39-1:巣立ち飛び立て羽化りたての翅よ

青い空が見える。ずっとずっと見えている。澄み渡った空の下に、何もない荒野がずっと広がっている。
どうしてこんな荒野のど真ん中を選んだのかと言えば、純粋に土地代が安かったのと、自分の機体のために広い場所が欲しかったからだ。当時はそれでも、ひどい閉塞感があった。重苦しく残像領域を包んでいた霧は、戻ってこない。あるいはもう本当に失われてしまったのかもしれない。
外に出てきたとはいえ、一人は怖かった。何の覆いもない場所に一人で立っているのは果てしなく怖かった。
今はどうだ。遮るものが何もない荒野に、このリーンクラフトミリアサービスはぽつんと立っている。目を凝らせば高層ビル群すら見える視界の良さとは裏腹に、この先のことはすっかり霧がかってしまったように見えない。
――この世界はどうなってしまうのだろう。ようやく得たと思った自分の居場所は、どうなってしまうのだろう。

「……」
「にーぃゆっ。……ニヒト、聞こえてる?」
「ああ、うん。どうかしたの、……」

振り向く。艶のある青空のような髪が揺れていた。
いつかに見た空色は、――ずっと記憶にあった空の色で、そしてあの時呼び止めた空の色だ。ほとんど覚えていなかったくせに、無意識に呼び止めたのか。
朧気な昔の記憶は、相変わらず霧がかかったように思い出せないところのほうが多い。それでもずっと、前よりは――この領域に来たときよりは、クリアだった。

「――“お姉ちゃん”」
「あれ。分かるようになったのかあ、びっくりしたよ。てっきりボクのことはもう一緒くたにしてしまってるかと思ってた」

エルア=ローア、あるいはスー、もしくはリーンクラフト生体魔素02号――今この場では一番最後の名前で呼ぶことが適切である、この人型を取るスライムには、最低でも二人以上の人格が存在していた。
一番最初にミオに声を掛けた方――もっとも常識がある方か、エルア=ローア・アルプトラと名乗る“お兄ちゃん”か、そのどれでもない、暴れるだけの獣のような意識。自分が集合体であることを理解しているのは、今目の前にいる“お姉ちゃん”だけだ。エルアはただの多重人格だと思っているし、他にはもはや自我などない。

「ボクも成長するし、俺も成長した。俺はずっとできてないと思ってるみたいだけど、そんなことないのさ」

努めて穏やかに話し、そしてよくできた変な生き物でいてくれたのは、確実に彼女だ。彼女にどうしてもできない争いごと――いや、厄介事に首を突っ込んだり他人を欺いたり暴れたりするのは、エルアの仕事だ。
ニーユはエルアともう一人の区別がまるでできなかったが、最近はエルアが取り繕うことを完全にやめている。それでようやく分かるようになった。

「ボクたちのことに怒っている?」

そう聞いてくる声は、いつも怒鳴り合うときとは異なって、ずっと高い。

「……怒っているというか、意図があまり掴めてない。どうしてあんなことを?」
「嫉妬だよ」

彼女の名前を、聞いたことはない。もう忘れてしまった、とすら言っていた。だからボクは【スー】でいいよ、と言っていた。名前をもらったことすら、とても嬉しいかのように。

「ローアはそういう人だからね。君がひとりで、大人になっていくのが、耐えられなかったんだと思うんだよね」

だからちょっとは大目に見てあげてよ、なんて言う。
――自分の命がかかっていたのに。確かに保険はかけてあって、いつだっていざという時の備えはしていた。少なくともベルベット・ミリアピードで、撃墜されたことはない。

「……けど、けどさ。俺がほんとに死んだらどうするつもりだったんだ」
「君がちゃんと帰ってくることまで、信じていたからもできたんじゃないかなあ。ボクはあんまり君と関わってなかったから知らないけど……そのくらいの付き合いはあったってこと?」

ふわふわと、掴みどころがないように喋る生き物は、確かにミリアサービスの表で喋り続けていたスライムそのものだ。
彼女が――【スー】が、せっせと茶を汲み、せっせと人の相手をしてくれたおかげで、今のミリアサービスがあると言っても過言ではない。

「ニヒト。――ニヒト・セラシオン。ボクたちはもう、大人にはなれない。永遠の子供たちだ。けれど君が、君だけが、大人になる権利を守りきって、ここまで来れた」

言ってることの意味がわかる?と、青い影が小首をかしげた。
首を横に振った。なんでもないことのように、彼女は言った。

「君が、リーンクラフトの最後の生き残りなんだ」

何もかもが失われたリーンクラフト研究所の。――失われて当然だったあの研究所の。
望んでそうなったわけではないし、エルアやスーやベルベットだっているのに、何故そんなことを言うのだろう。“被害者”としての最後の生き残りだというのなら、かろうじて人として留まっているという意味でなら、確かにそうなってしまう。

「……くやしい?」
「……別に、何も。ただ、そうか……ってしか、思わない」
「でもきっと、これからも、――これからも絶対に、君につきまとってくると思うんだよねえ。そのときどうするかは、ちゃんと決めてね」
「……。そのくらい、できる」
「うんうん、えらいえらい。大人だ大人」

ぺたんぺたん。拍手以下の音。
なんだかからかわれているような気がした。実際、身体ばかりが大きくなってしまって、いつまであっても子供のままのこころをしている、そんな自覚はまだある。
だからこそ今までもそしてこれからも、ずっと背伸びをしてきていた。

「ローアに向かって怒る権利はいくらでもあるよ。いくらでも責め立てればいい。ボクだってあれはひどいと思うけど、止められなかった――ボクだって、君が羨ましいから」

ボクもあそこの子供たちだからね、という声は、あまり深刻そうには聞こえなかった。

「君はちゃんと大人になって。そして広い世界を目に収めて。ボクたちは自分勝手だから、ボクたちのできなかったことを、君に託してしまうんだ。それでもそうしてほしいんだ」

一つ遺った希望にされているのだろう。
いくつも消えていった、希望すら見れなかった子供たちの代表として、彼女はきっとそう言っている。
――人という生き物は、そうやって残った誰かに、深く残る何かを残していく。それが呪いになるか傷跡になるか、先に進む標になるかは、そのひと次第だ。

「もう君は一人じゃないでしょ?ボクたち以外にも、色んな人がいるでしょ、だから大丈夫さ。大丈夫だよ。君はボクたちよりずっとずっと強い子で、そして大人になれるんだ」
「……うん……」

見たことがない顔。もしくは、記憶から消された顔。
そういう顔で笑っている。エルアは、お兄ちゃんは、そういう笑い方をしない。

「“お姉ちゃん”はさすがにそんなに出てこないよ。今はローアがずっと拗ねてるから、しょうがなくだよ。それじゃあ――」
「――またね、お姉ちゃん」
「……うーん、しょうがないなあ。またね、ニヒト」

かくん、と首が傾く。俯いたまま動かない人の形を揺すりながら、声をかけた。

「――エルア。……。……お兄ちゃん」
「……あ。何」
「何、じゃないよ。俺にはめちゃくちゃ聞きたいことが山ほどある」
「……」

ミリアピードの“家出”。ゼービシェフでの出撃の誘導。挙句自分のことを回収したとまで言うんだから、仕組んでいたのだろう、と言わざるを得ない。
エルアは何が気に食わなかったのだろう。その答えは、すぐに返ってきた。

「全部分かってやってたんだろう。――どうして、」
「どうしても。――どうしても。俺は残骸一つ残っていることを許したくない」

名前を出さなくても通じた。それはあの子のことだ。
あの機体で不可解に存在を消していったあの子の。

「死んだものにしがみつくな。いつまでも俺のことを追いかけてきたみたいなことをもうするな。もうしなくていいんだから……もう……」

――思えばそうだ。いなくなったものを追いかけようとしていたのは、これが初めてではない。
目の前にそうしようとした相手がいる。その結果として、自分はここに立っている。生き残っている。
悪いことばかりではないよ、と言いたかった。今こうしてここに立っていることが、その何よりの証拠だった。

「……大丈夫。あとは海に連れて行くだけだよ」
「人工物は自然に還らねえんだぞ」
「知ってるよ。だったら俺が全部、還してしまえばいいから」

実際、あのヒューマノイドの処遇には困っている。
ベルベットが好き勝手に乗り回し始めているが、正直気分はあまり良くない。処分するにしたって、モノ扱いをして捨てたくはない。
であれば、と戯言を吐いているけれど、きっと近いうちに何かしらの手を下すことになるのだろう。海が見つかろうとも、見つからなくとも。

「……バカバカしい。お前そんなんで大丈夫かよ、嫌われても知らねえぞ」
「……えっ誰に?」
「……バカ!」

何故今そう言われたのか、皆目検討がつかないでいた。
肩を竦めて大げさに溜息を吐かれてなお。