38-3:限界のその先から帰還した者たちの談話

それは酷くあいまいで、ぼんやりとした夢だった。けれども声だけは、はっきりと脳裏に焼き付いていた。

『にひと……いる、よね?ミオ、一人じゃない?』

誰のことだ、と、思ったのはごく一瞬のことだった。ニーユ=ニヒト・アルプトラ。今そこで名前の聞こえた、もう撃墜されたはずの二脚の機体。
ウグイスの真横を、轟音が駆け抜ける。霜の巨人はまだ遥か遠くに存在しており、周りの機体たちは霜で白く覆われた狼のようないきものを叩き潰すのに忙しい。前がかりに今にも霜の巨人へ向かおうとしていく二脚の機体に砲弾を撃ち込んだのは、確かに味方の側からだった。
見間違いようのない大百足。ベルベット・ミリアピード。

「……ベルベット・ミリアピード……!?」

増援。……にしては早すぎる。こちらの戦線は瓦解もしていなければ、ひどく時間が経ったわけでもない。
そう思うよりもずっと早く、ベルベット・ミリアピードは無慈悲に砲を向けるのだ。独特のポーズが射撃体制であることに気づくのにも、そう時間はかからなかった。
あのひとには、何か底知れぬものが埋まっている。リー・インに見せつけられたものと同じようなものがある。そこを除いてしまえば真面目で優しい好青年だと、そう思っている。少なくとも彼は、あのとき食事を共にしたときの彼なら、本来の討伐対象を無視して僚機を襲うのはあり得ないのではないか。
そう結論づけた時だった。

『……え、……どう、して……!?』

二脚の機体が膝をつく。

『胸が痛い…苦しい…いや…いやあっ!わたしは、まだ見つけてないのにっ…!!』

そこに容赦なく砲弾を叩き込もうとするのは、やはりベルベット・ミリアピードだった。
あの中にいて、ベルベット・ミリアピードを操っているのは本当にニーユなのか?だとしたらどんな顔をすればいいんだ?そうでなかったとして、誰がなぜこんなことを?

『やだ……やだよぉ!まだ……まだ、わたしは死にたく……』

絶叫。無秩序に撒き散らされる残像の叫びを聞くや否や、操縦桿を握っていられなくなった。嫌な汗が止まらない。動悸が酷くて呼吸が苦しくて私はまだこれから霜の巨人を倒しに行かねばならないのに――

「――ッ!!」

目を開いて真っ先に目に入ってきたのは、病院の白い天井だった。
そうだ。ウグイスはオーバーロードを狙いに行った。そしてその狙い通りに撃墜され、機体は更に限界の先へと駆けていった。
結果として右手に怪我を負い、そもそも操縦棺の中で背中や頭部を強打したこともあり、今はそのために入院中だ。次の出撃に間に合うか、という焦燥は、確かにベティを追いかけてきている。

「……」

あの夢は何だったんだろう。なぜ夢にあの子が出てきたんだろう。彼とミリアサービスで話したときに、この話を振ったのが一番まずかったのではないだろうか。ただの霊障が引き起こした悪夢であればよい。そうあってほしい。そうだろう。けれど。

「ベティ・ヴィーナスさん。二日後に面会の希望の方がいらっしゃいますが、どうしましょうか?」
「あっ、あっはい。えっと、名前を伺っても」

やってきた看護士にまず顔色を心配され、曖昧な返事を返した。それから口に出された言葉を否定する理由は、名前を聞くまでは存在していなかった。

「ニーユ=ニヒト・アルプトラさんです。あの、リーンクラフトミリアサービスの……」
「……え、ええ。存じてます。確か次の配置が、一緒で……はい、大丈夫だとお伝えください……できれば時間を決めて、来ていただければなおいいと……」

タイミングの妙もまた、霊障のせいにできるだろうか。


  †


ニーユが来るまでの間に、多くの人の来訪があった。
見知った顔。彼らが自分のことを心配してくれているということに強く励まされたし、この程度、なんということもないだろうとも。右手が残っているだけマシだ。見立てではリハビリを重ねていけば元通りに動かせるようにはなるだろう、という話だった。その頃にはこの戦いに、決着がついているのだろうか。

「……今日だよな……」

やたらに口が乾いた。入念に喉を潤したし、水のペットボトルも用意してもらった。
別に彼に何かされたわけではないが、やたらに緊張していたのだ。何週間か前のことがまだ脳裏に残っていた。
小さく控えめなノック。

「失礼します。ニーユ=ニヒト・アルプトラです」
「……。……はい。どうぞ」

入ってきたニーユの上着の右袖が、不自然にたなびいていた。彼はきっと義手だろうというのは、以前会ったときに推定していたが、恐らくそれは正しいのだろう。
案の定上着を脱いだ右手の先はなく――包帯が巻かれている。

「お久しぶりです、ベティさん……お身体の方は、」
「――ッ!?に、ニーユさん、あの、」
「あっ!?あっいやこれは元々です!いや元々っていうか元々じゃないですけど何年も前のことです!」

肘の先からない右手が、左手と一緒にわたわたと振られていた。曰く義手の神経接続の方法が特殊で、そのままでも問題はないのだが外見面であまりよくないので――つまり切断面が丸見えなので、腕を取ったときには包帯を巻いている。
その説明がなされるまで、ベティは気が気でなかった。自分のことは置いておいて、人の怪我を見るのは苦しい。

「そ、そうでしたか……ニーユさんも、その……撃墜された、と伺ったのですが」
「あ、ああ……そう、ですね。ゼービシェフでの出撃を余儀なくされてしまって、手酷くやられちゃいました」

少なくとも一つ、事実があの夢と異なっていたことを知ると、ベティは大いに安堵した。どこか申し訳なさそうに笑う顔は、あの夢のような酷いことをする人と同じ顔には思えなかったからだ。

「ニーユさんは……身体の方は大丈夫なんですか?怪我とかは……」
「私ですか?私はもう見ての通りっていうか……いや見ての通りだと信用ないですね。人よりよっぽど回復力はあるみたいなので、もう平気です。然るべきところで治療も受けましたから」

そうですか、とは口にしたものの、ニーユの人より回復力はあるという言い回しが飲み込めてはいなかった。ぼんやりとした顔をしているうちに、ニーユは慣れた手つきで端末を取り出すと、ベティにも見やすいようにサイドテーブルに置いた。

「私のことはいいんですよ。見ての通り人の見舞いに来れるんですから……というか、まあ、見舞いもありますけれど、主目的は見舞いというよりは……打ち合わせで……」

表示されているのは次回の戦場のブロック分けだ。お互いの名前が同じ列に並んでいるのを見て、ベティは彼が今日やってきた来た理由にひどく納得した。

「そもそも次回、ベティさんは出られるんですか?間に合います?」
「無理を言って、一日だけ外出と出撃の許可をいただきました。機体も片手で操縦できるよう改造されて戻ってくるみたいですし、まあ、何とか……」
「片手で?いや、そうとう無茶なのでは……格闘機ですよねベティさん?反応速度などを考えるとどうにも」

身を乗り出してくるニーユに、ベティは慌てて右――は動かせない。ワンテンポ遅れて左手を出して制した。

「そ、その辺りも含めてだと思うので大丈夫です!勿論、ニーユさんも出られるんですよね?」
「ええ、もちろん。私は出ます。出ますけど、……どうしたものかなと思っていて……」
「……ですね。霧がない……というのは今までと真逆の戦場に立たされたようなものですし……」

窓の外を見る。遠くまでずっと見渡せるクリアな視界は、あまりにもこの場所らしくない。
何もなくて――何も遮るものがないからこそ、この世界に何もないことが、よく分かってしまう。あれだけ自分たちにまとわりつき振り回してきて、そして自分たちも振り回してきたものが、きれいさっぱりなくなってしまった。
そして自分たちには、戦うしか選択肢がない。可能なら、何としてでも霧をこの手にして。

「……俺やっぱりめちゃくちゃ噴霧機積むべきですか?」
「思い切った構成ですねぇ。そうしてもらえると格闘機乗りとしては助かりますが……いや、それより水粒爆縮投射装置のほうが良いのではないでしょうか。圧倒的に速いはずです」
「……す、すいりゅうばくしゅく……とうしゃ……?」

とはいえニーユは今まで霧のことなどまるで気にしたことがなく、噴霧機も依頼でしか作ったことがない。噴霧と言えば噴霧機、くらいの認識しかないところに、聞き覚えのない名前のパーツが差し込まれてくる。

「ランページ・ユニットですね」
「らんぺーじゆにっと」

聞いたことはあった。
覚えていなかっただけだ。

「噴霧機よりも急激に、戦場一体の霧の濃さを上昇させることができるパーツです。なんですけど、霧を集めて敵に投射する機能も備えていて……」

かつてこのユニットの説明を送ってきたのは、メフィルクライアだった。イオノスフェアで墜ちた彼女が、何を思っていたのか、何のために自分たちを導いたのか、もう知るすべはない。
当時語られた内容では、噴霧よりも投射攻撃がメインだったと記憶しているが、当時と今では状況が違う。――集める霧がそもそもないのだ。

「……かつこの二つの機能を自由に切り替えることは不可能で、機体の動きによってある程度制御しようとしても、切り替わる条件がややこしいとは聞いています。噴霧したいなら積極的に攻撃すれば良いとか、逆に霧を投げつけたいなら支援に徹すれば良いとか……」
「……。……駄目だ。全然分かんないな……」
「同感です。原理も、実際の動きもややこしいですよねぇ……」

支援に回ったことはある。攻撃役を担ったこともある。
それでもベティの言うランページ・ユニットの説明はあまりにも難解で、実際にマーケットに並ぶものを見ても、いまいちはっきりしない。耐久に長けているわけでもなければ、火力が明確に示されているわけでもない。

「ベティさんはええと、流石に今回はあまり前には出ませんよね……?」
「一応はそのつもりでいます。コネクトか、オーガアームでしょうか」
「なら、まあ、まだ……あいつもいるし……」

苦笑いをするさまを見ながら、せめて僚機関係にある人間の前では、もう少し取り繕った態度を取るべきであったな、と思い直した。とはいえもうだいぶ遅い。
それはそれとして、マーケットとにらめっこしなければならないということは、とてもよく分かった。すでに頭が痛い。

「また追って連絡しますね。流石に今回は、連絡取りたくないとか言っていられないし……えーと、もしかしたらリー・イン経由になるかもしれませんが、また近いうちに必ず」
「分かりました。いつでもお待ちしています」
「あっあとこれ……よかったら食べてください」

思い出したようにカバンの中から取り出されたのは、手作りだと思しきクッキーだった。キャンディのようにひとつひとつ包装されているのは、ベティが今片手を使えない状態にあることを事前に知っていたからだ。
ずっと難しい顔でいたのが綻ぶ。細やかな配慮に目が細められた。――やはりこの人は、あんなことをするひとではないのだ。

「ニーユさん、私の心読みませんでした?ちょうど昨日、クッキーが食べたいなって思ってたんですよ……!」
「あっ、そうなんですか?俺こういうとき何持ってったらいいかもよくわかんなくて……」
「とても嬉しいです。……病院のご飯ばかりだとこう、ちょっと、飽きが」
「あはは……固めに焼いたのでそこそこ持つかと思いますけど、早めに食べちゃってくださいね」

元気になったら、あるいはこの戦いが落ち着いたら。
ベティはまたミリアサービスに来る、と言ってくれた。その時までに店を――それ以前にこの世界でもう少し穏やかに過ごしていくために、戦わなければならない。
歓談する裏で、端末を叩く。

『ベルベット。水流爆縮投射装置を含めたアセンブルについて検討しておいてくれないか。データがないなら誰か人を頼ってもいい』
『――了解よ。あたしの最適解は、あなたの最悪を導くけれど?』
『もうそんなの構ってられるか。それでいい、悪いけど任せる』
『アハハ!わかったわ。わかったわ、ではすぐにそうしましょう』