37-2:速さの先の大蜻蛉

頼んだものを取りに向かうために連絡を入れたら、リー・インは言ったのだ。

『あそこは放棄した。誠に申し訳ないが、他に君の都合のいい時と場所を指定してくれ。』

馬鹿じゃないかと思ったし、お前のそういうところが嫌いだとも思った。なんだよその放棄したって。何でもない事のように言いやがって。気軽に放棄できるような拠点が、羨ましくもあった。言ってやりたいことは山ほどあったが全てを飲み込んで、躊躇いなく早朝を指定した。早朝というには早すぎる頃合いの時間だったが、そうまで言うのなら人目につきにくい時間のほうがいいだろうと思ったからだ。
それでもあの男は何事もなかったかのようにやってきて、そしてなんでもないことのように言う。それが嫌いだった。

「君も多忙を極めてるのはわかるが、こんな時間とはね。休養は足りてるのか?体調に問題は?」
「あいにく早寝早起きは得意なんで」

ミリアサービスの代名詞とも言える、大百足『ベルベット・ミリアピード』の姿は見受けられなかった。その圧倒的存在感もない。
――まさかとは思うが、この男がベルベット・ミリアピードの不在を公言することはないだろう。そんなことをしたところで、大した意味は持たない。例えば、自分のことを殺したいだとか、そんな。

「ああ、どうかお構いなく。俺が近寄ることで面倒をかけてるのは重々承知している、人目につかない時間帯は正直ありがたい。君に余計な謂れがかかるのはできれば避けたい。」
「……あなたがそう思うんならそうでいいです」

リーが寄りかかりながら話す大型のブースターを見ながら、ニーユは細く息を吐いた。白く染まっていく吐息を眺め、それからガレージに鎮座している二脚の機体を見やる。
初めからベルベット・ミリアピード向けのつもりで頼んでいたこのブースターは、ゼービシェフに乗るだろうか。乗せることはできるだろうけれど、機体が耐えられるだろうか。そんなことばかりを考えている。

「……ミリアピードと言ったか?あの多脚のハイドラが無いようだが。身辺警護上の問題は生じてないか?」
「……身辺警護?逆に聞きますけど、俺のどこにそういう問題が発生すると思って……ジルみたいな子供でもなし。あんたはいつの間に俺の保護者になった?」
「ああ、無いならいい。立ち入られるのを好まないことくらいはわかる。心配だっただけだ。」

そもそもこんな男に保護をされる筋合いはねえという気持ちと、仮にももう成人していて、自分の店も持っているニーユが、得体の知れないとしか表現しようがないリーにこのように心配をされるのは、一言で言うなら“嫌だ”という言葉に尽きる。
どうにもこの男には、何か根本的な同質性を感じてしまって、そのたびに得も言われぬ嫌悪感に襲われるのだ。
少なくとも初めに考えた最悪の事案はあり得なさそうで、ひとまずの安堵を得た。得たところでどうなるのだという気持ちもあった。

「さて。君の依頼の品、『アノトガスター』……概要はマーケットに添えたメッセージ通りだが、詳細は必要だろうか??」
「……結構です。俺が望んだものが、確かにここにあるので。あの説明があれば十分です」

言うことはない。ベルベット・ミリアピードの巨体に強烈な推進力を与え、瞬発力をとにかく求めたブースターだ。
それはあの20mある巨体を即座に動かすためのものであり、ゼービシェフに向いているかと言われたら、分からない。まず機体の耐久力が違いすぎるのだ。
リーはガレージに座るように存在しているゼービシェフをちらりと見て、一言吐き捨てるように言った。

「好みじゃないな」
「……お前は……」
「他に何と言えと?」

――この男のこういうところが嫌いだ。

「この機体が、こういったハイドラがどう動くかについては俺もそれなりに理解している。整備屋たる君は俺より遥かに詳しいと思う。殊更言葉を尽くす必要は無い。」

いつだって一言多い。そして大変に傲慢で、それでいて的確なのだ。
正直なことを言えば、好みの問題で言えば、ニーユとてこのゼービシェフという機体は、自分の趣味からは外れていた。

「だから、俺の好みではない。好みではないが、これが君の答えなんだろう?俺はそれでいいと思う。」
「……答え。……答えというよりは残った選択肢だよ……それを答えと言うなら、そうなんだろうけどな」
「望むと望まざるとに関わらず、か。それこそが答えだろう。」

リーが改めてゼービシェフを見上げた。
そのバイザー越しの向こう側の目が、何を思って見ているのか、知るつもりもないし、知りたくもない。
この男とはこのままの距離感であるのが、一番いいと思っている。

「何にせよ、君の選択に異論を挟む気はない。君もまさか今更選択を翻すつもりもあるまい。」
「当たり前だ。あんたに言われて路線変更するのなんか、なおのことごめんだ」
「俺に対してはそれでいい。他の人にまで心配されるようなら、落ち着いて考えればいいさ。」
「……何様のつもりだよ」
「言葉通りだよ。無論揶揄でも何でも無い。君がジルにそうしたように、君にそうする者の意見を尊重するといい、そう思っただけだ。」

これ以上なにか言うにしても言わないにしても、この男に対しては無駄である、という理解があった。掴めませてくれないのだ。あるいは、掴まれることを極端に拒んでいる。
何も会話のない空間に居続けることが苦痛になってきて、思い出したように共通の話題を探した。――先日の呼びかけには応じたものの、自分自身が参加したわけではない。むしろそれによって生じた事案に今困らされているくらいで、触れることは躊躇われた。
となると、残る択は必然的にひとつになる。

「……そういえば、ジルは?あの子は最近どうしている?」
「先々週様子を見たきりだが、どうにも良くないな。恐らく相当以上に疲弊している。様子を見に行きたいが今は無理だ。」
「……は?」
「先週の作戦行動以来、かなり不自由していてね。先も言ったように、一所に留まれないんだ。公には、俺は消息不明になっている筈だ。」

派手なことをした。非常に派手なことをした。……らしい。リー・イン主導で執り行われるとばかり思っていたそれの上に立っていた男は別の人間だったし、それでも目の前のこいつがやるよりは、とも思った。顔に泥を塗ることはあろうとも、その腕に何かがあるわけではない。
いずれにせよ、参加したことにはなっているけれども、その場にいなかったニーユには何も分からない。その結果がどうなったかまで含めて。……望んだ結果は得られなかったらしい、ということしか分からない。

「あんたはまたそうやって――そうだ。ひどく自分勝手だ。あれもそうだろう、あんたは結局いなかったって言うじゃないか……」
「うん。悪かった。何一つとして君達に弁解できることは無い。あれに参加したために生じた不利益があれば言ってくれ。君の関わった人を含めていい。可能な限りの埋め合わせをする。」
「……クソ。……いい。倉庫の空きが余計なもので埋まったくらいだよ……」

もし仮にあの場にミオがいたら、今頃ここでこの男を殺していたかもしれない、と、薄ぼんやりと思っていた。
あくまでも可能性の話だ。彼女はイオノスフェアにたどり着く前に消えたし、そのせいか、そのためか、なんの因果か、ニーユがゼービシェフに乗るのだ。

「あんたどうせ、今は無理って言うぐらいなんだから……そのうち行くんだろ。俺だって、……今は無理だ、ってしか、言えないもん……」
「申し訳ない。詮索するつもりは無いが、君にとって本意でないことは理解した。だが、身動きが取れるようになり次第ジルの元へ向かうことは確約する。」

嘘は言ってないだろうに、やたらに不快感を掻き立てられただけだった。この男の声と顔からは、その申し訳無さとやらが微塵も感じられないのだから。
しかしニーユの側にしても、慣れない格闘機体に乗るため、せめてその場しのぎの付け焼き刃であっても、振る舞い方を知っておく必要があった。有り体に言えば暇がない。

「……行ったら教えろ。どういう状況だったか」
「確かに承った。微力を尽す。……君も、生き残りに力を尽してくれ。依頼を請けた以上、これくらいは要求しても道義には外れない筈だ。」
「……微力じゃなくて全力を尽くして来いよ。それがあんたの責任だろうが」
「どうだろう、勿論俺は全力だが。結果がそれに伴うかは大いに自信が無い。無責任の謗りは免れまいな。」

何故こうもなんでもないことのように。
せめて彼女に与えた金の輝きが、彼女を護ってくれていることを期待することしかできない。あるいはせめてまだ、救いようのある形で死んでほしかった。

「……。本当に、本当に身勝手だ。身勝手で、偉そうで……」
「付き合わされる方は堪ったものではない、か。全くその通りだな。」
「……わかっててやってるのが、最悪だ。あんたのこの上なく最低でクソ野郎なところだ……」

身勝手なのは、果たしてどちらなのだろう。この男の態度に限って言えば、それが彼のあり方として確かに確定されていて安定していて、ニーユにとっては逆にやりやすいことも、認めざるを得ない。
あのときわざわざ出向いてまで相手をしなければ、今頃こんな思いをしていることはなかったのかもしれないが、あのやり方については後悔はしていない。

「誠に申し訳ないが、こればかりは譲れないな。俺はただただ俺の思うままに、君の無事を祈るだけだ。君が望むと望まざるとに関わらず。」
「……好きにしろよ……」

口元しか伺えないことが、ひどく不気味に感じられた。
こんな奴に祈られるくらいなら、まだ自分で首を切った方がいいようにすら思う。そう言ったところで、彼の態度が変わらないこともまた、ニーユは知りつつあった。

「――何にせよ何だっていい、……俺は決めたんだ……俺がやりたいように、俺のために、俺が決めて、歩いていくんだ……」
「……善し悪しは別にして。少しは見れた顔になったんじゃないか?」
「あんたよりは数段マシだ」
「違いない。無論皮肉ではなく。」

鉄面皮の口元が、ようやくゆるく弧を描いた。その横の両頬には、先日同様耳元まで裂けた生々しい凍傷が、いくつも走っていた。
限りなく外見に頓着していないのだろう、砂埃に汚れたインバネスを見て、言い放つ。

「少しは外面に気を遣ってやれよ。あんたじゃなくジルやベティさんがかわいそうだ」
「断然同意見だ」

溜息。外は少しずつ白み始めていた。
もう大丈夫だという頷きひとつの後に、リー・インの姿は即座に掻き消えている。跳躍した跡を一つ残して。