Day3:幸運か、あるいは悪運か

海はもはや、ヒトのものではない世界。
それがこの世界である。かつてヒトが踏み躙った海は、逆にヒトを踏み躙り、そして今は形骸的に手を取り合い、世界は何事もなく回っている。
ヒトから海を取り戻そうと反旗を翻したのは、ヒトの手によって水族館で飼われていた、水族館生まれの人魚だった。見せしめのように海沿いの街を一つ潰したのをきっかけに陸と海との間で苛烈な戦争が勃発し、陸にも海にも等しく血を流した。ヒトが停戦の道を探ろうとしたとき、魚は言い放ったのである。

『ぼくたちの海を返せ』と。

数年続いた戦争はそうして幕を下ろし、ヒトは海での覇権を魚たちに明け渡すことになった。とはいえ陸と海は切っても切れない関係であり、陸から海を害することはひどく簡単で、その逆もまた然りだった。ヒトの知の結晶に魚は勝てず、魚たちが連れてくる自然災害の前にヒトは無力なのだ。幾重の意見のすり合わせを経て、陸ではほぼ今までと変わらぬ生活を保障し、海には新たに国家が生まれることとなった。
それが、彩の海底国アルカールカである。
かつて女王のいた水族館の名を冠した海の国は、若い女王の下、海の下で発展を遂げ続けている。


「――以上百十四名を今年度の試験合格者とする。名前を呼ばれた者はこのままこの場に残り、必要なものを教官から受け取るように」

騎士団の最終試験の、結果発表が行われていた。ご丁寧に長い名前をひとりひとりフルネームで読み上げていくので、やたらと時間がかかることに定評のあるそれは、去年の自分も通った道であった。

「キノイーグレンス!手伝ってくれ」
「あいッス」

キノイーグレンス・リーガレッセリー。リュウグウノツカイの型を持つ深海人だ。アルカールカ海底騎士団第二十二小隊に今年から配属になった新人騎士は、去年の自分と同じように一喜一憂する未来の部下たちを眺めていた。
ごもっとも、このうちの何人かは、あっという間に上の立場に上がっていくのだろう。一桁台の小隊に配属されるのは成績優秀者とエリート。そこに入り切らなかった優秀な原石たちは十番台。そこにすら引っかからなかった、かといって落ちこぼれではないのがそれ以降……そんな枠の新人の一人が、キノイーグレンス・リーガレッセリーだ。別にひどく不真面目だったわけでも才能がなかったわけでもない。深海人の能力はその型によるところが全てだし、そこまで向上心があるわけでもないキノイは、安定した立場を得られて心底安心していた。リーガレッセリー家は代々騎士の家系で、数年に一人は必ず一桁台の小隊の一員として名を連ねることで知られていた。眉目秀麗、それでいて深海の圧に負けない頑丈さを総じて持ち合わせ、どの家よりも、皆が忌避する深海に向く。元より深海魚の型であるから、それは当然のことなのだ。

「今年はリーガレッセリー家は出てこなかったなあ」
「来年ッスよ来年ー。来年の期待の新星、激ヤバですよ。もうすでに俺よりスゲーっすもん、第一小隊待ったなしッスかね」

のし上がろうとか、手柄を立てようとか、そういうのはどうでもいい。キノイはただ、このアルカールカで、それなりの立場を得て、それなりに暮らしていきたかっただけである。なんてったって、女王ベルテットメルフルールの庇護のある限りで、アルカールカは敗けを知らないらしいのだから。

「……二十二小隊からそんなこと言われてもなあ」
「それ隊長が言うッス?」
「俺はこれでも十三小隊上がりなんだぞオメーよぉ。まー番号でかいと気楽でいいのはあっけどな」

騎士団と言う割に、その仕事は多岐に渡っている。女王や城の警護はもちろんのこと、アルカールカを守護する神の命で、異世界に派遣され調査を行うようなこともある。そんな大袈裟なことばかりでなく、街の見回りからちょっとした困ったことの解決まで。無論、雑多であればあるほど、それらは下の番号の小隊に回ってくる。キノイの所属する第二十二小隊は、早い話が便利屋あるいはパシりと上から揶揄される、そんな隊であった。今だって、第一小隊の隊長が名前を読み上げたあと、必要なものを配って回るのに運び屋をさせられていたのだ。

「別に俺、カッコよく生きていきたいわけでもなんでもねえッスもん。平和主義ってやつッス」

担ぐ石杖は、付き合いのある家の幼馴染が作ってくれた特注品。リーガレッセリーの血筋にしては珍しく力のある方だったキノイは、取り回しやすく設えられた武器よりも、力を遺憾なく発揮できる石杖を選んだ。水中ではそうそう重さは関係ないものになるが、陸に上がったときはまた変わってくる。魔力触媒になる石は、真珠層で丁寧にコーティングされてキラキラと光っていた。

「若造がそんなこと言うってのもなー。俺のときはもっと野心まみれでギラギラしてた」
「隊長と一緒にされても困るッス」

二人の足が止まる。
左胸に提げられている、騎士団章がちかちかと光っていた。

「……」

そうして流れ込んでくるメッセージ。それは、緊急事態を告げるアラート。

《第十一小隊以下の全騎士団員に告ぐ》
《ディープリズン北より“アビス・ペカトル912番”が逃亡》
《第十一小隊以下の全騎士団員に告ぐ》
《“アビス・ペカトル912番”を拘束し、ディープリズン北に収容せよ》

目を見合わせる。そうしていたのも数瞬の間で、新人騎士は石杖を担ぎ直すと、水を蹴って加速した。


アルカールカ海底騎士団の騎士団章は、簡易な通信機としての役割も果たす。送信受信は一方向的で、先程のアラートのような命令などの受信か、本部への簡素な報告の送信しか行えない。誰かが逃げ出した罪人を捉えて報告を入れれば、命令を受信している全員に改めて報告が来るはずなのだ。命令を受信してしまったので探し回ってはいるものの、誰か早く見つけてくれねえかな、という思いで、キノイは泳いでいた。その証拠に、誰も探しに来なさそうなところを漁っているので、騎士団の誰とも合わない。スタイリッシュサボりもいいところだ。
そのうち第一小隊以下もきっと動員されるんだろう。“アビス・ペカトル”……即ち重罪人の逃亡とあらば、責任は相当重いのだろうから。

「……」

アビス・ペカトル912番、ネーレーイスの女……なので耳長。エメラルドグリーンの髪に赤い瞳、恐らく手枷足枷は残存。複数の船沈めの犯人、反省の色は一切なし。手枷と足枷に魔封じの刻印がなされているが、破損がある場合要注意のこと。

「……新人にやらせる仕事じゃないんじゃないッスかね……」

情報を整理しつつ、キノイはぼやいた。
そうして泳いでいる間に、僅かな魔力を拾った石杖が光り輝く。淡い光で瞬いていたのが、泳ぎ進めるにつれて光は強くなっていった。

「(いる)」

直感する。魔力探知は切って、あとは野生の勘に頼ることにした。なんとなくぴりぴりする方面へ舵を切って、……岩陰に、その姿を認める。

「……!」

アビス・ペカトル912番こと、ドリスルーブラ・メルゴモルス。アルカールカとの対立が根深いネーレーイスの一族の出で、彼らの支配海域は『魔の海域』とすら呼ばれる。アルカールカの末端を僅かに掠めるように存在しているその海域は、よく第一小隊や第二小隊が派遣されている場所でもあり、陸の人間の船の沈没事故が多発する場所でもあった。

「(……なに、してるんだ)」

ぶつぶつと呟いているのは何かの詠唱だろう。足元の砂地に書かれているのは、魔法陣だ。……何処かで見た覚えがある。騎士団予備隊にいるときに教わった。転移の魔法陣だ。それも異世界に向けた!

「(マジか)」

講師の話がめちゃくちゃ面白かったので、よく覚えていた講義だった。中身には関係ないけど、と言って書いてくれたものの一つに異世界へ向けたコードがいくつかあって、見覚えのある一つがそこにあるのだ。どこ行きなのかはさっぱり分からないが。
とりあえず発見報告を入れようと、騎士団章に手を触れた、まさにその瞬間だった。

対の赤い目がギラリと輝いた。確かに、確かすぎるほど確かに、その両目を、キノイの方に向けている。

「……ッ!」

すぐに何かしらの魔法が飛んでこなかったのは、詠唱中だからなのだろう。口さえ空いていれば、それこそ視線より先に魔力の塊が飛んできていたに違いない。もはや隠れていることは無駄であった。水を蹴って飛び出してきた相手を、さしたる驚きもなく、罪人は見遣る。

「アビス・ペカトル912番!深海牢に、戻ってもらおうか!」

威勢良く叫んだのはいいものの、ぶっちゃけどうしていいかは分からなかった。捕らえるって言ったってどうしろと言うのだ。ただ報告は入ったし、異世界に転移さえさせなければこちらの勝ちだ。あとは援軍の皆々様が、いい感じになんとかしてくれる。

「(書き換える……場所……わかるかこんなん!!)」

魔法陣を安全に書き換える、あるいは無力化するために、手を入れていい場所と悪い場所がある。闇雲に手を入れては魔術が暴発し、最悪の場合人が死ぬ。そういう事態を防ぐため、予備隊時代に勉強した。……アルカールカ式の記述法は。
杖を構えて固まった姿がさぞ滑稽だったのだろう、複雑な呪文を唱えながら罪人が笑っている。魔法陣の文字が輝く。術の完成が近い。

「――ッ!!」

キノイは、元来の頑丈さに、そして己の運に、すべてを賭けることにした。不勉強だと言われたら、言われてから勉強すればいいと思うことにした。アルカールカ式なら間違わなかったとか、適当なことを言っておけはいいのだとも思った。アルカールカ式であればそこを断ち切れば間違いない部分――外周の文字配置が少なく二本以上の線が交わっている場所――を、振りかぶった石杖で抉り取る。魔力触媒の石が激しく発光しながら魔法陣を破壊するのと、罪人が詠唱を終えるのは、ほぼ同時だった。

「――」

数瞬の沈黙。
発動しない魔法。

「やっ――」
「死ね」

背筋の凍りそうな、それこそ今すぐに首を刎ねられそうな、そんな声だった。海の底からそのまま上がってきたような、ぞっとするほど冷たい声。こいつ確かに罪人で、深海牢にいたんだと思わせるようなそれだった。次こそ本当に魔力の塊が飛んでくる。そう察して身構えたが、いつまで経っても飛んでくる気配はない。そしてその間に、足元から立ち昇る強烈な魔力と光に包まれていたのに、どちらも気づけなかったのである。
浮遊感。肩を掴んでめちゃくちゃに揺すられるような、抗えない力。どこかへ引きずり込まれていくような力。
その何れもが止み、次に目を開けたそこは、――確かに海であった。

「……え?」

ただ――

「……どこだここ」

キノイーグレンス・リーガレッセリーのよく知る、アルカールカの海では、なかったのだ。見知らぬ海だった。同じ色をしているくせして全く別物の、――何も知らない、分からない海。


(→:Reis Day3へ続く)