36-3:沈む手を掴む鷹の脚

椅子の上に、少女の容れものが置かれている。
真新しい服を着せられた容れもの。膝の上に何冊かの本が置かれた容れものを、ニーユは左手でその髪の毛を弄っていた。
海の生き物の本にしたけど、別のものがいいだろうか。それとも、と思っていたときだ。後ろから声がかかった。

「……何してるんですか」

チカだ。
たぶん心配してくれたのだろうけれど、その顔はなんとなく怒りの色に染まっていた。けれど怖くはなかった。

「まだ、未練がましく、何を求めてるんですか」
「それは違う」

髪を撫でつけていた手を降ろした。ぴくりとも動かない以外は、動いていた頃となんの代わりもない。
容れものにはどこにも損傷がなかった。それが不可解な状態で死ぬということなのか、ニーユには分からない。

「……違うなら教えてください。何をしていたんですか。貴方の中でいまあの人は、どうなっているのですか」

そう言う声は震えていた。
強く拳を握りしめていたのまでは、ニーユの目には入らなかった。

「……どうも何も、死んだ。いなくなったよ。これはその……俺は死んだあとのことが分からないけど、こうしたら寂しくないんじゃないかなって……」
「……」
「……もしかして、こういうのって、やっちゃダメなことか?ヒューマノイドは悪用されたくないから、暇ができたら全部バラして配線も切って、処分するつもりでいたんだけど……それまでの間だけでもって……」
「……そうですか。いえ、いいと思いますよ……そのようにして死者を悼む文化もあるそうですから……」

両手で服の裾を整えてやっているのを見て、チカはふと思い出す。
いわく“彼の兄”だと言ってもいいと言い切った、あのスライムの言葉。
意を決して口を開く。

「……勝手に聞きました。スーから、貴方達の事」
「……そう、……聞いたんだ、いろいろ……」
「何かあるのだろうとは思っていましたから……ショックがないといえば嘘になりますが」

ニーユ=ニヒト・アルプトラは、少なくともまっとうな人間ではなく、リーンクラフト研究所の子攫いの被害者であり、非人道的な数多の実験の被験者であり、リーンクラフトの子どもたち最後の『人型をした生き残り』であると。
スー……あるいはエルア=ローアは、なんてこともないように、けれど呪詛を振りまきながら、憎悪に満ちた顔で言った。
例えるならば、ニーユはかわいそうである、というのがさも当然のことであるかのように。

「俺のこと、かわいそうって思う?」

本人は何も気にしていない様子で、そんなふうに言うのだが。

「……一般的な尺度から見れば、十分かわいそうという部類ではないでしょうか」
「……チカはどう思う?」
「……私ですか?まあ、その境遇は不遇だったと素直に思いますが……そこからかわいそうだと同情してもしょうがない、と思います」

過去を愁うくらいなら、今や先を見た方が余程いいですよ、と言って、チカはニーユに目を向けた。
そう聞いてくるということは、本人はどう思っているのだろうかと。

「……ニーユさんは、自分のこと、どう思っているんですか」
「いや、分からない。俺はそう言われたらそう思うかもしれないけど、自分のことをかわいそうだとかは……思ってない」
「……貴方がそう思ってないなら、それでいいです」

聞くだけ無駄だったのかもしれない。
最初の質問に、あまりにも曇りがなかったことに気づくべきだった。

「この世界ではどうすれば生きていけるのか、その方が大事です」

細く息を吐いた。
ヒューマノイドというものは実に精巧で、目の前にある彼女と同じ技術を使って作られただろうひとが身近にいるが、それでも人間と差を感じることは、ほとんどない。
生の要素を一切取り払われ、そして動くこともなければ、ただのよくできた精巧な人形にしか見えないが。

「うん……そうだね。そうだろうなあ」
「……正直彼女の存在をどう定義していいのか、私にはわかりません」

肉体が無いことを除けば、彼女は人間となんら変わりなかった。
だからこそニーユもチカも、そしてこのユニオンにいる人も、それ以外も、ほとんど何の違和感も抱かなかった。
散々霊障で物を飛ばされたのは、自分の至らなさだというのは、痛いほど自覚している。物理的にも。

「……ミオは、そうあるべくしてそうなったんだろう、って思うんだ」

あるべき形に戻っただけ、と言えば聞こえは良い。
身体のない幽霊に未来はないし、動かない身体にも同様に先はない。
ただ、あの、あんな形の終わり方でよかったのだろうかとは、ずっと思い続けている。それ以前に、彼女は、ここにいてよかったのだろうかとも。

「俺、ちゃんと、頼れる人間だったかな」

息が苦しい。いや、呼吸は問題なくできている。胸が、胸が苦しい。どうしようもなく苦しい。どこにも問題はないはずなのに。

「なあ、チカ、俺……おれ、ほんとに、」
「あなたの事、とても頼りにしてましたし、とても心配していましたよ」

苦しい。何か外に出したい、吐き出したいものがつっかえている。

「澪さんは、あなたが思うより強かったかもしれませんね。でも、一緒にいたのがあなたでよかったとそう思います。――貴方だから、こんなにも彼女を思ってあげられるんだと。貴方は、優しい人ですから」

――要は今までの行いを誰かに肯定されたくて、誰かにそれでよかったと言われたくて、それだけのことだ。
けれどそれが、誰でもいいわけでは、ない。

「……それに、一人で震える事の寂しさや怖さを、よく知っているのも、貴方だから」

自分は正しかった。ああしたことが正解だった。一緒にいたことが正解だった。
それを肯定してくれる人を、ずっと探していたに違いない。それは誰でもよくなくて、この目の前の人間でなければならない。
強さも弱さも何もかもを背負うことを選択した自分を、認めてくれる人。

「う、……ッ、う、あぁ……お、俺、おれは、」

あとはもう、何の言葉にもならなかった。
ぼろぼろ溢れてくる涙をどうしていいのか分からず、あげる声も意味のない呻き声にしかならない。

「泣いていいと思います。涙は、私達が悲しみを飲み込み受け入れるために流すものですから」

手が伸びてくる。
昔、この世界の何もかもに怯え暮らしていた時にそうされていたように、抱き寄せられて背を叩かれる。
記憶にある時よりずっと、背中に近い位置。それでも背中とは言い難いけれど。

「私は偉そうに何か言える立場ではありません。ありませんけど、でも、ニーユさん、頑張りましたよ。とても。沢山」

縋っていいのだろうと思った。
震える手がチカの身体を勝手に抱き締めていて、幼子のようにわんわん泣いた。力の加減などする余裕もなかった。


  †


「……ご、ごめん、ちか……」
「いえ、いいですよ。私も心配でしたから」

これがきっと悲しいということで、これが誰かが死んだ時に悲しむということで、おそらく一般的な人間なら、大切なひとが死んだ時に、自然にこういう反応を取るのだろう。
それだけでもまだ、普通に近づける余地がある。どこからどこまでも普通の身体をしていなくても、そうして少しずつ、近寄っていける余地が自分にはある。
――それを教えてくれたひと“たち”のためにも、頑張らなければならないと思った。

「……うん、大丈夫。大丈夫だよ、俺」

頭を振る。

「また操縦棺を頼まれたんだ、俺の操縦棺なら絶対大丈夫だから……って」
「弟弟子が立派になって、私もうれしい限りです」
「えへへ」

胸に何かがつっかえていたような感覚は、すっかりなくなっていた。

「ありがとう、チカ」

目の前のヒューマノイドを見つめ直した。
目の錯覚か角度の問題か、笑ってくれているような気がした。