40-2:君はあの鯨を見たか

――低い、低い、鳴き声が聞こえる。
か細い歌声が聞こえる。
誰もいないはずの場所から、頭痛を伴って聞こえてくる歌声。

「……くそ……」

頭痛の原因はいくらでも思いついた。
次回の戦場。おそらく最後になるだろう出撃。これ以上ハイドラライダーを続けるつもりは、もうない。今の僚機である彼にも、そう申し入れをしておかなければならないけれど、その暇もない。慌ただしい。ただ慌ただしく、時間だけが過ぎていく。
子供のように語る言葉。かつての禁忌を夢見る少女のような言葉。何度も繰り返し生きてきた夢見る少女の言葉は、無限に重い。
新しい操縦棺を作る。作った。発送は済ませた。最後にはミリアピードの脚を新調する。どこまでもいける脚を。悪夢を踏み潰し生きた証で塗り替える重い脚を。
企業連盟のかつてのボスは、まだ見つからないらしい。レジスタンスの男は戦い続けると言った。
霧が彼とともにありますように。ただ彼が迷わなくありますように。――そうすれば自分も救われる気がしたのだ。

――どこにも無意味な戦いはなかったのだと思わせて欲しい。
清濁全て――失ったことを、憎悪を、謙遜を、嫉妬を、恨みを、心配を、怒りを、思い出を、居場所を――そう全てを。何もかもを。何もかもを飲み込んで出撃できたとき、ハイドラライダーとしてのニーユ=ニヒト・アルプトラは死ぬだろう。
ライダーである必要が無いのだ。長い戦いの中で得られた知見といえばそれこそ、“自分はハイドラライダーには致命的に向いていない”以外のことがなかった。
戦いの中に身をおくことは、自分にはできない。傍から眺めていて、誰かの世話を焼いている方がずっといい。そしてそれらの両立は、実質的に不可能だ。
失われたものは大きい。次も、誰が、死ぬのか。
自分だけでいい。そうは行かないだろう。どのような結果が残ったとしても、ハイドラライダーとしての【ニーユ=ニヒト・アルプトラ】はおしまいだ。死場に行くのだ。ライダーとしての自分を完膚なきまでに殺すべくして、向かうのだ。
すべてを無に返したくはない。せめて足掻いた足跡を残したい。だからこそ戦い続けるし、戦い続けてきた。
たとえ戦いの場が変わっても、ハイドラライダーとしての【ニーユ=ニヒト・アルプトラ】が、何の無駄でもなかったことを証明したい。ただそれだけだ。前へ。前へ。進め。進め。進め進め進め進め。

――にひと。

無限に続きそうな頭痛の中で、歌声の中で、はっきりと声がした。
いなくなったはずの人。もう会えないはずの人。――電磁波0%の予報で、聞こえるはずのない声。霊障は当に果てている。

「……ッ……」

――塩分の匂いがした。
そうとしか許容できない匂いがした。

「!?」

何が。何が起こっている?
一体どうして?
飛び起きた。サンダルをつっかけて、外に飛び出した俺を待っていたのは、

――

「……魚……、……いや、違う……」

水浸しになったような痕のあるガレージ。
場違いに落ちている青い花。
そして、遠い遠い空を泳ぐ――巨大な鯨。
在りし日の夢をそのまま形にしたような、“海の色の鯨”。

「……!」

唖然としている暇はなかった。
これこそが“海”なのではないか?姉が指していた“しおのにおい”とは、このことなのではないか?
つんのめって脱げたサンダルを蹴飛ばしてでも、走る。走れ。まだそこにいるはずなのだから。

「――ミオ!!」

花が咲いていた。頭から、背中から、植物の茎によって太く隆起した右腕から、青い花が咲いては散っていた。一輪だけオレンジの花がぽつんと咲いては、そして散って消えていく。
振り向いた姿は、確かに喪われた“天ヶ瀬澪”そのものだった。
――その描く表情だけが、致命的に違う。

「うーうん」

ごく短い言葉で否定する。
それだけで、目の前の人間――否、残像――でもない、天使のように羽を生やした少女が誰であるのか、理解するには充分すぎた。

「……じゃあ、君は……」
「……るい。あまがせ、るいだよっ」

天ヶ瀬泪。
ミオがずっと探し続けていた人。海でまた会おうねという言葉を残していった、彼女のきょうだい。
ここは海なんだろうか。目眩がした。頭痛もひどくなりゆくばかりだった。

「にひと」
「……!」

同じ声で呼ぶ。その名前を呼ばないで欲しい。君がミオの半身であったとしても、お前にその名前を呼ぶ資格はない。
そう、睨みつけようとしたときだった。無数の花が咲き散っていく。ガレージの中を埋め尽くさんばかりの勢いで、青い花びらが散っていった。

「にひと……ミオ、ミオね……」

――在りし日の残像。残像に手向ける女神。いつか発芽するアルラウネ。

「どうしても…ひとつだけ、叶えたいことがあって……だから……」
「そっ。だから、るいが来たんだよぉ。えっへへ……だって二人の約束は、もう叶っちゃったもん。ねっ、ミオ!」

二人分の声がする。なんて、なんて残酷なことだろうかと思う。仮に彼女がここで生き続けていたら、そもそも出会うことは不可能だったのか。
――天ヶ瀬泪は死んでいる。天ヶ瀬澪は、何らかの理由により昏睡状態にあり、その魂だけがここにやってきた。そして、彼女たちが出会ったと言うことは。
立つ世界が同じになった。見える世界が同じになった。自分とは違う世界へ行ってしまった。改めてその事実が、矢のように突き刺さる。守れなかった後悔の傷跡を抉るように。

「ね、にひと。……聞いて、くれる?」
「……うん、」

細波。しおのにおい。
青い空。白い雲。白い砂浜。――真っ青な海!

「――!?」

ガレージの中に山のように積もったはずの青い花びらが、浜辺に打ち寄せる波に変わっていく。オレンジの花びらが蟹に変わって、砂浜を早歩きで歩いていった。
無機質な金属類の並ぶガレージも、無限に続くような広い荒野も、どこにもない。
目の前に海が広がっている。しおのにおい。これが、これが。
小島のように、見覚えのあるハイドラが身体の半分ほどを見せていた。張り巡らされた根が育てた木が、本で見た覚えのある南国の島の様相を呈していた。

「これが、ミオの…さいごの、お願い」
「……」

少女の右手は、もはや人の手を握れるような状態ではなかった。
男の右手は、肘の先で切断されて、別のものが付けられていた。
――男の右手を、少女の左手が掴む。

「るいにお願いしたの……ミオのお願い聞いてくれる?って……」

手を引かれていく。足元が冷たい。水に濡れている感覚ではなかった。もっと深いところへ誘われているような感覚。

「にひと。前に、言ったよね?一緒に、海に行こう…って。ね、だから…行こう?…『わたしたち』の、海へ。」
「ミオ」

もしかしたら、本当にその手を取ってしまう選択も、あったのかもしれない。
けれどそれはもうできない。死んだものを追いかけるということはそういうことで、――であれば残されたひとが、どうなる。

「俺は一緒には行けない。……ミオ、俺にはここにいなきゃいけない理由がある」
「どう……して?」

ひどい頭痛がした。霊障に頭を揺さぶられているような感覚にひどく似ていた。ここだけ異常に電磁波が高いような、そんな。
ものが揺れる代わりに、足元の波が、強く足を叩く。そのまま引波が、より向こうへ引きずり込もうとしてくるように。

「ミオと一緒に行ってくれるって……約束したのに……!」

海の色が変わった。どんよりした霧のような空の色で、激しくうねる大波が暴れている。低い声で何かが鳴いていた。地に足の付いている感覚すら、あやふやになってくる。
ミリアピードすら軽々飲み込むような大波が眼前に迫る。――それでも、落ち着いていた。掛ける言葉は決まっていた。

「にひとの嘘つき!!ミオは、ミオは……っ!!」
「――違う」

電磁アックスを振り抜いたようなエネルギーの奔流が、大波を切り裂く。
ぐずぐずと濁りゆく海の色をちらりと見て、言った。

「俺とミオの海は、ここだよ。ここにしかない――ここに、作る」
「……ここ、に?」
「だから俺は、ここに残る。ミオと一緒には行けない……俺まで行ってしまったら、ここにミオのいた標しを、誰も残せないよ」

花びらが散っていく。足にかかった波の飛沫が、青い花びらに変わって消えていった。
俯いた少女の頭から、右腕から、開いたままの花がぼとぼとと落ちていく。

「……ごめんね、にひと。ミオ、わがまま言って…それに、嘘つき、なんて……」
「いい。俺だって、最初にミオを連れてきたのが、俺のわがままだ。だからいい」

あのとき呼び止めなかったら?
あのときもう一歩前に踏み出せていれば?
キリがない。だからこそ、キリをつけなければならない。

「――だから、行ってくれ。君たちの海へ行くんだ、……ルイと、一緒に。行きなさい。……それが俺の、最後のお願いだから」

小さく頷いた少女の頭に咲いていた、ひときわ大きな青い花がはらりと落ちた。
見る間に蕾が生えてきて、再び花が咲く。そのとき、アルラウネの少女の描く表情は、もう別人のものだ。

「ん……分かっ、た。一緒に、行く。にひとのお願い、だから……ちゃんと、聞くね……」

もはやガラクタとしか形容できない、ずんぐりむっくりとした身体が、そこにあった。
ひび割れた装甲をつなぐように無数に張り巡らされた植物の蔦と根と、表面張力でその場に留まっているような液体が、ゼービシェフを立たせている。ハイドラとしての形を保たせている。

「あのぉ……にひと、お兄ちゃん?」

困ったような顔をされた。ミオによく似ていた。

「いや、いいんだ……そうだ。そうだ、ミ……じゃない、ルイ?」
「うん!なあに?」
「君たちは、……君たちは、もう、行ってしまうのか」
「……うんっ。だって、るいも、ミオも……もう死んじゃった子だもん。死んじゃった子は、あの世に行くの……そういう、決まりなの」

悲しい顔をしないでほしかった。そんなことを言っても、無理なのは分かっていた。お互いに。

「……なにか……持ってってもらうのは、できるかな。ミオのために……だっ、あ、その……別に処分に困ってるとかじゃないんだ……」
「え……それって、おそなえもの?いいよぉ!るい、持ってってあげる!」

ぬいぐるみ。ヘアピン。気に入っていた服。――それからいつかの手紙の返事。子供に持たせるのにちょうどいいものが何もない。数秒迷って、自分の首に巻いていたタオルを取った。ビニール袋に包んでから、渡すものをくるんだ。長めのビニタイで縛れば、簡単な袋の完成だ。

「えー、これだけでいいのぉ?」
「いや……それだけでいい。大丈夫だよ」
「そっかぁ。……よぉし!るいにまかせてっ!」

二人が、どれだけ二人でいられたのだろう。
何事もなく過ごせる世界を、次こそは彼女たちに望みたかった。いつかまた会えますように、輪廻転生の先でいつかまた。いつになるのかなんて、そんなことは知ったことではない。
何を言ったらいいのかわからない時間の中に、小さな足音が響いた。

「あたしは一向にいいけど、あなたが等身大のお人形遊びに励みたいってわけでもないんだから……ニーユ!」

アルラウネの少女がぎょっとした顔をした。

「忘れ物よ」
「あっ。……あっ、ああ、……そうだな。それはミオのだもんな」
「全くだわ。目的が達成されたんなら、もういいでしょう?ほら」

それもそうだろう。自分と全く同じ姿形の人型が、自律してこちらに歩いてくるのだから。“ヒューマノイドのミオ”の処分にも確かに困っていたことには口をつぐみつつ、ベルベットの配慮に感謝をした。よくできたAIだ。
手を取る。双子が双子として、この世界で顔を合わせるのは、これが最初で最後。

「うわぁー、びっくりしたぁ。えーと……ベルベットちゃん、だよねっ!ありがとねぇ、るい、たっくさん感謝しちゃうよ!」
「そうよ。あなたのきょうだいを最初に見つけたのもあたしなのだわ!感謝なさい!じゃあまたね、ルイ」
「うんっ!それじゃあもう行くね、にひとお兄ちゃん!」
「――待って。……にひと。あの、えと……えとね」

耳打ちをされようとしている。屈み込んだ、その次の瞬間だった。

「――」

――低い、低い、鳴き声がした。
知らない言葉の、知らない歌だ。次の瞬間には、続いていた頭痛も、そこにいたはずの『オカミ』たちも、忽然と消えている。
呆然と立ち尽くしていた。長い夢を見ていたような気がした。汗を拭おうとして手に取ろうとしたタオルがないことに気づくまで、もう数瞬。

『海に連れてきてくれて……一緒に、見てくれて、ありがとう。』

霧が晴れている。
霧が晴れていた。
迷いも後悔も怒りも憎しみも、すべてを飲み込んだ霧が。