33:輪廻再生にさようなら

名前を変えろ、と言われてきた意味が、ようやく分かった。ろくでもないところにいたのだ。ろくでもないところしか分からなかったのだ。正しく庇護され育てられたと思い続けてきたが、それにはあまりにも無理があった。
リーンクラフト研究所はろくでなしの集団だ。少なくともニーユから見て、そうと断言できる。そう言うべき結論が集まって、人に背中を押してもらえて、ようやく。ようやく、――そうできる。
前に進むための第一歩として、ようやく一枚皮を脱ぐことができたのだ。脱ぎ始めた、という方がより正しいだろう。

「姉さん」

まず一番最初にやったのは、長らく対応を決め兼ねていた“姉を名乗る男”についてのことだった。ミリアム・スノトライエと名乗った男。

「にっ え、えっ?」
「姉さん。話があります」
「あっ、あ、はい!はいわかりました!えっ何ですか?何でしょう!?」
「落ち着いてもらえませんか……」

どうもこうも、突然姉呼ばわりされたら落ち着いてはいられまい。曰くで何年も自分を探し続けてきたらしいのだから。散々腫れ物のように扱い、他人行儀で接してきておいて、いきなり手のひらを返したのだ。
――それでもミリアムは、嬉しそうな顔をしていた。

「落ち着いてます!大丈夫です!」
「全然大丈夫に見えないんですけど!」
「はい!!」

どうにもならなさそうだ。

「……いえ、あの。何と言いますか、こんなことを言うのもどうなんだって思うんですけど」
「はい……」
「あなたは確かに、私の姉だと。そう言わざるを得ないと、そういう結論を出しました」

男の顔が歪んだ。くしゃくしゃの笑みを浮かべて、ニーユの両手を取る。一体全体どうしてこんな格好で、とは思うけれど、その手は確かに温かい。

「ニヒト。ありがとうございます……私は正直、もうその言葉だけで十分なくらい」
「まだ話終わってませんから。終わってませんからね」

今にも崩れ落ちそうな背を支え、強い言葉で言い聞かせた。ミリアムは慌てて背筋を伸ばす。
男性にしては線が細く、動きが女性的なのはまあ……中身が女性なので仕方ないだろう。それにしても何故見ず知らずの男の格好を、というところが、ニーユの姉に対する大きな疑問だった。聞く勇気が今まで持てなかっただけの。

「う、はい」
「……あの、差し支えなかったらでいいんですけど。どうしてそんな格好なのか、教えていただけませんか」

僅かな頷き。
それから間髪入れずに、ミリアムは話し始める。

「ええと、私を助けてくださった……魔術師?呪術師?の方が、いまして」

彼女が言うにはこうだ。
村が焼き払われて、当て所なく彷徨っていた彼女を拾った人間がいたのだという。その人間に育てられて、そしてしばらく経った頃に言ったのだ。『弟を探しに行きたい』と。
無論だが、幼い子供の言うことは、聞き入れてもらえなかった。その代わりに少しずつミリアに魔術の心得を教え、十三歳になったときに言われたのだという。

『女の身体では不都合がある。俺の身体を貸してやるからそれで行け』

――理に適っていると言えば適っている。けれども理解は遥かに超越している。
姉も姉だ。よくそんなわけのわからない条件を飲んでここまで、と思う。

「……そんな、感じで……その方の姓が、スノトライエと。なので私もその名前をお借りしていました」
「は、はあ……」

不思議なんですけどね、この名前を名乗ると人がざっと後ろに引くんですよね、などと呑気な顔で言う姉を見ていると、その男の判断はめちゃくちゃ正しいように思えてきた。危機感がまるで足りていない。いくら男の姿とはいえ、よくもまあここまで無事に旅を続けてこれたものだ。
そもそも姓を名乗るだけで相手に威圧感を与えられる相手とは、一体どういうことなのだろうか。姉も相当ヤバい人間に捕まったのでは?と、急に不安になった。

「……あの」
「はい?」
「それ、本当に大丈夫だったんですか?具体的に言うと元の姿に戻れるんですか?」
「ええ、たぶん!」
「多分」
「たぶん……」

そこを指摘されてしおらしくならないで欲しかった。現実は非情というか、正直な話、予想できていた。悲しい。
というか姉がここまで抜けていた人間だと正直な話思っていなくて、そこがこう、なんというか。思わず自分の今までを思い返してみたりなどしている。
きっと自分はそんなこと……いや結構ある。あったわ。この話おしまい。

「はあ……」
「で、ですけどねニヒト。私は後悔していませんから!」

力強く言う。

「私はあなたに会えただけで、十分なくらいです。……って、前も言いましたと思いますけど……ほんとうにそれだけで十分すぎるくらい」

気は狂わなかったのだろうか。
僅かな手がかりしかない中、先に進み続けることなんて、とてもじゃないが――自分にはできない。
目の前にいる人間は、本当に自分と血を分けた(見た目はともかく)相手なのだろうか。かつて同じ屋根の下にいたのだろうか。

「みんないなくなってしまいました。いなくなってしまいましたけど、あなたの……あなたは、生きていると信じて……信じてきたのです」

そうとは思えないくらい、一つ一つの言葉が眩しい。
実際一緒にいた記憶なんてまるでないし、存在すら忘れていたのに。

「それが間違っていなくて、叶っただけで、もう私のことなんて、どうでもよくなるくらい、嬉しくありませんか?」
「……私にはちょっと分かりかねます……」
「そ、そうですか……」

困ったような笑みが、やたらに突き刺さってくるように感じた。
別に自分が悪いわけではない。けれどただ、なにか悪いことをしているような気持ちになる。自分ごときに、人生を賭けるようなことをさせてよかったのだろうか。でもそれは、自分のせいで引き起こされたことではない。
――自分じゃなくて姉が手を引かれていた可能性もあるのだ。そうだとしたら自分は、こんな風にできただろうか。

「あ、あのですね、あともうひとつ……これは、お願いなんですけど」
「はい?何でしょう」

ついぞ姿勢を正したニーユだったが、次の瞬間それを後悔することになった。

「一度でいいので……あの……お姉ちゃんって呼んでもらえませんか!!」
「……えっ、はあ!?」
「いやわかってるんですあのすごい見た目的に抵抗があるのはわかってるんですけど……あとお互いそんな年じゃないのもわかってるんですけど……」
「あの、ちょっと、姉さんまず声が!声がでかいです声が!!」

人払いは済ませてあるけど。それでももしやと思うとぞっとする。何故こうも自分の周辺には、説明が面倒な人が多いんだ!

「……お姉ちゃんって……呼んでもらえませんか……」
「わかっ、わ、わかりましたよ、そのくらい……けど普段は呼ばないですからね絶対!絶対に!」
「も、もちろん!もちろんそれでいいです!私だってなんか変な誤解が貴方につくのは望んでいません!」

深呼吸。押し殺したような重低音。

「……お、お姉ちゃん」
「……もうちょっとこう、かわいく」
「嫌です!!」

廊下で一連のやりとりを聞いていたスーが耐えきれずに笑い始めるまで、もう数秒もない。