34-2:ほんの少しだけ背伸びをする

結局、新しく服は買えなかった。ミオと一緒にショッピングモールに行ったときの服のタグをようやく取り外して、念のため(一度も着ていないのに)洗濯して、アイロンをかけた程度だ。
改めて自分とにらめっこしてみると、そう普段と変わらない気がした。いつも通りのニーユ=ニヒト・アルプトラがそこにいる。

「……」

なんとなく背筋を伸ばしてみる。別に何も変わらなかった。

ベルベット・ミリアピードの他に、もっぱら運搬用として使っている軽車輪のハイドラがあるといえばあるのだが、それで迎えに行っていいものかは心底悩んだ。が、ベルベット・ミリアピードの操縦棺は完全にニーユ一人に合わせてチューンナップされているし、誰かを乗せるとなるとそれしかない。まさかそのためだけに新しく脚を買うのも作るのも暇がないしというところだ。今日だってなんとかねじ開けた休暇だ。午後からだけど。
……と、言うわけでだ。

「待った?」
「いえ、そんなに……なんか、イメージ変わりますね」
「そう?」

ガレージの隅でホコリを被っていた大型バイクで乗り付けたニーユを出迎えたのは、いつもの作業着……ではないチカだった。
……なんだか見られている気がする。いま目の前にいるのは確かにチカだけだが、視線を感じる。

「……なんかさあ、見られてない?」
「この間のあれ、父さん見てたみたいで」
「……ッはあー!?」
「おかげで、今日の事、筒抜けですよ。ええ、みんなに」
「……し、死にてえ……変にカッコつけるんじゃなかった……っていうかあのクソ親父……」

苦笑いする声がした。それはそれとして、お世話になりまくったとは言え、このタカムラ整備工場のクソ親父という気持ちがそこら中から湧いて出てくる。未だに見た目が怖くて苦手なのは内緒。
やり場のない怒りというかなんというかが、こつこつとヘルメットを叩かせる。

「そういやなんか。……なんだろう、作業着じゃないチカって新鮮だな」
「……そういう人ですよね、貴方は」
「へ?何?」
「いえ、お気になさらず……想定内ですから」

別に嘘はついていないのになあ、と思いながら、ヘルメットを取りに行く姿を見送る。
いつもと何も変わらないつもりの、いつも通りの……いつも通りの自分たちでいるつもりなのに、なんとなく落ち着かなかった。

バイクを走らせること十数分、街外れのいかにもな雰囲気の店に連れ込まれたときには、さすがのチカも面食らった。
ニーユはニーユで何も気にせずずかずか入っていくし。しかも予約済ませていたらしいし。

「……どうしようかな」

いざショーケースに並ぶケーキを見ると、何も決まらないし。その後ろで全く迷いなくケーキの名前をすらすらと、しかも複数告げているやつもいるし。

「……別に一つじゃなくても?俺何個か食べるつもりだし」
「あまり普段、食べないので……糖分とるならもっと手っ取り早いのもありますし」
「ん、そう」

そう言いながらさらに一つ足してるし。

「この、チョコレートのやつにします」
「分かった。席で待っててくれ」

もしかしたら来たことのある店なのかもしれない。自分と無縁なだけで、彼は誰かと来たことがあるのかもしれない。
そんな考えを振り払いながら、予約席の札が置かれたテーブルに向かう。
後ろから追いついてきたニーユの手のトレイの上には、いくつもケーキが並んでいた。

「……よく食べますね」
「ああ、うん、俺結構甘いもの食べるよ、エネルギー補給っつーか……」

チカがケーキの端を少しかじっている間に、ニーユのケーキの半分ほどがなくなっていくのだ。もう少し味わって食べるとかそういう気持ちはないのか、と思ったけれど、言わないことにする。無粋だからだ。
どうでもいい話をした。どうでもよくない話もした。ニーユがタカムラ整備工場にいたときは、ほとんどの情報を共有していたけれど、今はそうではないからだ。
彼は楽しそうに話をしていた。緩みきった顔が、今日は完全にオフの日だということを証明していた。リーンクラフトミリアサービスのニーユ=ニヒト・アルプトラではなく、一人の男としてのニーユ=ニヒト・アルプトラが存在している。
その理解を得たとき、ようやく。ようやく覚悟が決まったのだ

「……笑わないでくださいよ?」
「えっ?ああ、うん」

チカの分のケーキは、まだ半分ほど残っていた。ニーユがよく話すからだ。それをずっと聞いていたからだ。話しながら食べていたってなんら問題はなかったけど、何となくそうしなかった。

「その、未だにはっきりしません。自分の感情なのに……この感情の形がわからないんです」
「感情……」
「ニーユさんが、私の所に言いに来てくれたのは正直嬉しかった。ニーユさんの中で少しでも私は特別になれてるのではないかなんて、考えてしまった」
「……うーん。うんと、あのさ、チカ。俺も、何も分からない。分からないんだ」

目の前の男は、フォークを動かす手を休める気配がまるでない。
けれど、チョコレートケーキを口に運んでから、へらっと笑って言うのだ。

「けど、チカと一緒にいると落ち着けるのは、ほんと」
「クリームついてますよ、顔に……口元」
「マジか。ありがと」

指先で拭われたクリームが、そのまま口の中に消えた。

「……私はこの、抱えてるものが"好き"なのかどうかはわかりません。ですが、貴方が店を出ると言ったときは寂しかった。その頃から、貴方は私の中で"特別"で、それは今もかわりません」
「す」

ごく自然な流れだったように思う。別に、タイミングを測ったわけではない。
けれどもニーユがフォークを取り落としかけて、甲高い音が聞こえた。気にならなかった。

「……言いたかっただけなので、返事はいいです。こんなことで、貴方を迷わせたくも困らせたくもない」
「えっ、でも、いや」
「……でも、言わずにいられなかった。どのような形でも、私も一歩踏み出したかった」

無言の間。
まじまじと見つめ合ってしまっていたのも束の間で、先についと視線を逸したのはチカだった。

「そういうことです」
「そ、そういうことですか」
「はい」

そういうこと。そういうことってなんだろう?
この世界に来てから、知らない概念に触れる機会が多すぎる!そもそも好きってどういうことだ?好意?好意とはいったい……

「……ケーキおいしい……」
「……ニーユさん、そんなに甘いもの好きでしたっけ?」
「えっいや。甘いものっていうか、何だろうな……単純に結構食べないとやってけないってだけで、それでおやつの選択肢が、こう、必然的に甘いものに……」

自分の頭がオーバーヒートしそうだった。誤魔化すように口に運んだケーキが、どの種類だかさっぱり分からない。
何も分からないまま、ケーキと一緒に言われた言葉を噛み砕いても、やっぱり分からないのだ。帰るときまで、タカムラ整備工場にチカを送り届けても、ミリアサービスに辿り着いても、なにも。何もわからないままだった。

「……」

好き、って何だろう。
純粋な好奇心が質問意欲を掻き立てるが、もう一方に何故かそれを止めようとする自分もいるのだ。