25-2:紙切れ二枚分の静かな戦場

――たとえば行き先が今流行りのコロッセオの対戦相手の部屋だったら、まず自分の命が狙われる心配をするだろう。ニーユは今のところ何があってもコロッセオには出ないつもりでいるので例えの話だけど、商売敵と言える他のハイドラライダーのプライベートスペースに招かれることの意味、立ち入らせてもらえることの意味については、先日深く考え直す機会があった。
『キャットフィッシュ』のエイビィは、ニーユのことを「面倒じゃなさそうだったから」と評したが、それは彼とそれなりに付き合いがあった上での判断だろうし、時には面倒に振る舞うことの必要さも知っている。整備士の元にやってくるハイドラライダーの全てが、礼儀正しく振る舞えるとは限らないということだ。

「……」

指定された居室までの道程は、そう遠いものではないはずだったが、妙に長く感じた。
はっきり言ってしまえば、ニーユはこういう“交渉事”については苦手だというほかない。親切心は確かに振り切れていて、ライダーたちが取引を求めて集うサーバーにはよくアクセスするし、誰かの必要なものがあるのならすぐに手放してしまうようなこともするけれど。エロ動画を横流したこともあるがそれはそれだ。あれは有用(ハイドラ的に)なパーツなので仕方ない。いや(個人的に)も有用でしたけどそれは今は関係ない。
たどり着いた部屋の番号が間違っていないことを確かめ、軽く握りこぶしを作った左手で、二度ドアを叩く。中から男の声がした。

「はい」
「リーンクラフトミリアサービスの、ニーユ=ニヒト・アルプトラです。取引の件で参りました」

普段の数倍声に力を込めてそう言うと、ドアの向こうから開いてる、入れと声がする。ドアを開けて薄暗い部屋の中に目をやれば、そこには二人の男がいた。

「どうも。取引、感謝する」
「……いえ、こちらこそ。あのようなことを言い出したときにはどうしてやろうかと思いましたけれど」

一人は言ってしまえば、明らかにおかしい人間だった。
黒いゆったりとしたインバネスをまとった男が浮かべている表情は、はっきり言って普段付き合う人間には選びたくない類の顔をしていた。黒いバイザーで顔が覆われてこそいれど、その奥の目が浮かべている、狂気にも似た色は確かにこちらに伝わってくる。そもそも人を招くのによくも、と思わなくもないし、この部屋だって、随分と――言ってしまえば貧乏くさい部屋に、とすら思う。自分は絶対こうはしない。それはまあ、どうでもいい。
もう一人、それと比べると圧倒的に存在感が薄く、ともすればそこにいることも一瞬怪しみたくなる男は、特筆することもない。強いて言えばその顔の生気のなさは、どことなく自分の僚機を思い起こさせた。一緒にするのは双方に失礼だろうと思ったので、その考えはとっとと追いやる。

「リー・インだ。どうぞよろしく、ニーユ=ニヒト・アルプトラ」

そう言って男が差し出してきた手は、ひとのものではなかった。どこか見たことのあるようなその手を、ニーユは利き手と逆の手で取った。

「よろしくお願いします。そちらの方は?」
「あぁ、伝えていた“もう一人”さ」
「……タリスマンとお呼びください」

名乗りに軽く一礼する。それと同時に、少なくともタリスマンと名乗った方には素手で十分勝てるだろうという判断を下して、ニーユはリー・インと名乗った男――これは見るからにおかしい男だと思った方――を見た。
こういう取引の機会でもなければ、まず付き合いの生まれる人間ではないだろうと強く思う。薄く冷えた笑みがどうにも性に合わず、何より体型はニーユの勝ちとは言え、恐らくハイドラの技術を流用しただろう義肢の性能が読めない。取引の場で何故生身の殴り合いの心配を、と思うかもしれないけれど、用心するに超したことはない。

「では、改めて確認させていただけますか」

そうしてニーユがテーブルに置いたのは、天ヶ瀬澪と名前の書かれたマーケットの注文用紙だった。
彼らが求めていたのは、自分たちの代わりにパーツを買ってくれる人だった。この残像領域のマーケットは実にシビアで、毎週の注文用紙は決まって1ライダーにつき3枚しか届けられない。オンラインでの注文でも1人3つまでと厳しく決まっている理由は誰も知らないし、誰もがその枠の中で頭を悩ませる。

「へえ。お前アナログ派なのか、珍しいな」
「そうですね。間違いがあっては大変ですから――望まないパーツが届くのは嫌でしょう?」
「そりゃそうだ。この場じゃ褒められた判断かもな」
「話を戻しますが」

端末を置く。
表示されているパーツの名前とスペックに間違いがないかを確かめてもらうためだ。今日はそのためにここまで出向いてきているし、こういうやり取りは顔を突き合わせてやりたいと希望したのはニーユの方だ。何かあっては困るので。

「術導肢、ブラックマジックIIIで間違いないですね。それが2つ」
「あぁ。俺とこいつでそれぞれ送金する。宛先はお前じゃなくて、僚機のほう……で、合ってるな?」
「はい。今日私が来たのは、彼女の分もまとめて発注をかけているからというのがひとつ」

もう一つはもちろん決まっている。

「もうひとつは、こんなろくでなしのいるところには、とてもじゃないけれど向かわせられないので」
「なかなか言ってくれるじゃないか。だが、確かにそうかもな!」
「一般的に考えて、成人男性のいるところに未成年を一人で向かわせますか?」

深い霧の中を探るような言葉のやり取りだったし、ニーユは火力高めの言葉を投げることに躊躇いがなかった。今ここで有意なのは自分の方であり、この紙切れを破り捨てて帰ることだって選択肢として取れる。他人の注文用紙を求めてまで欲しいパーツがあるというのなら、そう下手なことは打ってこないだろう。

「ごもっともだな。送金は明日中には行うよ」
「はい。お二方ともそのようにお願いしますね」
「……分かりました」

目の前で確認を取りながら、用紙に記入する。
しつこいくらいに何度も、一語一句確かめさせて――何かあっては困るから。それは互いに分かっているだろう。

「では、パーツが届いたらそちらに発送するようにしますので、よろしくお願いします」
「OK。俺達は幸運だった……なあ、タリスマン?パーツを手に入れられるだけじゃない、“いい整備士”との顔合わせもできたんだからな」
「お褒めに預かり恐縮です」

知られている覚悟はできていた。そうなると提示できる手段がひとつ増える。
荷物は彼らに届くより先に、リーンクラフトミリアサービスに届くのだ。輸送段階で破損がないか確認するのも、必然的にニーユだ。

「ついでに言っておきますけれど、“何かあったら”私はあなた達に届けるパーツに細工をするのも容易い。ないとは思いますけれど、代金の未着など、ないように」
「まさか。さすがにそんなことをやらかした日には、ライセンスが吹き飛ばされそうだぜ」
「私が貴方を吹き飛ばすのと、どちらが早いか賭けますか?」
「その賭けは成立しないさ」

最終的な確認も終わる。どこにも間違いはない。修正用に持ってきた赤ペンの出番がないことに安堵しながら、ニーユは立ち上がった。

「では、送り先に変更等ありましたら、連絡をください。よろしくお願いします」
「分かった。助かったよ、ニーユ」
「いえ。では、失礼します」

丁寧に一礼する。
どこまでもその目つきは鋭く保ったまま、部屋を出てドアを多少乱暴に閉めた。数歩歩いて後ろを振り向き、特に見られていないことも確認して、――脱力する。

「あああ〜〜〜〜〜ああー……終わった……」

必要なものだったとはいえ、こう強気に振る舞うのは、まるっきり得意じゃない。もっと穏やかに過ごしたいというか、できたら誰とも争いたくない!
分かっているけれど。そんなもの、この残像領域においては、あまりにも無理な注文だ。整備屋として散々誰かと争ってきているし、もう結構遅い。

「……甘いもん買って帰ろ……」

でもとにかく疲れた。疲れたもんは疲れた。
時計を見る。まだマーケットは開いている時間だった。頼まれたものの実物を確認する時間も取れそうで、安堵のため息を零しながら、ニーユはぺたぺたと歩いていった。