40-1:さよならリーンクラフト

ただ満足するための、儀式だ。
それ以上でも以下でもない、全ての気持ちに整理をつけるため、ひどく簡易に組まれた儀式だ。
それを快諾し、すべての記録のバックアップを取った上で、全てをまとめたフォルダをひとつ、目の前に提示している。このAIは、あまりにも優秀だった。

『中身見てもいいわよ?』
「……いや、いい。そこまでしたくはない」

今する必要があるかと言われれば、ない。
別にいつだっていい。他の誰かが見ているところでだって、よい。証人は多いほうが良いような気もしたが、そうでない気もした。
リーンクラフト研究所との関わりを全て断つことが一生かかっても不可能なことは、嫌というほど理解している。それならばせめて形だけでも、そう願った結果だ。それがここにある。

「……ぎ、儀式、と言う割に……その。あまり、大げさなそれではないのですね」
「……姉さんは何を想像していたんですか。別に大したことはしません」
「いえ……ほら、私がお世話になっていたのは、まじゅちゅ……じゅっちゅ……呪術師の方でしたから、こう……」

言いたいことは分かる。
現実はただ、ボタンを複数重ねて押して、コンソール上に表示された確認ダイアログを指で触るだけ。
それで何が起こるかと言えば、バックアップが完全に取られているデータが、目の前で消去されていくだけだ。本当にそれだけのことのために、ベルベットに膨大なデータのバックアップを取らせた。
完全に消してしまうと、困るのは自分なのだ。いつか何かあったとき、その中を覗き込めば答えが見つかるかもしれない。覗き込む時が来るのかどうか、それは誰も知らない。霧の先が見えないのと、同じだ。明日が見えないように、未来はどうやっても見えない。

「姉さんは……俺のことを笑いますか」
「何故ですか?」
「今から無意味なことを、しようとしているからです」

――無意味だ。
そこに残されるのは、自分の手で確かにこのデータを消したことがある、という記憶だけだ。
だから断られるだろうと思っていた、のにだ。ベルベットは二つ返事で「いいわよ」とだけ言った。

「いいえ」

凛とした声だ。
この人はいつだってそうだ。いつも、力強く立っている。行き先が定まらないように見える危なっかしさを超えて、遥かに強く。

「あなたがやると決めたのですから、そこに意味があります。軽率に無意味なことだというのなら、今すぐおやめなさい」

名のあるらしい魔術師の身体を借りてきている、と言った。それに違わず、あるいはそれに関係なく、姉の発した言葉は重い。

「……そんなこと、ないのでしょう?あなたは意味があると思って、いまからそれをするのでしょう。なら、最後までやりなさい。今までの戦いだって、そうだったのでしょう」

――それが無意味であるのなら、参加しなければいいのだ。その選択肢はあった。目の前に存在していた。ただずっと、整備屋として、パーツ屋としてあり続ければ良い。
では何故ずっと、この戦いが始まってから、毎週のようにミッションに出向いていたのか。そこに意味があったからだ。初めは自分にとっての意味は無かったのかもしれないが。
この先に海があると信じて疑わなかった少女のために。決して目立たずとも背を支えてくれた彼女のために。

「……変なことを聞いてしまってすいません。俺は結局、最後まで自信がなかった」

正直なことを言えば、今だって自信がない。
多方面から、ニーユのパーツは耐久があるだの、いい出力のエンジンだのと言われても。結果としてランキングに名が残っていても。

「誰かに叱られたかっただけです。出来る限り真っ当に、俺を否定しない形で」

あの場所にいた誰もが求めているだろう。求めていただろう。
あまりにも簡単に、それも血縁者(見た目はさておき、もう否定する要素はない)から受けられる。それが、何よりも嬉しく、そしてプレッシャーになる。

「けどもう、大丈夫です。だから見ていて欲しいと、貴方に……姉さんに言いました」
「あなたの大丈夫は、大丈夫じゃないんですって……覚えていますか?私が、言ったの」

いつかの言葉だ。
あの頃は何もかもを押し殺して飲み込んでいた。それで、苦しいのは自分だけで充分だと考えていた。
そうではない。そうではないことに、長い時間を掛けて、やっと気づいたのだ、

「けど、もう……そんなことはないですね。すっかり、大丈夫そうに見えます。ぜんぜん大丈夫」
「……はい!」

コンソールに手が触れた。
ほんとうにそれだけだった。表示されている画面を眺めて、そして、そのまま。自分の存在の記録を、自分の手で消したという記憶だけを残す。

「……」

こんなことひとつで、整理がつくかと言われたら、全然だ。一生つきまとってくるだろうし、どこまで付き合いが続くかもわからない。
けれど、確かにあの時拒絶を示した意思表示だけは。

「――あら?」

ずっと画面を覗き込んでいたミリアムが、不意に顔を上げた。

「何かありました?」
「いえ……、……今、確かに、潮の匂いが……」
「……塩?」

そんなことを、ガレージの方を見て言うのだ。バーベキューやら何やらしたことはあれど、ガレージに塩を持ち込んだことはない。
――持ち込んだことはない、は言いすぎだったかもしれないけれど、買い物した塩の袋を破いてぶちまけたなんてへまは、やらかしたことがない。

「何言ってるんですか、気のせいですよ……うわっ?」
「そうでしょうか……ニヒト?」

今度は自分の方だ。
地を揺るがすと形容してもいいくらいの、低い低い何かの鳴き声が聞こえた気がして、姉と同じようにガレージの方を見る。
それきり何も聞こえない。何も聞こえなければ、何の匂いもしなかった。

「……今何か……鳴いて……」
「……そうですか?私は何も……聞こえなかったのですけど……」

互いに顔を見合わせても、何の答えも出なかった。
自分は――自分たちは、何かを拾い損ねているのではないかという気持ちだけを抱いて、ニーユは操縦棺の出荷の準備に戻った。


「……ニヒト、そういえば、あなたは――海を知る機会が、なかったのですね……」

ミリアムには何も見えない。
ミリアムには何も聞こえない。
ただそこに、何かがいるような気がした。鼻腔を潮の香りがくすぐり続けていた。