、あの調子じゃどう話したらいいのか分からない。知らぬところに触れるのが怖くて怖くて仕方がない、その一点に尽きる。
そもそもベルベットは、ベルベット・リーンクラフトは、リーンクラフトの何だったのだろう。

「……」

ぐらぐらする。これ以上は考えられなかった。


しゅんしゅん音を立てて霧を吐きながら、そこらをどすどす歩き回る多脚は、実に不機嫌そうだと言うことが分かった。
不幸だと思う。今のニーユは明らかに冷静さを欠いているので、タイミングが悪かったとしか言いようがない。

『そう!もう!あたしなにも教えてもらえないまま一方的にキレられてはいおしまい!!怒らないわけないじゃない!』
「あーはいはいそうだね今日はニーユが悪いね。けどこないだのことはあんたが悪いんだからね」
『だからそのこないだのことって何?あたしがイーふんなんたらって人にここの場所教えたこと?』
「イーデン・アスカムな……あれはあいつだったのが運が悪かったって言うべきな気がするけど。あいつは駄目」

案の定ベルベットはニーユに怒っていたし、事の顛末は全てが筒抜けになった。それはベルベットの唯一の反逆方法だし、本気で彼女が暴れようものなら、この建物ごと塵に還る。そんなことはされないように、あと実際勝手に火器を持ち出して暴れたことがあるので、普段はロックがかかっているのだけれど。その体格で暴れまわるだけで十分なのは、口を閉じておく。

『そんなに』
「立場がいいからか知らねえけどクソデカ態度だったから……」
『嫌いだったひとってこと?』
「誰からも嫌われてたのさ」

研究所当時でも、いい話を聞かなかった女だ。ニーユも運が悪かったと言える。
他の誰か――数人心当たりのある誰かなら、こうはならなかったのではないか。むしろニーユのメンタル面の管理によっぽど貢献してくれたような気もする。
それにしたって、あんなに弱いやつだとはちょっと、思ってなかったけれど。それは戦場に出ているからなのか、それともまた別の何かがあるのか、スーにはさっぱりわからない。

『スーはいろいろ知ってるのね。なんでそんなに詳しいの?』
「あんたと違って俺はねえ、ずっと水槽の中だったとはいえ――人の話を聞く機会は山ほどあったし、その分あいつらに恨みつらみは溜めてるし、まあ、私怨」
『私怨……』

根の深い話だ。スーもニーユも、下手をすればベルベットも、みんな被害者だ。
リーンクラフト研究所は、ろくでもないところだった。それは、胸を張って言える。こんなことで胸を張りたくはないが。

「リーンクラフトなんてなければよかったってずっと思ってるし、そうじゃなきゃこんな風にもされなかったし、今頃家族と平和に暮らしてたんだよ、俺も――ニーユも」

そう語るスーの横顔に、水色の髪がはらりと落ちた。