35-2:澪標

――願わくば、あの時彼女ではなくて、自分が狙われていればよかったと、何度でも思う。
そのくらい過酷な戦場だった。霧の中から飛び出してくる『影の禁忌』、戦場に響く鋼同士が打ち合う音、そこら中に漂う火薬の臭い、飛び交う霊障、あまりにも過激で過酷で、心落ち着けないばかりの場所。
それはずっと戦い続けて打ち払い続けなければならないもので、ただひたすらに俺たちを包んでくる。遠い昔からずっとつきまとってくる過酷さと、冷たさは、永久に続くのではないかと錯覚させた。

目を閉じる。

どこまでも冷たい霧の世界。今まで何度も見てきた無骨な棺の鋼が、ようやく終わりを告げる。ゆっくりと操縦棺にかけた手はピクリとも動かせなくて、ただひたすら腕が重い。その中に何が入っているのか分かりきっているのに、底知れぬ闇をこれから覗くようで、ただただ気持ちが沈んで行った。
思えば、影の禁忌が彼女に手を伸ばしたのも、そういう定めだったのかもしれないと、――思いたくはない。しかし、霧は等しく平等であり、等しく戦果を与え、そして等しく傷つける。戦場で生き残れるかどうかなんて、一言で言ってしまえば運だろうから。一度灼かれた右腕。装甲を抜いた電刃。そんな場でいわゆる後方支援をし続けて、――そうして道を開き続けてきた。戦場への片道切符は毎回新しく更新されて配布され、そこから戻ってこれるかどうかは――自分の腕と、運にかかっていた。
そんな場所に辿り着いたのも、今ここまで生きてこられているのも、全部全部そうだって。何かの導きがあったからだって。そう考えているのは、今全てから切り離されていたいからかも分からない。明日のこと、次の戦場のことを考えなければならないけれど、――けれど。

――そう、今俺は。『死んだ』僚機の機体を回収しに来ているのだ。
そのはずなのにまるで身体は言うことを聞かなくて、機体の上で立ち竦んでいるだけだ。

霧は全てを包み込み、そして全てを狂わせる。
たとえばあの時あの青色に、いつか見たのと同じような青色に惹かれていなかったのなら、心を砕くこともなかったのだろうか。
大多数を守るために戦う男になっていたのだろうか。それともそもそも、石の下を這い回る虫のようにひっそりと、戦場に存在こそすれど、それ以上の何でもない何かだったのだろうか。
過ぎてしまったことを、目に留めたことを「もしも」でいなそうとしたって、起こったことはもう取り返せない。それは、戦場でなくとも、どこだろうとも変わらない。どれだけ悔いても過去に手は伸ばせない。手を伸ばさなかったことを、選択することはできない。

――俺は。いったいどうしたかったのだろう。

まるで他人事みたいに、現実が迫るのを感じていた。深い海から引き上げられてきたみたいに息が苦しい。ずっと何も見ないままでいたい。この先に待っているのは限りなく過酷な世界で――ああそうだ。彼女は死んだのだ。どうして俺じゃなかったんだ。いくらでも理由は思いつく。物理的に刺し貫かれたわけでもなく火炎や粒子に焼かれたでもなく、ただ不可解に消えていった。それも随分とらしいなと思ったけれど、だからと言って。
だからと、言って。

「……う、うう……」

――ガコン。

「……ミオ、……ミオ……、……起きてくれ、起きてくれよ……」

知っている。
――知っている。起きない。彼女は死んだ。否、『生きていた』のだ。原理などわからない、わからなくていい。その事実だけあればいい。何らかの理由で生きている彼女の心、あるいは魂だけがこの世界に迷い込んで、そして死んでいった。
仮にどこかの世界に彼女の本当の身体が存在しているのだとしたら、きっと今頃、真に物言わぬ姿になっているのだろう。僅かな可能性に掛けることも、もう許されない。あるいは身体だけ生かされ続けるのかもしれない。彼女の元いた世界がどうであれ、少なくともこの世界では、その程度の事ができる技術が存在していることは、俺だって知っている。
彼女は死んだと言い張っていたけれど、俺はそうは思えなかった。絶対何処かで、何処かに、彼女は生きていると思っていたのだ。ここにいたあの子がたとえ本物でなかったとしても、残像のたぐいのものだったとしても、本当に幽霊だったとしても、俺のやったことは、きっと変わらないだろうけれども。それは、自信を持って言えることだ。
だから、だからこそ悔いている。だからこそ。あの時もう一歩が届いていれば。あるいは彼女が前のめりでなければ。あるいはもっと早くに、相手を殲滅しきれていれば。
そんなたらればの話をしたって実際何も変わらないし、今ここにある現実は、彼女が死んだという現実に他ならない。どんな奇跡があったって、俺と過ごしたミオは取り戻せない。
――奇跡なんて存在しない。都合のいい奇跡なんて。
彼女そのもののように動いて思考するAIを作ることなんて簡単だ。今まで一緒にいた蓄積でどうとでもなるし、皮肉なことに、彼女が散々嫌っていた“お医者さん”の役は、俺が彼女に身体を与えた瞬間から、俺になった。俺は彼女の身体が焼け焦げていたり、大穴を開けられたりしていたら、完璧な状態に修復できる。
直せはする。それでも、帰ってこない。
馬鹿馬鹿しい。
こんな。こんな手が。出回っている操縦棺を。こんな手が。エンジンを。こんな手が、作っているなんて。

「ミオ」

どれだけ俺が整備の腕に長けていたって、あの子の“お医者さん”役をしていたって、帰ってこないのだ。帰ってこない。どこにもいない。いなくなってしまった。
――殺したのは。

「……ミオ」

俺かもしれない。俺じゃないかもしれない。結果だけを見れば、敵にいた機体だ。
あの場にいた全ての人間に、全ての残像に、全ての敵機体に、その責任を負わせることはあまりにも簡単で、そして浅慮に過ぎる。
少し前の自分だったら、そういうことをしていたのかもしれないけれど。

「……ミオ、」

一周回って、俺の操縦棺でよかったとすら思っている。
それは今だからこそ言えることで、――少し前の俺には、絶対に口に出せない言葉だ。
俺の作った操縦棺だからこそ、だからこそ。最期のその瞬間まで、きっと。

なにもこわくなかったはずなのだ。

俺の操縦棺だから。俺の手がけた操縦棺だからこそ、最期の一分一秒一瞬のそのときまで、何も、何も。
そして何より俺が彼女をずっと守り続けていたことの証左でもあるし、俺がこれからも彼女を守り続ける完全な証明にすらなる。
永遠の揺り籠。幻想の揺り籠。――なにも、何にも、寂しくなんてない。

「俺は……俺は、あなたにとって、いい人であれましたか」

震える左手が、ようやく彼女の頬に触れた。
何も変わらなかった。変わっていなかった。それが故に不可解で、そしてあまりにも理解するに足りていた。
空色の髪の毛を指で巻いて弄んでみても、その頬に触れてみても、少し強く引っ張ってみても。何も。何も反応してくれなかった。当然ながら、問いかけの答えが返ってくる訳がない。
それでも。

「俺は」

問いかけずにはいられなかった。
ずっとそうしてきたことが、そう振る舞ってきたことが、あの子にとって、良かったのか。知りたかったのだ。知りたい。
もう遅い。

「俺は、あなたにとって、どんなひとでしたか」

返事はない。

「俺は、あなたに」

返事はない。

「俺は……ミオの、……ミオに、とって、」

――何が聞きたいんだ?

「……」

口を引き結んだ。これ以上何か言おうとしても、意味のない言葉を羅列するだけになりそうだった。こんなことを言いたいわけでもなく、確かにやりたいこととやるべきことがあって、それが目の前にあって定まっているはずなのに。
何も見えない。霧が深い。すぐ先にあるはずのものが見えない。
往くべき航路が辿れない。そこにあったはずの標がない。

「ミオは、俺と一緒にいて、……よかった、ですか」

あまりにも滑稽だと思った。呻くような声が、霧の中に溶けていった。
ずっと自信がなかった。呼び止めたのは俺だし、挙句彼女を自分の居処まで連れ込んだのも、勝手に世話を焼き始めたのも、俺だ。
ついこの間まで見ていたはずの顔が、はにかんだように笑う顔が、霧がかかったように思い出せない。ぼやけて見えない。はっきりとピントが合って見えるのは、目の前の棺の中の彼女だけだ。
ほんの少しだけ目を伏せた。思えばここまで、全く涙が出ない。俺は本当に彼女の死を認識したのだろうか。急に不安になってきて、つくりものの手を掴んだ。当たり前だが、そこに温もりはなかった。けれどもひどく取り乱しそうになって、強く手を掴む。金属の軋む音がした。

「――俺は、よかったですよ」

ずっと喉につっかえていた一言が落ちて、ようやく、ようやくすっと楽になる。
俺がよかったのならきっとそう。俺はいつだって彼女に言っていた。
好きにすればいい。いつでもここから離れていいし、いつまでだってここにいていい。そうやって約束した。指切りの方法を教えてもらった。あとで調べて分かったけれど、そうやって約束事をすることもあるらしい。無縁だったし、あれがきっと最初で最後の指切りになるのだろう。誰かと約束をする時に、きっととっさには出てこない。

「俺は、よかったです。ミオと一緒にいれて、一緒に戦えて、――ミオがせめて、俺の……ッ、俺の操縦棺で、……」

死んだことがいいはずだなんて、そんなことは絶対にない。
けれどきっと俺のものじゃない誰かのだったら、きっとその誰かを無限に責め立て続けただろうし、責任を負うのは俺だけでいい。
自分のものだからこそ安心できるし、自分のものだからこそ余計な誰かを傷つけなくていい。不必要に騒ぎ立てなくていい。そう思うと、少しだけ楽になれた。
別に傷つくのが俺だけでいいとか、そういうことを言いたいわけではない。俺は、俺が俺であるために、今の目の前の現実を認めて、飲み込んで、前を向いて歩いて行く必要がある。

「……。……俺といてくれてありがとう、ミオ」

大丈夫。今の自分なら、きっと。
時間はかかるだろうけれど。

「まだ……君に、してあげられていないことがあるから。帰ろう、……帰ろう、ミオ、ミリアサービスに……」

手元には澪標だけが残っている。