32-2:限界の先へ向かうためのしるべ

聞き慣れたエンジンの音がした。確かに地を踏みしめる大百足の足音がした。
今日来るとは言っていない。きっと、何か言ってやろうかと思いながらガレージの外に出てきたチカは、何かが違うということに気づいただろう。整備屋だからだ。そうでなければ分からないところに、何度も苦心して調整を重ねたのだ。
目の前にいるベルベット・ミリアピードは、今までチカが見てきたものではない。より具体的に言うのなら、彼女とリタがスイートチャリオットで戦場に出た時に参考にしていたそれではない。

「……何ですか一体」

頭の高さを保ったまま、ハッチを開けた。滑るようにスムーズに出てきて、そのまま数メートルの高さを飛び降りる。着地の音は体重に比例して重い。
いつも何がどうあっても、そんなことはして来なかった。かっこつけか何かとでも思われていてもいい。そう思った。
根拠のない自信が、全身に満ち溢れている。今まで世界の流れに乗るようにして毎日を過ごし、住んでいた場所を逃げ出さざるを得なくなり、流れのままに戦いの場に身を置くことになってしまった。自分の選択が本当に正しかったのか、ずっと悩み続けていた。あの場で殺されていれば、あの時差し伸べられた手を払っていたら、そんなたらればのことばかりを考えていても、どうにもならない。
そう、ふと思ったのだ。そしてそれを、告げなければならない人間がいるとも、同時に思ったのだ。

「かっこつけですか」
「まさか。……いや、そうかも。アポ無しで押しかけてごめん」

今すぐに。
自分が取り返しがつかなくなる前に。
まだ真っ当な心を保っているうちに。

「言いたいことがあるんだ」

――次こそ死ぬかもしれないと思っている。
ハイドラ大隊の戦場マッチングシステムは、時に作為的で無慈悲であるとすら感じる。味方の人数の少ない戦場。影の禁忌が先に狙うだろうライダーの数。もう誰が死んでもおかしくないだろう、と、すっと背筋が凍った。普段のあり方では確実に、守りきれない。
であればどうするかと言われれば、だ。

「……わざわざ、ハイドラまで見せて、どうしたんですか?それほどまでして、伝えなければいけない事ですか?」
「俺はそう思ってる。そう思ってるし、それが礼儀だと思った。チカ」
「……はい」

今までいろいろと心配をかけてきたし、迷惑もかけてきたし、この期に及んで、と思わなくもない。
一方的に押し付けるエゴの塊のような、そう思われてもおかしくはない。認められなかったらそのときはそのときで、自分は所詮その程度だったということになる。
背中を追いかけた先輩への、または同じ職業の人間としての、――あるいは、一人の人間として、確かな自分の意志で決めた言葉。
ベルベット・ミリアピードを走らせながら、何度も考えた。完全な思いつきの行動でしかないけれど、そうしなければならないと思ったのだ。理由はわからない。

「俺は自分の意志でそうする。自分で決めてそうする。今まで決めてきたことも、つくってきたものも、すべて」

今、自分はどんな顔をしているのだろう?
来るまでに思い描いていた顔はできているだろうか?泣きそうになってはいないだろうか?

「俺が俺であり続けるために、俺の在り方を認めるんだ……逃げ出さざるを得なくなっても。見知らぬところに放り出されても。俺が自分を決めるんだ――限界のその先へ向かうのも!」

それでもだ。どんな顔をしていてもだ。
世界は進むし、流れていくし、変わり行くのだ。いつまでも同じところで立ち止まってはいられないし、変わる世界についていけなければ、いずれ無惨に死ぬだけだと思っている。
――そのために。そのために、わざわざベルベット・ミリアピードを連れてきたのだ。

「けど、けどさ。一人で決めても、誰にも言わなきゃいつだって撤回できるから……だから、チカに言いに来たんだ!」
「……」

我ながらひどい男だと思う。一番最初に思いついたから、そんな理由で彼女を巻きこむのだ。けれども他に適任がいるわけでもない。僚機にそんな重荷は背負わせたくなかったし(――きっと彼女は、探し人が見つかったらここを離れていくのだから)、他に思いつくような人もいない。
具体的に言うと、信頼できて、自分のことをよく知っている人間が、他にいないのだ。だから、だから選んだのだけど、彼女はどう思っているのだろう。
言いたいことは言い切って、チカの方を見た。彼女は何も言わなかった。言ってくれなかった。

「……。……え、チカ、怒ってる?」
「怒ってないです。怒ってないですけど、なんで、私なんですか」
「なんか、勝手に巻き込んだみたいだけど……俺はチカが一番いいと思ったんだ、……きっと、分かってくれるだろうって思ってさ」

分かってくれる。それか、分かって欲しい。どっちだろう、もうそれも分からない。
誰でも良かったというのは正しくて、誰でも良かったというのは嘘にもなる。
聞いてくれるひと。理解してくれるひと。その上で背中を押してくれるひと。そうやって人を絞っていくと、そもそも一人しか残らない。残らなかったのだ。

「……わかります。わかりますよ、貴方が色々考えて出した結論だって事くらいは」
「……よかった」

認められたい。認められている。認められるために生きている。誰も認めてくれないようなところから這い出してきて、この世界で成長しただろう自分を認めてくれるひとがいる。それだけで喜ばしかった。
ふと思い出したように言う。自分の気が狂う前に、改めて約束しておきたいと思った。

「この間約束しただろ、美味いもの食いに行こうって……美味しいケーキの店、見つけたんだ。なんかもう、お出かけしようなんて悠長に言ってられる状況でもないけど……落ち着いたら行こう、二人で。その時は迎えに来るから」
「……っ、ケーキ、ですか?」
「嫌いだったっけ?」
「そういうことじゃなくて!」

何で慌てられているんだろう。予定に余裕でもないんだろうか。
それは後で確認すればいい。実は今、あんまりこちらの予定に余裕がない。ゼービシェフの整備をほっぽり出してここまで来てしまっているのだ。
慌てて口を開いたら、彼女の言葉を何か遮ってしまったような気がした。

「悪いな、邪魔して。俺まだミオの機体の整備終わってないんだ」
「そこまでしなくてもよかったのに……」
「俺がしたかったからいいんだよ」

ベルベットに頭を下げさせる時間も惜しかった。歩脚に足をかけて登っていきながら、ふと振り返る。

「あのときさ。話聞いてくれて、ありがとうな」
「……いえ、べつに」

相変わらずだ。チカはいつだって変わらないのだ。
自分にはない安定性を羨ましくも思っていた。二度装甲を叩くと、その部分が持ち上がる。手で持ち上げて入り口を確保し、乗り込もうとしたそのときだった。

「……、ニーユさん!」

呼び止められる。

「あの、今度話があります!ニーユさんの覚悟に比べたら、私のなんて、大したことないかもしれないけど、貴方に、言いたいことが!」

返事を言葉で返そうと思ったが、何も思いつかなかった。そもそも言いたいことってなんだろう。またこの間みたいに怒られるのか?
それでも頷く以外の択はなく、そして時間もない。乗り込むと同時にHCSが素早く起動し、力強いエンジン音が大地を震わせる。

「……なんだろう、言いたいことって」
『あなたバカじゃないの?呆れるわ』
「何で!?」

急ぎ足の重い足音に混じって、呆れたような声がした。
ベルベットにどうして呆れられているのか、ニーユには全くわからなかった。