29.5:ハグと操縦棺とチーズ料理

残念ながらノーとは言えないけれども、とか言い放たれて、初めから逃げ道は塞がれていた。あとは一方的だ。一方的に見せられ、語られ、泣かれた。
何もかもが理解の範疇を超えていた。
まずニーユは、母親というものの概念への理解がひどく乏しい。自分が誰かから生まれてきたことこそ理解していれど、それ以上のものを持っていない。母親。家族。娘。――ありとあらゆる知らない概念。
何故少女が少女の写真を指してそういうのかとか、そんなことも考えられないくらいには混乱した。そして彼をさらに混乱させた決定的な一言がある。

『そんなに責めないで。娘の――が赦しますから。』

わからない。わからない。何故そんなことを?そんなことを何故言いに来た?
俺が何をした?死んだ人間に赦されなければならないことはともかく(――けれど出荷した耐電棺『モネマ』のどれも、最終チェックは通ったものだ!)何故無関係に見える少女がそんなことを言いに来るのか?

『――分からない。分かりません。私、あなたの言っていることが、さっぱり分かりませんけど』

だから突き放した。できればもう来るなと願いながら突き放した。残りの戦場で同じブロックに配置されないことを祈りながら。
――あんなことを言うやつは守りたくはない。惨たらしく死んでくれればいい。そうとすら思った。羨ましい。憎たらしい。それが何に対してなのか、全然わからない。

『気が済んだなら今すぐ……今すぐここから帰ってください――帰れ!!帰れ今すぐにだ!!』

いっそ、いっそ罵ってくれればと思った。
私は自分の操縦棺で死んだライダーの関係者である。あの人を返せ、くらいに、罵ってくれれば。意味もないような罵声を投げてくれれば。その方がずっと良かった。
かろうじて“身内が死ぬと泣く”という理解はある。そういう人は何人も見たからだ。ここでも、ここに来る前でも。なんでわざわざ、自分のところまで来て泣きに来たのか。挙句自分が赦すなどと言ったのか。もう何もわからない。わからない、ということしかわからなくて、気が狂うかと思った。
そんなニーユを、霧を吐き出しながら、ベルベット・ミリアピードが“見つめていた”。


整備士というものは、基本的に忙しい。仕事があればその分だけ、それに加えて自分の工場所属の機体のメンテナンス。とはいえ久々に動かしたスイートチャリオットは、同じ戦場にいたニーユの働きもあって、傷らしい傷はついていない。振り回した武器の弾薬費くらいだ。
少し電撃に焼けた装甲を補修すればそれで済む。明日に響くことでもなし、チカは夜中にガレージにいた。すぐ終わる作業だったし、実際もうすぐに終わろうとしている。手を止めて機材を片付ければ完全に終わり、というところで、人の気配がする。それも、外から。

「……ニーユさん?」

直感で呼んだ名前は正しかったらしい。顔を上げた男は、すっかり憔悴しきった顔をしていた。何かあったことは嫌でも見て分かるし、それが理由でここにこんな夜中に来たのだろうとも分かる。ニーユが絞り出すような声で言う。

「……こんな時間、に、ごめん」
「……起きてましたから別に。外じゃなんですから、中に入ってください」
「うん……」

彼はこの工場に来るとき、ひどく子供っぽくなることがある。彼の過去に何があったかは詳しくは知らないが、何かあったことだけは知っている。そのせいなのか、それともタカムラ整備工場で彼が過ごしていた時、すっかり自分が姉のように振る舞っていたからなのか、それはチカの知るところではない。助けを求めに来られるのは悪い気はしないが、それはそれとして彼に言いたいことは山ほどあった。あんなことを言う男だとは思っていなかったし、あんなことを言う整備士だとも思っていなかったのだ。自分が彼を買いかぶりすぎていただけかもしれないし、彼が自分に自信がなさすぎるだけかもしれない。両方かもわからない。
何にしても、突き返す気分でも、状態でもなかった。ホットミルクを準備しながら、思う。あんな顔をして来る人を、自分の怒りで突き返すほど、失望してはいない。まだ。

「どうしたんですか。そんな死んだ魚みたいな顔をして」
「いや、……いや、なんか、何だ……誰かに会って安心したかったんだと思う……」
「は?」
「真っ先に思いついたのがここだったの!んななんか……いや、夜中に来たのは悪いと思ってるけど……」

とりあえず落ち着いたらどうですか、と差し出したホットミルクのマグカップを、ニーユは机に突っ伏しながら受け取った。行儀が悪い。けど、そうやって顔の近くにコップを持ってきてちびちび啜る飲み方は、昔何度も見た。眠れなくて、と言って部屋から出てきていたときはいつもそうしていたからだ。

「それで結局、何かあったんですか」
「……こないださあ。俺の操縦棺で、人が死んだって話、したじゃん」
「はい」

またその話か、と思う気持ちと、彼の口からその言葉が出てきたことに安堵する気持ちがあった。
続きを促す。よほど嫌だったのか、随分と間があった。

「その、死んだ人の関係者が、俺んとこに来て」
「……はあ……」

ありえない話ではない。ひとを喪った悲しみの矛先をどこに向けていいのか分からなくて、身内以外に向けようとする人はいくらでもいる。
その矛先になりやすいのはパーツ売りだし、――整備屋はとくにそうだ。

「それで、……ちょっとごめん、あんまりこの辺、思い出したくないんだけど、なんか……俺には、分からなかったんだ」
「押しかけてきたことがですか」
「それはまだ分かる。俺がその人を殺したと思ってても、過言じゃない。戦場も一緒だったから……俺がもっとキャリアーの攻撃を引き付けられていたら、とか、いろいろある。けど」

自分の戦場で、自分の操縦棺を使っていた人が死んだことには、整理がついている。ニーユはそう言い切った。
なら何がわからないのだと思って聞いてみれば、妙なことを言い出す。

「俺がその人になぜか赦された」

関係者が罵倒するならともかく。赦されたことだけがただただ分からなかった、と。
何と返したらいいものかとチカが首を捻っているうち、ニーユの話はどんどん先へ進んでいった。

「……あと、あとさあ。親の手料理って、食べたくなるものなのか」
「へ?」
「親の手料理」

茶化すような聞き方ではない。それは顔を見ればすぐ分かったけれど、あまりにも突拍子無い質問に、チカは戸惑いを隠せない。
そもそも何故そんなことを聞くのだと思ってから、――彼の過ごしてきた環境に思い至る。知らないはずだ。

「そりゃあ、まあ……なんですか急に」
「言われたんだ。母さんのチーズ料理を食べたかった、って……」

親が作ると変わるものなのか?なんて、大真面目な顔で聞いてくるのだ。それこそこちらがなんて返したらいいか分からなくなる。

「俺は……俺は、考えた。考えたけど、分からなかった。どうしても分からなかった」
「それでここに?」
「誰かに聞いてほしくて……操縦棺のときもそうだった。一番最初に会ったのがチカだったから……ああ言ったけど、……あんときはごめん」

誰かに聞いてほしくて、という言葉に、何も嘘はないのだろう。こちらの返事を待たずに、ニーユはどんどん言葉を紡いでいく。言わせたいだけ言わせておこうという気になって、チカはホットミルクを啜った。それから、返事を返す。

「……いえ、私も大分感情的になってました。ただ、気持ちとしては今も変わりませんけど」
「俺、そのことも考えた。けど、ライダーに失礼だっていうのだけは、どうしても分からなかった。なんでそう言うのか」

――誰にも死んでほしくない。誰にも死んでほしくないから、操縦棺を作る。誰にも死んでほしくないから操縦棺を世に送り出すけれど、それで全てを守りきれないのなんて、当たり前。
全てを抱え込もうとするな、と言ったスーの言葉も、今なら分かる。どうやったって救えない命は存在する。自分の見えない範囲で人が死んでいる。偶然見える範囲で、知らない人が一人死んだだけで、それが偶然自分の操縦棺を選んでいただけ。自分だけが悪いわけではない。責任は自分だけに存在するわけではない。

「……けど、俺は、これからも操縦棺は、作る。俺の腕を頼りにしてくれる人がいるなら、作る。――絶対、俺の操縦棺を……棺にさせないつもりで」

この領域に、世界に、“絶対”なんて保証はない。死ぬときは死ぬ。

「……けど、人は死ぬんだもんな。簡単に」
「……そう、こんな世界ですから。昨日話してた人が死んでしまうことなんて、よくある事なんです」

誰もが生きるためにパーツを選び、戦場へ向かう。データとにらめっこし、時には現物を見て、ものを揃える。戦うために。生き抜くために。
――それでも死ぬ。死ぬときは本当にあっけなく。

「そうやって、全力で生きてきた人達の最期の場所になることを否定するのは、貴方の操縦棺を選んだ人たちを否定してると思うんです。最期の場所になることは、我々の誇りであり、苦しみでもあります。ですが、私はそれを受け入れるべきだと。飲み込んで、それでまた前に進むべきだと」

伏せられていた顔が起こされる。

「……ニーユさんもライダーになってからもう半年くらいになりますよね。自分でアセンブル考える時を思い出して下さいよ」
「……ん……」
「ニーユさんが誰にも死んで欲しくないように、ライダーだって、誰もが操縦棺を死に場所になんてしたくないです」

静かな頷き。よほど死にたい人間でなければ、そうは思わないだろうと。
誰もがそうではない――操縦棺の中の水の音に身を任せて、そのまま戻ってこなくなるなんてことがないことを、ようやく認識できて、共有できて、ニーユはひどく安堵する。

「……たまに、例外もいますが」
「あはは……、……例外さん、今、どうしてんだろうな」

無論、それこそが全てであり、戦場で死ぬことを良しとするライダーもいる。
それは考えの違いでしか無い。そう割り切ってしまうほうが、自分にずっとダメージが入らない。何にせようまく立ち回る必要があって、こんなこと――で片付けていいことではないが、うまい付き合い方を見つけていかなければならない課題だ。ハイドラに寄り添っている限りで永遠の。

「……ごめんなチカ、こんなんでさ。それも夜中にさ、気が滅入るだろ……」
「……私の方こそ話が長くなりました。ニーユさんこそ、大分堪えてるでしょうに」

もっとしっかりしなきゃいけないのに、とは、思う。
ある日突然ぽっきり折れてしまうようなことだけは避けたくて、羽の伸ばし方を模索し続けている。止まり木の上に乗ることすら下手くそだ。そういう自覚は、ある。

「バルトさん、早く見つかるといいな」
「ええ、あの人が、こんな事でとは思いますけど流石に……心配です」

楽観視している。楽観視しているとはいえ、もう一週間以上になる。
あのひとは何か動物を見つけたら生でもまるかじりしそうな気はするし、その辺の草だってかじりそうだし、どういうイメージを持っているんだ、と言われたら、“ただでは死にそうにない”に尽きる。
ニーユは当事者ではないから、そうやってできるだけ心配しないようにしているけれど、もしそういうことに巻き込まれていたらきっと気が狂っていたと思う。自分は弱い。
弱いなら弱いなりにで、うまく前を向く方法を考えていかなければならない。それだけのことである。それだけのことに気づくのに、随分時間がかかった。

「――見つかったら、さあ、俺の奢りでいいから、なんか食いに行こうよ、美味しいもの」
「いいですね。是非。なんなら、ニーユさんのご飯でもいいですよ」

目を伏せてそんなことを言うチカの横顔は、今まで見たことのない顔をしていた。
あの無愛想の塊みたいなひとが。こんな顔を。

「……ニーユさんのご飯も、時々無性に食べたくなる時、ありますから」
「エッ。……いや、それでもいいけど、……なんか恥ずかしい」
「なんでですか。人がせっかく提案しているのに」

恥ずかしいという言葉が、どこに掛かったかすらわからなくなる。
身を起こして噛み殺すような欠伸をしたニーユを見て、チカは言う。

「休んでから、帰りません?酷い顔してますよ」
「……ん。じゃあそうする。ありがとう」
「ニーユさんの部屋、空いてますから。今は客間ですけど」
「分かった。明日朝イチで整備の予約入ってるから、朝飯とかはいいよ。間に合うように帰る」

おやすみなさい、という声に、同じように返す。
かつて毎日寝泊まりしていた部屋は、客間になったと言う割に、あまり記憶と変わっていなかった。